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第七話 期待を過分に背負わせる罪

 城の夜は、日常の如く静かであった。いや──静かすぎる、と言うべきかもしれぬ。わずかな温もりさえ感じさせない石壁に囲まれたこの城では、風の音さえ遠慮がちである。廊下を渡る足音はすぐに消え、広間の空気はどこまでも冷え切っている。昔であれば、この静けさを好ましいと思っただろう。血を吸う者の住処として、これほど相応しい環境もあるまい、と。だが、今は違う。静かすぎるのだ。あまりにも、静かすぎる。その静けさが、胸の内の何かを際立たせてしまう。……いや、違うな。正確に言うならば、私はこの静けさに不満を抱いている。

この城に、だ。

 人間の城であれば、違ったであろう。笑い声があり、灯りがあり、召使いの足音があり、食器の触れ合う音がある。生活の音、生きている者の音。しかしここには、それがない。ここは血を吸う以外に楽しみがなく、光を嫌い、それぞれが死んだように眠り、食事は血のみの吸血鬼の城である。人間のような明るさは似合わぬ。静けさこそが、もっともふさわしい。それは、分かっている。理解もしている。長として、吸血鬼という暗がりの種族として当然のことだ。……だが、それでも。

「……退屈だな。」

 ぽつりと、呟いた。その言葉は石壁に吸い込まれ、すぐに消えた。アーカルドは自室の机に座り、ぼんやりとその上を見つめていた。机の上には、一つの小箱が置かれている。装飾の施された漆塗りの木箱。バリャドリャッドの家紋が彫られ、匠の技で緻密な紋様の刻まれた、頑丈な箱だ。この無機質な吸血鬼の城には似つかわしくない、華やかな箱である。その蓋を、ゆっくりと開ける。中に収められているのは──勲章であった。銀色に輝く、騎士の勲章。あの夜、バリャドリャッド城で王から授けられたものだ。ロアンソと共に、我が同胞を虐殺した証として。

 アーカルドはそれを指先で持ち上げた。金属はひやりと冷たい。その冷たさは、心を抉る刃となるか。それとも、頭を冷やす氷嚢となるか。

「……ふむ。」

 誰にも聞こえないであろうから、小さく呟く。その時、ふと──ロアンソの顔が思い浮かんだ。あの女は、実に嬉しそうであった。勲章を受け取った時、あの顔には誇らしさと喜びがありありと浮かんでいた。あれほど素直に喜べるものなのか。思い出すだけで、妙な気分になる。人間というものは、不思議な生き物だ。ただの金属片を与えられただけで、あれほど喜ぶ。名誉。栄光。称賛。人間は、それを大切にする。吸血鬼には、全く縁のないものだ。……少なくとも、そう思っていた。

 アーカルドは勲章を見つめながら、静かに考えた。ロアンソは、これをどうしただろうか。家に華やかに飾ったのか。それとも、机の上にでもひっそりと置いたのか。あるいは──枕元にでも置いているのかもしれない。ふと、そんな想像が浮かぶ。そして、その想像に、妙に納得してしまう自分がいた。

「……また、話を聞かせてくれるかもしれぬな……」

 ぽつりと、呟く。あの女は話好きである。吸血鬼との手に汗握る戦いの話。長くも栄光を勝ち取ってきた旅の話。これ自慢の一級品と語られる剣の話。どれもこれも楽しそうに語る。自慢話に近いものもある。だが、不思議と嫌味ではない。むしろ──聞いていて、退屈しない。いや、退屈しないどころか───

「……心底、楽しんでいるようだ。」

 アーカルドはふと気づき、苦笑した。吸血鬼の長が、人間と話して安心と気楽さを覚えるとは。滑稽な話だ。しかも、それを客観的に見て、嘲笑うような姿勢を見せるなど。どこまで歪んでいっているのだろうな。だが、それでも。

 この息の詰まるような退屈から抜け出せるのなら。もう一度、会ってみたい。そう思った。……いや。正確には。

「退屈でなくても、満ち足りていても、会いたい、のだろうな。」

 自嘲気味に呟く。アーカルドは立ち上がった。そして勲章を胸に付ける。鏡の前に立つ。銀の勲章は、黒い外套の上でもよく目立った。吸血鬼の長の装いではない。人間の騎士の装いだ。

「……私は、サンソン・カラスコ。」

 自分の偽名を、静かに口にする。ロアンソが知っているのは、この名だ。吸血鬼の長アーカルドではない。鏡の騎士、サンソン・カラスコ。それでいい。それで十分だ。むしろ、その名であった方が私は自らを保てる。同一の存在では決して無いのだ、その二人は。

 アーカルドは外套を整え、静かに部屋を出た。今回は、ノストラや子供達に何も告げず、ただ一人馬に乗って駆けていった。気にする必要など、もう無いとでも思っていたのかもしれない。食事の許可を与えた前例はあるのだから、後はノストラが勝手にやってくれるだろうと。……あるいは。何も言われたくなかったのかもしれない。自分でも理由の分からぬ行動を、説明するのは難しい。


 街は、すっかり昼であった。石畳の道には人が行き交い、商人の声が響いている。市場は賑わい、パンの匂いが漂う。吸血鬼の城とは、まるで違う世界だ。私の昨日見ていた世界とはコントラストが激しすぎるな、とも思った。

 アーカルドはゆっくりと歩いた。街の人間たちは、ちらりと彼を見る。皆、彼の胸に付く銀のの勲章に気づいたのだろう。騎士だと思われている。そして、偉大なる名誉を授かっているとも。好奇心と尊敬に満ちた目が向けられていることがはっきりとわかる。それで構わない。いや、僅かばかり、喜びの感情もある。

 そうして歩いていると──もう道順は覚えてしまった──見覚えのある家に辿り着いた。ロアンソの家だ。木の扉。小さな窓。質素だが、整った家である。温もりと安心感で言えば、この家はずっと優れていると言わざるを得ないだろう。それも、アーカルドの城と比べれば。

 アーカルドは扉を叩いた。

──コン、コン。

 返事はない。まだ、一度目だ。気づかなくてもおかしくは無いし、準備もあるのだろうし。ちょっとしてから、もう一度叩く。

──コン、コン。

 それでも、返事はない。アーカルドはまた少し待った。だが、扉が開く気配はなかった。

「……留守か……」

 ため息と共に小さく呟く。ロアンソは家にいないらしい。残念さに気分が大きく沈む。少し考える。どこへ行ったのだろうか。鍛錬か。買い物か。酒場か。アーカルドは周囲を見渡した。ちょうど通りかかった男を呼び止める。

「すまぬ。少し聞きたいのだがよろしいか。」

 男は振り返る。

「なんでしょう?」

「この家のロアンソという騎士を知っているか。」

「ああ、ロアンソさん?」

 男はすぐに頷いた。やはり有名なのだろう。なにせこの地域を吸血鬼の魔の手から守る、ハンターとして名を上げている女だ。

「彼女は今、どこにいる?」

 そう尋ねると、男は少し驚いた顔をした。

「え? 知らないんですか?」

「……何をだ。」

「ロアンソさん、出張ですよ。」

 アーカルドは眉をひそめた。

「出張?」

「ええ。王様の命令でね。吸血鬼の被害が出てる地方に行ったんです。」

 その言葉を聞いた瞬間。アーカルドの思考が、一瞬止まった。頭の中が真っ白になったとでも言えば伝わりやすいか。それだけ、嫌な予感というものを頭の中だけでも考えたく無いものなのだ。しかし、その答えは聞かずにおれない。吸血鬼の被害。それが頻発している地方。それは──

「……どこの地方だ?」

 わかりきっていたが、アーカルドは静かに尋ねた。できれば違っていてほしいという思いで、一縷の願いをかけて。男はあっさり答えた。それはそのかけらの願いを全て砕き潰してしまった。

「北の辺境ですよ、山を何個も超えた先にあるっていう。最近、吸血鬼の噂が多いとかで。」

 北。この街から山を四つほど超えた先にある辺境。それは、アーカルドの支配する土地であった。

「……そうか。」

 短く答える。胸の奥が、妙に重くなった。ロアンソは、吸血鬼を狩る騎士だ。そして、アーカルドは、吸血鬼の長だ。もし──もし、ロアンソが真実を知ったら。その時、あの女はどうするだろうか。剣を抜くだろうか。迷いなく、私を討とうとするだろうか。……いや。その可能性が一番高い。高くあれ。それでこそ騎士道というものだ。それがロアンソという人間なはずだ。

「それでも……」

 そこまで考えて、アーカルドは首を振った。

「……いや、この考えは私の醜い祈りに近しいな。」

 アーカルドは空を見上げた。昼の空は、青い。どこまでも澄み渡るような、清涼な空。人間の世界の空だ。深淵に侵された宵闇の夜とは違う。

 ロアンソは今、何をしているんだろうか。剣を振るっているのか。吸血鬼を追っているのか。そして私の子供たちを、斬っているのか。アーカルドはしばらく黙っていた。胸の奥で、何かが軋んでいた。長としての責務。吸血鬼としての本能。鏡の騎士の正義感。そして、人間の友という、奇妙な関係による、友情。それらが、互いに噛み合わず、静かに擦れ合っていた。そして、ゆっくりと歩き出した。胸の勲章が、かすかに揺れていた。まるで──何かを問いかけるように。

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