第三話 親類忘却の罪
城へ戻るや否や、私は玉座に腰掛けることも忘れ、本を開いた。もちろん、本棚を置いた私の部屋で。あの街で買い求めた五冊。どれもこれも香りが良い。新しい紙の匂い、インクの匂い、そして人間の手の温もりがわずかに残っている。新書特有のあの香りは、いつ嗅いでもいいものだ。これが理解できぬものはおるまい。私はそれを胸いっぱいに吸い込み、頁を捲った。
騎士が怪物を討ち、誇りを語り、時に敗れ、時に恋をする。滑稽な話だと笑いながら、私は止まらなかった。むしろ私はその滑稽さを求めていた。私は久しぶりの娯楽に、自分自身でも驚くほどの集中力を発揮した。あれだけ長いと思われた、三百ページはくだらないと思われた一冊を読み終え、なんともう一冊にも手を伸ばしていたのだ。そんなふうではこうもなるであろう、気づけば夜は更け、窓の外には月が高く昇っている。
本来ならば。本来ならば、その時刻は“行進”の時間であった。子供たちを率い、村へ赴き、血を囲む。恐怖と悲鳴の中、我らは糧を得る。それが習わしであり、秩序であり、血の鎖を保つ儀式だ。
だがその夜、私は頁の中にいた。風車に挑む騎士の姿に笑い、誓いに胸を打たれ、怪物に制裁を与える物語に目を細め、口角を上げ、笑いをこぼした。
……そして、忘れた。
翌朝。そのツケを払う羽目になったのだ。
「アーカルド様、昨夜は何故私たちを導いてくださらなかったのですか?」
鋭い声が玉座の間に響いた。初めて血を与え眷属にした者であり、私の最初の子供、ノストラ。真紅に煌びやかな長髪を後ろで編み、黄金の目を宿す小柄な女。私の次に力を持つ吸血鬼にして、この城の実質的な統率者でもある。私が所々至らないような人物であるせいなのだが。私は読み途中だった本に紐を挟み本を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。
「……何の話だ。」
まずはごまかす。一旦目線を逸らす。あくまで私は知らないですよという雰囲気を出す。まあ、これでなんとかなったことはなかったが。
「行進です。昨夜は月が良かった。獲物も豊富でした。皆、アーカルド様の号令を待っていたのです。」
やはり無理だったか。ごまかしは効かなかった。その声音は怒りを帯びているが、憎しみではない。焦燥と───わずかな不安。なんだか申し訳なくなってきた。心の中で謝っておこう。ごめん。
「我らは勝手に出ることも出来ました。しかし、それでは秩序が乱れる。血の序列が曖昧になる。」
なるほど。私は一瞬、己の失態を理解できずにいた。たしかに、勝手に出ては血の掟に反することになる。勝手に出れば統率は崩れる。力ある者が好き勝手に血を奪えば、弱き者は飢える。やがて争いが起こる。それを防ぐための行進だ。始祖が先に吸い、残りを分ける。血の鎖を繋ぐ儀式。
……行進。ああ、そうだ。私は頁の中に沈み、子供たちを忘れていたのだ。
「昨夜は、用があった。」
苦しい言い訳だと自分でも思う。ノストラは一歩近づいた。
「血をお吸いにならなかったのではありませんか。」
その黄金の目が、私を射抜く。私は沈黙した。確かに私は昨日、血を吸っていない。吸血鬼であるから、血を吸わねば生きていけない。そして、もちろん子供たちも吸えていない。
「……本を読んでいた。」
私はとうとう白状した。玉座の間に、奇妙な静寂が落ちる。
「……本、ですか。」
「騎士の物語だ。」
ノストラの眉がわずかに動いた。怪訝そうな顔をし、私に詰め寄る。
「それで、行進を忘れたと?」
「……」
否定できなかった。なにもいえず黙っていると、彼女は深く息を吐いた。私の心がヒリヒリする程度の、ため息だった。
「アーカルド様。あなたは始祖です。我らの源です。あなたが揺らげば、我らも揺らぐ。」
叱責というより、懇願に近い。
「あなた様は、どうされるおつもりですか。」
その問いに、私は答えなかった。ロアンソの顔が脳裏に浮かぶ。銀の髪、赤い瞳。───吸血鬼は人を殺すからだ。その思考を頭の中から振り払い、私は立ち上がった。
「今夜、行進を行う。」
ノストラは静かに頭を下げた。
「承知しました。」
その夜、私は子供たちを率い、村へ向かった。ノストラが言うには、近頃繁栄してきていて、かなりの腹を満たせそうだと言うことだ。確かに向かった先の村には人が多く、子供たち全員が満腹になるには十分だった。行進を始めると、悲鳴、逃走、恐怖の匂い、それらが闇に満ちた。いつもの光景だ。子供たちは歓喜し、血を啜る。赤が夜に散る。だが、私は楽しめなかった。
村人のひとりが泣きながら家族を庇う姿を見たとき、ふとロアンソの横顔が重なる。守る側の人間。今から吸血鬼によって殺される人間。物語の中なら、騎士がこの者たちの前に立ち、われらに戦いを挑んできているだろう。
私は血管を抜き取り、丸め、口に運んだが、味が薄い。血は確かに甘いはずなのに、どこか虚ろだ。これは何だ。罪悪感か?馬鹿な。私は吸血鬼だ。人を殺し血を奪い、自らの飢えを満たす。だが、本の中の騎士は怪物を討つ。そして私は、その討たれる側だ。鏡の騎士は一体何をする。怪物を討つんじゃないのか。もし今、鏡の騎士が居るのなら、その剣はどちらに向くのだろうか。
行進を終え、城へ戻る。背後には跡も残らぬ死体。飛び散った血すら舐め取られている。子供たちは満足げだ。ノストラも安堵している。だが私の胸の内は、むしろ空虚になっていた。腹を満たしても満たされぬ感覚。これはなんだろうと思った。
翌日の昼。陽光が差し込む窓辺で、私は本を閉じた。文字が頭に入らない。ページをめくっても、私の中の物語は進まない。未だ主人公は始まりの街すら出発していない。代わりに浮かぶのは、あの街の喧騒と、ロアンソの声。……また来るなら声をかけろ。私は立ち上がった。本を棚にしまい、再び馬を連れ、城門へ向かう。背後で、ノストラが私を見て声をかける。
「どちらへ?」
「少し、出る。」
「行進は───」
「許可を出そう。」
短く告げると、私は振り返らなかった。呼び止める声は聞こえなかった。従者は全てを承諾する、それがあるべき姿だと思ったし、それを実行してくれているのは嬉しく思った。わたしは再び街へ出かけるため、馬にまたがり駆けて行った。また小説を読みたくなったからではない。……あのハンターに会いに行くためだ。
風が頬を撫でる。私は吸血鬼アーカルド。血を求め人間を襲い、喰らう。それでも今、胸を支配しているのは血の渇きではない。名も知らぬ衝動。鎖は、確実に私を引いていた。あの光の街へと。




