婚約破棄を宣言する王子の隣で、前世の記憶が戻りました
「フィレーラ、悪いが君との婚約は破棄させてもらう。これは正当な理由によるものだ」
夜会のクライマックスで、第五王子のアグル様が公爵令嬢のフィレーラ様に宣言した。
大勢の前でいきなり宣言され、クールなフィレーラ様もさすがに少し驚いた顔をしている。
だが彼女以上に驚いているのは、アグル様の隣にいる私だ。
婚約破棄と同時に、頭の中にとんでもない量の情報が入ってきたからだ。
今まで封印されていた――前世の記憶の数々。
やなぎ……さくら…………。
そう、私は日本人だった。それが転生して異世界の男爵令嬢ナサリーとして十八年間生きてきた。
そしてもっと大事なこと。
それはここが日本で読みかけていた小説の世界だってことだ!
「君が俺を尊敬していないのは知っている。それどころか日頃陰口を叩いていたと君の元従者が教えてくれた。そのような女とは、結婚などできない」
「……お言葉ですが、私が殿下の陰口を叩いたことなどありません。元従者とは、うちで窃盗を働いてクビにした者ではありませんか?」
毅然とした態度でフィレーラ様は指摘する。そしてそれは当たっていたりする。
クビになった者をアグルが拾って利用しているのだ。
それにしても彼女は原作通り美しく気高い。
対照的に私の隣にいるアグルは……だいぶいっちゃっている人で……
「ふん、まあいいさ。君のように俺を尊重しない女は婚約者にふさわしくない」
「お隣にいる方が、ふさわしい方だと?」
「そうだ。ナサリーこそ俺の婚約者としてふさわしい」
高々と言って、私の肩を抱き寄せてくる。
悲鳴をあげたい気持ちを堪えつつ、私は頭をフル回転させる。
神よ、どうやってこのピンチを乗り切ればいいというのか?
私にはナサリーの記憶もある。
そしてそれは小説で描写されていたものと一致する。
ナサリー・ディルス。
彼女は可愛らしい顔、豊満な胸、誰も拒絶しなそうな柔らかい雰囲気を持つ。
まさに男の好きな要素を詰め込んだ女性で、いろんな男に言い寄られて育った。
だが強烈な欠点があり、それは非常に気弱だということ。
断ることができない。ノーと言えない。
そこだけ見えると日本人みたいだけど、とにかく断れない女だ。
男に「よし、俺でもいける!」と思わせる天才であり、実際何人もの人がナサリーを彼女だと思い込んでいる。
殿下もその一人だ。
フィレーラ様は私を見定めるようにして、決定的な一言を放つ。
「有名な方ですから知っておりますわ。沢山の殿方と噂になっておられますね」
訳:とんでもないビッチですよね。
だいぶ柔らかく表現してくださってありがとうございます……!
原作でも『無自覚ビッチ』と呼ばれていたほどだ。
なんで私の転生先がナサリーなのですか神様?
前世では仕事が終わったらセール中のお弁当を買って帰り、マンガ片手にアニメとドラマのマルチタスクをこなしていた女だ。
だいぶ干物感あったのに、急に男にモテまくるビッチに転生されても魂がついていけないという話である。
アグルが鼻を鳴らす。
「悪評など、すべて他の女による嫉妬だ」
いいえ、だいたい事実です……。
「ナサリーは君と違って俺の存在を否定しない」
「私も殿下の存在を否定したことはありません」
「嘘つけ! この間も、他国との食事会で俺の食い方を馬鹿にしただろう」
「あれは他国の食事マナーでは失礼にあたるため、控えた方がいいとの判断で」
「黙れ! そういうのが鬱陶しいんだ。ナサリーは一度だって俺の行動を否定したことはない」
実際、記憶を戻す前の私はフィレーラ様とは正反対の女だった。
自己肯定感が低く、自分の意思もなく、特に男性に流されてしまう。
「とにかく、君が円満に別れないのならばこちらにも手はあるぞ」
「……そこまでするほど、お二人は深く愛し合っていると」
「そうだ! 俺はナサリーを愛している。君だって同じ気持ちだろう!?」
「……それはどうでしょう……」
周囲が静かだったこともあり、私の声はよく通った。
一瞬、アグルやフィレーラ様の動きが止まる。
「す、すまない。聞き間違いかもしれない。もう一度だ。フィレーラの前で、ハッキリと言ってやるんだ!」
「――全く愛しておりません」
拒絶に硬直するアグル。
自分でも驚いた。
こんなにもハッキリと言えたのは、ナサリーの人生で初めてにも思える。
でも前世の記憶が戻った今ならわかる。
嫌なものは嫌といっていいし、時には強く表現すべきなのだ。
曖昧に微笑しているだけでは本心どころか、曲解されて伝わってしまう。
「私の曖昧な態度のせいで殿下を勘違いさせてしまいました。そこは私にも責任があります。ただ本当の私は、誰のことも愛していないんです」
「……うそだ……俺を愛しているって……」
「言った覚えは、ありません」
実際言っていない。
ナサリーは困った時に笑顔を作るのが癖だ。
皮肉なことに、それが男たちからすれば自分を受け入れてくれる母親のような微笑に見えるのだろう。
「お前はきっと…………そうだ、照れているだけだろう? この間だって二人で出かけてアクセサリーもやったはずだ」
「はい。頂きました」
「ほらっ。相思相愛じゃないか」
「私は一度も結婚したいと申したことはありません。その主張は同じです。頂き物はすべてお返しいたします。愛はどのようにお返ししたらいいかわかりませんが……」
クスクスと周囲の貴族たちからは笑いが漏れ出す。
この状況、アグルからしたら屈辱以外の何ものでもない。
しかも第五とはいえ、王子がたかが男爵令嬢に相手にされないのだから。
ここでフィレーラ様が一歩前に出る。
「お二人の間で意見の違いが見られますが」
「これはっ、そのっ!」
「どうであれ婚約破棄については承知しました。家同士の問題はありますが、レイルズ公爵家はすべてを受け入れるでしょう」
「ちょっと待て。その件については、もう少し冷静に話し合いたい」
恋に溺れていたアグルは我を取り戻したのかもしれない。
冷静になって考えればレイルズ公爵家の力は絶大。
それを捨て、その上婚約者も手に入らない。
今夜の話もあちこちに広がれば、待っていた輝かしい未来も壊れてしまう。
「……話し合う? もうすべて理解しましたし、破棄は受け入れました」
「前言撤回したい」
「受け入れられません。本日はこれで」
もう話すのも嫌だといった様子でフィレーラ様は立ち去っていく。
失ったものの大きさにアグルは茫然とする。口をぽかんと開けており、実に情けない。
「大変お騒がせしました。それでは」
目が合ってしまったので、私も一礼をして歩き出す。
そそくさと立ち去ろうとするとアグルの怒声が飛んでくる。
「そのような判断が許されると思うなよ! お前は過去に俺の求愛を拒まなかった。よく覚えておけ!」
つまり、簡単には逃がさないということだ。
☆
原作ではアグルとナサリーは結ばれる。
その後、アグルによってフィレーラ様は悪評をばらまかれ、嫌気がさして国を出ていく。
そこからが問題だ。
フィレーラ様は他国の王子と結婚し、このバレンシア王国に敵対する。
結果、バレンシアは負ける。
「……国外に逃げようか」
翌日の昼、私は部屋で荷物をまとめていた。
一応、国を出る準備はしておく。
原作とは少し違うとはいえ、アグルとフィレーラ様の婚約破棄が成立したところは同じ。
もしフィレーラ様が国を出る展開になったら、バレンシアは終わりと思った方がいい。
そうでなくても王子に目をつけられている。
「ナサリー、レイルズ公爵家から使いの人がきているわよ!」
下の階にいた母からそう声がかかる。
私は動揺しながらも下りると、本当に公爵家からの使いだった。
馬車も用意されており、可能であれば今から屋敷に来てほしいとのこと。
「フィレーラ様がお呼びでしょうか?」
「いえ、イレオン様です」
なぜイレオン様……?
彼はフィレーラ様の兄で相当な切れ者だ。原作での人気もめちゃくちゃ高かった。
不安を抱きつつも私は用意された馬車に乗った。
うちとは違う立派な邸宅に到着すると、入口で執事が待っていた。
彼がイレオン様の書斎まで案内してくれる。
中に入ると、椅子に座っていた彼が立ち上がる。
「急な呼び出しに応えてくれて感謝する」
目の前に立った彼に、私は圧倒される。
白銀の髪に透き通るような肌、中性的なのに異性をしっかりと感じさせる顔立ち。
スタイルも非の打ち所がない。引き締まった体型ながら鍛えているのがわかる。
あまりのイケメンを前にして私は言葉を発するのをしばし忘れてしまう。
「どうかしたか?」
「ああ、いえ! イレオン様にお呼び出しされるとは思っていなかったので」
「ああ、そうだな。まずは座ってくれ」
用意されていた豪奢な椅子に私は腰を落ち着ける。
机を挟んで彼が奥側に座る。
真正面から見ても顔が良くて、別な意味で緊張してきた。
「早速だが昨夜のことだ。私も参加していてな。少し……いや、だいぶ驚かされたよ」
彼は興味深そうに私を見つめた。
イレオン様は確か二十三歳だ。日本だとまだまだ子供っぽい人も多いが、彼はまるで違う。
すでに社会でも活躍している。
「私が最も気になったのはなぜ君が殿下を拒絶したかだ。愛しているのではなかったのか?」
「愛したことはありません」
「ではなぜ殿下の求愛を受け入れていたんだ?」
「断ることができず、流されてしまいました」
これを聞いたイレオン様は少し呆れたような表情を浮かべ、首を傾げる。
「君は十八歳で大人だ。子供でも自分の意見は言える。それを君は言えなかったと?」
「はい。私は気が弱くて、強く押されると断ることができない性格でした」
「だとすると、昨日の君は別人のように感じるな」
さすがイレオン様は頭が回る。
大勢の前で殿下の婚約を拒否するなど、むしろ気が強い女性でもできるかわからない。
それを気が弱いはずの私がやってのけた。
変に隠さない方がいいと判断して、私は正直にことを話す。
「昨夜の揉め事の最中、私は前世の記憶を取り戻したのです」
「……前世の?」
「疑う気持ちはわかります。でも本当です。異世界でナサリーとはまるで違う人生でした。そちらの素が出て、ああいった言動になりました」
彼は腕を組み、訝るような顔をした。
腕組みは心理的に警戒したときに出やすいというが、まさにそれだろう。
「では異世界の話をしてみてくれ」
疑いの晴れない状況なので、私は日本のことを説明していく。通貨から身分制度から社会の在り方から。
都度、彼から鋭い質問が飛んでくるので、私にできる範囲で答えた。
一時間もすると、イレオン様の警戒は興味に変化していた。
「いや、すごいな……。作り話なら矛盾点を突こうと思ったが、事実にしか思えない」
「少しでも信じていただけたら幸いです」
「実に興味深くはあるが──やはり昨日の点は解せない。殿下の婚約をわざわざ断る理由が弱い」
その通りで、むしろ前世の記憶があるならもっと打算的に動いてもおかしくはない。
王家に喧嘩を売るような真似は不自然にすら思えるはず。
「……それですが、私は殿下よりフィレーラ様の気分を害する方が怖かったのです」
「ほう。わかるように説明してくれ」
「はい」
優秀なフィレーラ様がこの国を嫌って出ていくことになったら大きな損失になる。
また彼女に敵対される方が怖かったと正直に伝えた。
すると彼は初めて、明確に驚いたように目を見開く。
「フィレーラが国を出て行きたがっているとよくわかるな……。実は以前からそうで、私としても困っていた」
あくまで婚約破棄はきっかけで、内心ではこの国が合わないと考えていたってことかな。
少し安心したようにイレオン様が言う。
「昨日の件は望まぬ婚約も破棄になり、むしろ喜んでいるはずだ。しばらくは大丈夫だろう」
「フィレーラ様を貶める噂などにだけは、注意した方が良いかもしれません」
「そうだな」
原作のフィレーラ様は周囲から責められたりしたので、その展開だけは避けたい。
イレオン様は椅子から立ち上がる。
「話はこれで終わりだが、一つ頼みがある。これから定期的にうちに来て、お茶会をしないか?」
「お茶会、ですか?」
女性の集まりでお茶会はこちらでも普通のことだが、男性からのお誘いは珍しい。
「異世界の話に興味がある。制度や風習など、こちらにも活かせるものがある気がしてならない」
私は少し彼を尊敬する。
働き者であり、それでいながら視野が広い。私の前世のことも、少なくともある程度は信じてくれている。
彼はさらに言い加える。
「もちろん嫌なら断ってくれていい。そうしても君に不利益は起こらない」
「断っても……いい」
「ああ。頼み事だ。本来そういうものだろう?」
私は驚く。この人生で、男性から断る自由を与えられた記憶はないからだ。
彼は余裕があり、こちらの意思を尊重していることでもある。
「お受けいたします。私の話がイレオン様のお役に立てるのなら幸いです」
「今日は実にいい話が聞けたよ。帰りの馬車を出そう」
帰り際、彼からクッキーまでもらった。
家に帰って食べると、こちらの世界で食べたものの中で一番美味しかった。
数日後、私は再び公爵家を訪れる。
お茶会のためだ。
今度は書斎ではなく手入れの行き届いた庭園の中、紅茶を飲みながら二人で話す。
今日は日本での私の生活の話が中心だった。
「スーパーか……。そんなに色んな物が置かれているのは興味深いな」
「管理する方は大変ですが、買う側は本当に便利です。貴族と平民も関係なく、自分の好きなものを選べます。私はあの空間が好きでした」
情景を思い浮かべて懐かしんでいると、イレオン様は小さく何度か頷く。
「身分差なく、か。君は面白い視点を持っているな」
知識というよりは私の偏見のない考えの方に彼は強く反応し、惹かれているようだった。
他にもアニメやマンガの話などもした。
私がお気に入りのマンガの爆笑エピソードを伝えたら、初めてイレオン様が笑った。
あのクールな彼をも笑わせるとは、物語の力はすごい。
それとここが小説の中と同じ世界ってことは黙っておく。
胡散臭く思われるのは避けたい。
「イレオン様、お出かけになる時間です」
屋敷の執事が庭にやってきて告げた。
「もうそんな時間か? まだ三十分くらいだろう?」
「いえ、二時間が経過しております」
「そうか……」
思ったより時間が経っており、イレオン様は動揺を見せた。
私も同じ気持ちだ。お互い話に夢中になっていたので時間が過ぎるのが早かったのだろう。
「ではナサリー。二日後の午後にまた来ることはできるか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「では二日後に」
次の約束を取りつけてから、彼は急いで屋敷を出ていった。レイルズ公爵家は多くの領地を持ち、武力も相当なものだ。
外交にも絡んでいるし、彼も相当に忙しいはずだ。
それでも、その後も私はお茶会に呼ばれ続けた。
何回目かのお茶会が終わったときのことだ。
帰る際に屋敷のメイド達が私に集まってきて尋ねてくる。
「ナサリー様はいつもどのようなお話をされているのですか!?」
「ええと、主に日常生活などを。なぜですか?」
「あんな楽しそうにするイレオン様は初めて見るんです」
「私なんて五年勤めてますが、笑った顔を初めて見ました!」
イレオン様は屋敷でもあまり楽しそうにはしない人だったらしい。
私の話に退屈はしてなさそうで安心した。
実際私も彼と話すのは楽しい。
知的で着眼点がよく、柔軟な考えの持ち主だ。ずっとお茶会を続けていたい! と思っていたのだが……平穏な日は続かない。
アグルからの連絡が増えてきた。
まず手紙が多い。内容はいま思い直すなら特別に許すといったもの。
更には頼んでもないのに贈り物もよこす。以前の物と合わせて、全て返すだけでも大変だ。
私からの返事がないと、内容がひどくなってきた。
『君はフィレーラに脅されて俺を拒絶していたんだろう? そう証言するべきだ。できないのならディルス男爵家の未来はない』
この直後、父の仕事にも圧力をかけてきた。
そのため私だけの問題だけでもなくなっていた。
「──最近、元気がないな。なにかあったのか?」
お茶会の最中にイレオン様が言った。
自分では気をつけていたつもりでも顔に出ていたようだ。
「いえ、なんでもありません」
「何かある顔だった。言える範囲で言ってみると楽になるかもしれない」
「……実はアグル殿下のことでして」
彼は思いの外話しやすい。つい口を開いてしまう。
起きていることを伝えると、彼はしばらく黙って考え込んだ。
「あ、でも平気です! 私の方でなんとでもなりますから」
「そうか。でも私の方からも何か手は打ってみよう」
「ありがとうございます。無理のない範囲で大丈夫です」
「そのつもりだ」
その会話から一週間後、私はとある変化に気づく。
アグルからの手紙が一切こない。
イレオン様が何かやってくれたのかな?
お茶会のときに聞くと、彼はいつもの口調で教えてくれる。
「書状を出しておいた。大したことではない」
えぇ、それは大したことのような……。
だからしつこい手紙もなくなったのか。
嬉しい気持ちの半面、イレオン様の立場が悪くなりはしないかと不安になった。
「その、平気なのですか? 王家の圧力的なものとか……」
「うちは王家の御機嫌取りをするような貴族じゃない。問題ないよ」
確かにいくら王族といえど、レイルズ公爵家を簡単にどうにかできるとは思えない。
「それより今日は、私も馬車で送ろう。時間があってね」
「ええ、では馬車で選挙制度についてでもお話しましょう」
「ああ、すごく面白そうな話題だ」
私は帰りの馬車で、イレオン様と隣に座っていろんな話をした。
「あっ」
「……」
途中、距離が近くなりすぎて指が触れ、お互いに少し距離を取る。
ただその後も、すぐに楽しい会話に夢中になれた。
家に到着すると笑顔で馬車から降りる。
ただその笑顔は一瞬で消え失せた。
「アグル様……如何なさったのですか?」
そう、家の前でアグルが待っていたのだ。
彼は私たちを見るなり激憤して詰め寄る。
「そういうことだったのか! お前たち、裏で関係を持っていたのだな。どうりであんな書状を出してくるわけだ!」
「アグル様、誤解ですっ。私はただお茶会に招かれただけで……」
「お茶会だと? その冷徹無慈悲な男がお茶会でなにをする? 殺し合いでも見ながら紅茶を飲むのか」
この人は、どれだけイレオン様に偏見を持っているのだろう。
確かに誤解されやすい人ではあるけれど、倫理観はしっかりしているのは私にはよくわかる。
怒りが収まらないアグルは、イレオン様の胸ぐらを掴む。
「裏で王子の婚約者に手を出すなど言語道断。例の夜会で俺の婚約を受けなかったのもお前の指示か、イレオン?」
「何の話でしょう。殿下は誤解しています」
本当にそうで、少なくともあの夜会の時は私たちは知り合いですらなかった。
ただ暴走したアグルは止まることを知らない。
「見え見えの嘘を……。俺がフィレーラに婚約破棄すると知ったお前は、ナサリーに指示してああ言わせたんだ」
「アグル様、あれは私の意思です。命令されたわけではありません!」
「お前は何の弱みを掴まれている?」
「弱みなんて掴まれていません」
「俺がなんとかしてやると言っているんだ。選べ。俺かイレオンか。いや、王家か公爵家か」
血走った目で私に迫ってくる。
めちゃくちゃな問いだが、こうもアドレナリン全開だとかわすのも難しそうだ。
私は意を決して答える。
「私にそのような権利はありません。ただ一つ、どちらと話すのが楽しいかと言われたら……断然、イレオン様です」
「っ!?」
面食らった様子でアグルは後ろに数歩下がる。
逆に、私に選ばれると思っている時点でどんな精神構造しているのよ……!
だらんと肩を落として、急に変な笑い方をしだす。
「くふふ、ふはっ、ふははははは──黙れこの淫乱女がっ!」
「え!?」
突然、私の顔面に殴りかかってきた。
咄嗟のことで私は固まってしまう。
目を閉じることさえできない私が食らえば大惨事だったが、そうはならなかった。
直前でイレオン様が受け止めてくれたからだ。
「くっ、離せイレオン!」
「……殿下、それは私に対する暴行でもあります」
明らかな殺気がイレオン様から漏れ出す。
アグルも眉を八の字にして怯える。
「殿下は一度でも戦場に出られたことはありますか? 私は剣を向けてきた相手には容赦しません」
迫力も実力も圧倒的な差がある。
威勢の良かったアグルもすっかり縮み上がり、戦意喪失している。
「は、離せっ」
手を振りほどくと、アグルは私たちに恨めしそうな目を向ける。
「俺をコケにしたことを必ず後悔させてやる。このまま黙って引き下がると思うなよ」
捨て台詞を吐くと、彼は帰っていった。
私は緊張の糸が切れると、足が震えていることに気づく。腰が抜けそうになったところをイレオン様が支えてくれた。
「私のせいで、ご迷惑をおかけしました」
「迷惑? よくわからないが、私にとっては大したことじゃない。そんなことより……」
震える私の膝に、彼は指先で少しだけ触れる。
「こんなに怖がっていたのに、私を選ぶと言い切ってくれたんだな。……嬉しいよ。君はとても強い女性だ」
興奮もあるのだろうか。
イレオン様の瞳は熱を帯びているように見えた。
「また、お茶を飲もう。色んなことを話していこう」
「……はい!」
微笑むイレオン様を見ると、嫌な気分が吹き飛んだ。
☆
父の付き合いで夜会に参加することが多いのだが、出るたびに違和感を覚えるようになった。
同情的な目を向けられることが多いのだ。
「大変でも、負けてはいけませんよ。神様は見ておられますから」
このような意味不明な言葉を奥方にかけられたり、
「ここだけの話、私は殿下を支持しています。必ずや助けが入ることでしょう」
こういったことも言われる。
一度だけならまだしも、次の夜会でも似たような感じになる。
その原因は、しばらくしてわかった。
どうやら公爵家の悪評がばらまかれているらしいのだ。
フィレーラ様とイレオン様がターゲットだ。私は兄のイレオン様に脅迫されていて、例の夜会での言動も本心ではなかった。
そんな噂が気付けば貴族界に広がっていた。
当然、犯人はアグルだ。
例の従者を連れて小さな夜会にまで足を運び、公爵家を貶めているとか。
私も動かざるを得ない。
これは最悪の展開にいく可能性もあるからだ。
原作とは細かいところは違っても、フィレーラ様が貶められるところは同じ。
さらにイレオン様まで加わるのだから、なんとしても止めたい。
来週、アグルの生誕祭があり、私にも招待状が来ている。
公爵家も参加するので、そこで何かやってくるはずだ。
私に何かできることは──
原作の知識を活かすときだ。
作品ではアグルと組んでいた元従者は、最後は殺されて終わる。
多方面に恨みを買っている人間だったのだ。
そこで私は公爵家にお邪魔して、メイドたちに元従者のことを教えてもらう。
案の定、彼にいじめられて辞めた者が数人いた。
そこでイレオン様に報告する。
「念の為、夜会には彼女たちも同行させた方がよろしいかと思います」
彼も懸念はあったようで深く頷いた。
「……人事記録で居場所を調べ、協力を申し出よう」
「私もついていってよろしいですか?」
「ついてきてくれるのか。むしろありがたい」
そうと決まれば私たちはすぐに動き出す。
リストから対象を三名に絞る。
移動の馬車の中で、イレオン様が不思議そうに言う。
「どうして君は、そんなに私たちに肩入れする? フィレーラか?」
「それもありますけど、私怒ってるんです。イレオン様を知らない人たちが冷酷とか脅迫とか……いい加減にしてほしいですよね」
「私のために、怒ってくれているのか?」
「だって、本当は優しいじゃないですか。もっと広めるべきです。私だけ知ってるなんてもったいないですよ」
内心をそのまま吐露しただけなのだけど、彼にとっては衝撃があったらしい。
目を何度か瞬かせてから、彼は堪えきれないように笑い出す。
「やはり君はおもしろいな……。なかなか見ない女性で、すごく新鮮だよ」
「大袈裟ですよ〜」
実は嬉しかったので照れ隠しもあってそう言った。
彼は外を少し眺めた後、後悔を口にする。
「元従者の件は私のせいなんだ。フィレーラはすぐに兵に突き出すべきだと言った。だが私が温情をかけ、クビだけで済ました」
そこは小説にも書かれていない。
私はなぜかと尋ねた。
「……病気の親がいる。守りたいと泣きつかれてね」
やっぱりイレオン様は情に厚いところがある。
「お優しいのですね」
「いや、私は単純に羨ましかった。うちは強い者も多く、誰かを守りたいという感情になったことがないから」
そういう感じ方なんだと私は新鮮に感じる。
冷酷なんてとんでもない。
表の顔と本当の顔は違う。
私はもっと、この人のことを知りたい──
気づくと、そんなことを考えていた。
「誰かを守りたい、か。フィレーラ様も守る必要がないほどお強いですしね」
「まったくだ。最近は何をしているか私にも詳しくは話してくれない」
秘密の多い人なのだろう。そこもかっこいいけれど。
さて、私たちの狙いは順調に進む。
辞めた三人は、私たちを見ると最初は警戒したが、事情を話して協力してくれたら謝礼金も出すとイレオン様が言うと簡単に乗ってきた。
お金も大きいが、元従者に対する復讐心も強いようだ。
私たちは従者たちと協力して準備を進め、当日を迎えた。
生誕祭は夕方から夜中まで行われる。
私は持っている中で一番高いドレスを着て、さらには手紙を隠し持って会場に向かう。
アグルが好みそうな派手なパーティだ。
豪華な料理に、音楽隊、手品師なども出てくる。
普通なら楽しめたかもしれないが、周囲の反応が気になって集中できない。
貴族たちのイレオン様とフィレーラ様に対する視線や噂話だ。
「イレオン様は男爵令嬢を脅迫しているんですって?」
「そこまでするなんてねぇ……」
そんな会話が聞こえてきて無性に腹が立った。
気づくと私は会話に割って入っていた。
「私は脅迫なんてされていません。その噂はやめてください」
相手がドン引きしてようが関係ない。
イレオン様の悪口だけは我慢ならなかった。
ここで、司会の声が響く。
「ご注目を。アグル殿下のご挨拶です」
彼は王族や有力貴族が見守る中、スピーチを始める。
当たり障りないものに思えた。
国の繁栄を願うこと、ここまで育ててくれたことに感謝するなど。
「──ただ最近、思うのです。俺は戦わねばいけないのではないかと」
急に語調が変わり、それまでの和やかなムードが変わる。
「このようなめでたい場で本来言うべきではない。ですが俺は、どうしても我慢ならない。元婚約者のフィレーラ嬢……いや、それよりイレオン卿だ」
彼はイレオン様を睨みつけ、指を差す。
憎しみが溢れ出ているが、対照的にイレオン様は表情を変えない。
「私の何が許せないのでしょうか」
「あなたがナサリー嬢を脅迫して、俺と結婚させないように動いていることは知っている」
「いくら殿下とはいえ、そのような物言いは如何なものかと」
アグルがパチンと指を鳴らすと、薄く髭を生やした中年男性が隣にやってくる。
「彼に見覚えはあるな?」
「ええ。うちで働いていた従者です。盗みを働いてクビにしました」
「それは違うな」
強く否定すると、アグルは男性の肩に手を置いて顎をくいと動かす。
言ってやれと。
「わたくしは以前、公爵家で働いておりました。しかし盗みなど働いておりません。フィレーラ様とイレオン様に酷い扱いを受けた上、ぼろ雑巾のように捨てられたのです」
これには他の貴族たちからも驚きの声があがる。
ざわつきが消えない中、アグルが質問で誘導していく。
「盗人の汚名を着せられたと?」
「そうです。また、彼らは日常的に王族を侮辱するような発言も多くありました」
これには席に座っていた王族の面々の顔も曇ってしまう。
どうやらアグルは一枚岩ではない王族を味方につけて公爵家を叩き潰したいらしい。
勝ち誇るように笑みを浮かべるアグル。
今度は公爵が連れてきた三人の従者に指示を出す。
「では私からも。その従者に嫌がらせを受けてうちを辞めた者たちです。話してもらいましょう」
彼らは口々に自分がされたことを話していく。
「私は彼からひどい暴力を何度も受けました」
一人目は怪我をするほど暴力を受けていたと話す。
二人目はフィレーラ様の件に触れる。
「彼はよくフィレーラ様の悪評を町でばら撒いていました。フィレーラ様に嫌われていたので、その腹いせです。今回の夜会の噂も、彼が同じことをやっていたと容易に推測できます」
三人目は窃盗に関することだ。
「その男は公爵家の銀器を盗んで古物商に売り払っておりました。商人は後から盗品だとわかったと嘆いていました」
「でたらめだ! そんな覚えはないっ」
否定する元従者だが、イレオン様が古びた書類を出す。
銀器の種類や数量、売却の日付が記されている。
私たちが商人と交渉して手に入れたものだ。
「記録ならばここにあります。必要ならば後日、商人を連れてくることもできます」
「うぅ……」
元従者が言い返せないのを見て、会場の空気も変わり始める。
少なくとも窃盗の濡れ衣だという主張は通らなくなった。
最後は、私が前に出ていく。
身分が低いので、まずは王に向かって一礼する。
「ディルス男爵家のナサリーと申します。発言をお許しいただけますか?」
「許す」
王から許可が出たので、あたふたしているアグルに告げる。
「先ほど、私がイレオン様に脅迫されているとの発言がありましたが……そのような事実は一切ありません」
「ならば洗脳だろう! でなければ、なぜ公爵家に出入りしている!?」
「それはイレオン様のご厚意でお茶をいただいております。理知的で温情溢れる方で、とても脅迫などされるお方ではありません」
「ぬぅぅ」
私は隠していた手紙を取り出す。
「むしろ脅迫は、殿下の方から受けております」
周囲が驚きを隠せなくなったところで、私は手紙の内容を読み上げていく。
『君はフィレーラに脅されて俺を拒絶していたんだろう? そう証言するべきだ。できないのならディルス男爵家の未来はない』
「この手紙を頂いた直後、私の父の仕事に幾つかの支障が出ました」
王族の席を一瞥して反応を確認しておく。
王を初めとして、多くがバツの悪そうな顔だ。
私といる時とはまるで異なる恐ろしい雰囲気でイレオン様が口を開く。
「いくら殿下とはいえ、私や公爵家を侮辱したとなれば、許すことはできませんが?」
一気に会場が凍りついた。
イレオン様は単純に武人としても優れていたりする。
迫力に気圧される中、立ち上がったのは第一王子で民からの支持も厚いスレイドだ。
「ナサリー嬢への手紙については弟に非があり、弁解の余地がない。ただ、公爵家と弟の間で何が起きていたのか、すべてが明らかになったわけではない」
そう言いながらも、スレイドは胸に手を当てて非礼を詫びる。
「王家を代表して謝罪させてほしい。公爵家の中傷についても必ず調査する。イレオン卿、ナサリー嬢、どうか私に免じて許してもらえないか」
これには私たちも迷う。
スレイドはなるべく敵に回したくないからだ。
これで許さないとなると、少し面倒になる。
「……殿下、条件があります」
「言ってくれ」
「夜会で真偽の定かでない噂を流さないこと。また、二度とナサリー嬢に接触しないことです」
これを聞いたスレイドは、アグルの横まで移動する。
「できるな?」
それはもはや威圧だった。
アグルは指先を震えさせながら頷く。
それからスレイドは柔らかい笑みを私たちに向ける。
「お二人とも、約束する」
「……わかりました」
変に争ってめちゃくちゃになるよりはいい。
そう判断したのだろう。
私としてもありがたい。
今後、アグルに付き纏われずに済む。
──カッカッカッ
ハイヒールの音を響かせながら、二人の間に割って入ってくる者がいる。
フィレーラ様だ。
「次は、私が話してもよろしいですか?」
「……もちろん」
「先ほど、殿下が話していた証拠をお持ちしました」
彼女が言うと、後ろから三十歳前後の男性がやってくる。
「彼はアグル様の側近で、主に会計と記録係をしておりました。アグル様は元従者に、悪評を広めるたびに報酬を渡しておりました。こちらをご覧ください」
帳簿を取り出して、周りにも見せる。それは王家の紋が入っており、正式な記録係でなければ持てないものだ。
「夜会の翌日には必ずお金が渡されています。彼が元従者に渡しており、記録もしておりました。そうでしょう?」
彼女が促すと、彼は恐れなどないようにハキハキと話す。
「はい、間違いありません。またアグル様は悪評を流すように指示しておりました。五年支えている私は何度も耳にしております」
いわゆる内部告発というやつだ。
自発的なのか、フィレーラ様が誘導したのかはわからない。
ただ彼は本物の側近だし、私たちの元従者たちの発言とはまるで重みが違う。
帳簿もあるとなると、それと照らし合わせてお金の出入りの確認もできる。
「お、お前……どういうつもりだッ!?」
アグルが顔を真っ赤にして叫ぶ。
意表をつかれた裏切りに感情を抑えきれないのだ。
記録係の彼は目線すら合わせない。
「出せと言うのなら、他にも証拠はあります」
「……いや、それはいい。それでフィレーラ嬢の望みは?」
スレイドが尋ねると、フィレーラ様は堂々と話す。
「アグル様の王籍剥奪と財産没収、その上で国外追放が望みです」
「なっ!?」
これにはスレイドも言葉を失う。
周りも全員同じだ。
まさかここまで強い要求を出してくるとは思わなかったのだろう。
「我がレイルズ家は王家への忠誠を尽くしてまいりました。ですが、王族というだけで罪が消えるのであれば、その忠誠は考え直す必要があります」
フィレーラ様の瞳は一切ブレない。
これは絶対に折れない。
さらに後方にいた公爵も続く。
「陛下、王国のためならば身を粉にして働くことも厭いません。しかし、我が家の名誉を傷つける者のために剣を振るうつもりはありません」
口調こそ穏やかだが、目は武人のそれだ。
「……陛下、ご判断を」
さすがのスレイドも抑えがきかないと匙を投げた。
苦しいのは王だ。
せっかくの誕生日なのに息子を切るか、公爵家を敵に回すかの選択を迫られている。
「ち、父上……? まさか、俺を見捨てませんよね……?」
涙ぐむアグル。
王は十秒ほど、目を閉じた。
誰もが固唾を飲んで見守る中、ついに答えを出す。
「その者はもう王子ではない。従者と共に捕らえて牢屋に入れよ!」
「そんなっ」
兵士たちが駆けつけ、アグルと元従者を捕まえて連行していく。
「なんでだよっ、こんなのおかしいだろぉぉぉ──」
彼が情けなく叫ぶ声が広い会場中に響き渡る。
扉が閉まると一転して水を打ったように静かになった。
そんな中、フィレーラ様が私の横にやってきて告げる。
「あなたのおかげで動きやすかったわ。ありがとう」
「い、いえ、こちらこそ」
彼女は頷くと、そのまま会場を堂々と出ていった。
もう、生誕祭をやっている場合じゃない。
なんといっても当人がいないのだから。
☆
我が家から少し離れたところで馬車が止まる。
イレオン様が私を送ってくれたのだ。
なぜか彼も一緒に降りてきた。
「せっかくだし、少し歩かないか?」
「ええ」
馬車は待機させ、夜の街を私たちは並んで歩く。
見上げれば空には美しい満天の星空がある。
二人でしばらく眺めていたが、イレオン様が口を開く。
「少し、予想外だったな」
「だいぶ、ですね」
「確かに……!」
二人で顔を見合わせて笑う。
私たちはアグルの追放までは考えもしなかった。
「いや、君が妹を恐れていた理由がよくわかるよ」
そうなんです。
あの人は本気にさせちゃいけない人なのだ。
それにしても兄のイレオン様まで予想できなかったというのだから、フィレーラ様は本当にすごい。
「でも、これで落ち着きますね」
「全部ナサリーのおかげだ」
「いえいえ。私なんて、ちょっとお手伝いしただけですから」
「そのちょっとが、私にはすごく嬉しかったんだ」
イレオン様は足を止めた。
私もつられて立ち止まる。
「君は自分の身を守るだけなら、今回の騒動に関わる必要はなかった。アグルに頭を下げることだってできたはずだ」
「それだけは……勘弁してください!」
「ははっ、そうだろうな」
ああ、また笑った。
最近では珍しくないけれど、やっぱりこの人の笑顔は心が温まる。
「ナサリーは、私たちのために動いてくれた。危険だってあったのに」
「……いつもお世話になっていますから」
「それだけか?」
彼は少し首を傾げた。
あまりにもまっすぐに見つめてくるので、私は言葉に詰まる。
それだけか、と聞かれると……どうなのだろう。
フィレーラ様の悪評を放置すると、この国は破滅に向かっていく。
だから原作の展開は変えたかった。
だけど、他にもある。
会場でイレオン様の陰口を聞いたとき、私は怒りを感じた。彼のことを何も知らないのにって。
本当の彼は話し好きで優しい人だ。
「たぶん私……イレオン様が困っているのが嫌だったんです」
素直な気持ちを伝えると、彼は目を大きく開いた。
すぐに、なんだか嬉しそうに微笑む。
「なるほど。それは実に……困ったな」
「えっ、いま困ってます?」
「そう。どうしても君を手放したくなくなった」
……はい?
少し待って。
急に甘さが増し増しになった感じがして私は戸惑う。
よく見たら、いやよく見なくても美形な顔が月明かりに照らされていて目が奪われる。
「私は最初、君の話に興味があった。異世界の知識は刺激的すぎるから」
「で、ですよね」
「だが、いつからか変わった。君が何を話すかよりも、君と話すことが楽しみになっていた」
真剣な顔のイレオン様が一歩、私との距離を詰める。
反射的に下がろうとしたら、腕を優しく掴まれた。
「気づけば仕事の合間にも君のことを考えている。次は何を話そうか、何を用意すれば喜ぶのだろうと」
そう、お茶会のお菓子は毎回違っていた。
しかも私が美味しいと言ったものは、次のお茶会でも必ず出てきていた。
まさか、そこまで気遣かってくれていたなんて……。
「君が幸せそうにしていると、私まで心が躍るんだ。変だろう? 私が一番、そんな自分に驚いているよ」
ドクンドクンと、心臓がうるさい。
こんなにも男性に胸をときめかせたことが、今まであっただろうか。
いや、ない。
絶対にない!
「ナサリー」
静かな、でも感情のこもった声で名前を呼ばれる。
「私は君が好きなんだ。結婚を前提に交際してもらえないだろうか」
えええええっ!?
あのイレオン様が……原作でも大人気だった、完璧超人がどこか照れ臭そうにしながら私に告白している……?
衝撃のあまり、頭の中が一面真っ白になった。
「難しい問題だ。もちろんすぐに答える必要はない」
返事のできない私を見て、イレオン様は少し焦ったように告げる。
「断ってくれても構わない。私は君の意思を尊重する」
その言葉を聞いて、私はふっと肩の力が抜けた。
そうだよ。
この人は、出会ったときからそういう人なのだ。
私が何を選んでも、それを尊重してくれる。
言い寄ってきた男たちと違うのは、自分の思い通りにしようとするのではなく、私自身を見てくれる。
だからこそ、私はこの人と一緒にいると楽しかったのだろう。
「……一つ、確認したいのですが」
「何でも聞いてくれ!」
「私、お茶会では本当に好き勝手なことばかり話していましたよね?」
「そうだな」
「マンガの話とか、スーパーのお惣菜の話とか……」
「どれも興味深かったよ」
「これからも、あんな感じでいいんでしょうか?」
するとイレオン様は、少し不思議そうな顔をした。
「あんな感じがいいんだ。私は君に、君以外の誰かになってほしいわけじゃない」
ああ、私も自分の感情に気づいてしまった。
もう答えなんて一つしかなかった。
「私だって、イレオン様が好きです」
口にした瞬間、顔が熱くなったけれど頑張って言葉を続ける。
「イレオン様との会話は楽しくて、会えない日は眠る前によく考えていました。だから、これからも一緒にいたいです」
彼は少しの間、何も言わなかった。
もしかして私、変なことを言った?
眠る前に考えるは重い……?
でも好きなら普通だとも思う。
「──よかった」
イレオン様が息を吐き、肩をリラックスさせた。
「君の返事を聞くまで呼吸を忘れていた。こんなにも緊張するとは」
「そんなに、緊張していました?」
「するさ。私だって、好きな女性に断られるのは怖い」
強敵にだって怯えないような人にも苦手なことがあるらしい。
しかも、その原因が私だから面白くて笑いそうになる。
「ナサリー、これから二人で歩んでいこう」
「はい、よろしくお願いいたします」
イレオン様が、スッと手を差し出してきた。
私はその手をじっと見つめる。
これまでの私は男性から差し出された手を断われず、嫌だと感じても困ったように微笑んでいた。
でも、今度は違う。
生まれて初めて、誰かの手をとりたいと願っている。
私は自分の意思でイレオン様の手を握る。
「……けれど不安もあります。私は至って普通なので、イレオン様に釣り合うかどうか」
「普通? 私にはそうは感じないが」
「そうですか?」
「ナサリーは私にとって、世界で一番特別な女性だ。普通じゃない」
あうっ。
イレオン様って、恋人になるとだいぶ甘くなる人らしい。
これはこれで大変なことではある。
ナサリーとイレオン様の展開はないので、未来は不透明ってことだ。
それでも。
握られた手の温もりに、私は思う。
あの日、前世の記憶が戻って心からよかった。
だって、私は自分の意思で未来を選べるようになったのだから。
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