第十六話 ただ一人満足して死んでいく罪
最初に、聴覚が反応した。乾いた、ひび割れるような音。それが何なのか、理解するまでに、わずかに時間を要した。手の中の重みが軽くなっていることに気づいたロアンソは、ゆっくりと視線を落とす。手にあるはずの、秀麗な銀の刀。その刃は──途中から、消えていた。折れている。
綺麗にではない。耐えきれず、砕けたように。宙には銀の破片が散らばり、赤い月を反射していた。その光は一瞬だけ美しく、すぐに意味を失う。やがて、その刃の残骸が地面に落ちる。遅れて、かすかな金属音が響いた。
「……あ……」
声にならない声が、喉から漏れる。理解が、追いつかない。いや──理解したくない。一族代々受け継がれてきた剣。その象徴が、役目が、誇りが──砕けた。だが、その認識すら、すぐに押し流される。
背後で、何かが崩れる気配。思考が途切れる。刀のことなど、もうどうでもよくなっていた。焦燥と悲哀が、胸を締め付け、握ったものを放り出し、振り返る。
そこにいたのは──血に包まれたアーカルドだった。その身体が、ゆっくりと傾いていく。小さな血飛沫を上げながら、地面へと落ちていった。腹部は深く、大きく、斬り裂かれていた。誰が何と言おうと、致命傷だった。明らかに。もう僅かに残っていた血が、溢れ出る。止まらない。そして──傷が戻らない。もう、再生しない。銀の刃で刻まれた傷は、塞がることがない。とくに、これほど衰弱していれば。
膝が落ちる。支えを失った体は、そのまま地面へと崩れた。手にしていた血の槍は形状を保てず、音もなく崩れ、大地に吸い込まれていく。まるで最初から存在しなかったかのように。
「……っ!!」
ロアンソの体が、弾かれたように動く。考える前に、駆け出していた。倒れた体に飛びつくようにして、抱き起こす。軽い。あまりにも、軽い。つい先ほどまで、自分と拮抗していた存在とは思えないほどに。その軽さが、現実を突きつける。
「……おい……!」
声が震える。掠れる。アーカルドの体を揺らし、目を覚まさせようと呼びかける。
「おい……!」
返事は、ない。だが──わずかに、瞼が揺れた。ロアンソの手が、強くなる。
「……!」
ゆっくりと、アーカルドの目が開く。焦点の合わない瞳が、かすかに動く。そして──ロアンソを、捉えた。その瞬間だけは、確かに見ていた。
「……終わった、か……」
かすれた声。それでも、確かに言葉だった。
「……ああ……!」
ロアンソは答える。だが、その声はもう、保てていない。既に、気丈に振る舞うような声ではなくなっていた。守る必要も、奮い立たせる必要も、もうない。ただ、崩れている。
「……そうか……」
アーカルドは、小さく息を吐いた。その表情は──どこか、安らいでいた。まるで、長い旅の果てに、ようやく真実に辿り着いたかのように。それを見た瞬間、ロアンソの中で、何かが決壊した。今まで抑え込んでいた感情が、一気に溢れ出す。涙が頬を伝う。
「……サンソン……」
無意識に、口から零れる。その名前。捨てられたはずの、鏡の騎士の名。本来、ここにいるべきではない名。だが──この瞬間、この男を指す言葉は、それしかなかった。
「サンソン……!」
強く、抱きしめる。壊れてしまいそうなほどに。離せば、消えてしまいそうで。
「……なんでだよ……!」
声が、震える。涙が、止まらない。
「なんで……こんな……!」
何を責めればいいのか、分からない。誰を責めればいいのかも、分からない。ただ、どうしようもない現実だけが、そこにあった。サンソンは、抵抗しない。ただ、そのまま抱かれている。しばらくして、ゆっくりと、口を開いた。
「……騎士……。」
その呼び方に、ロアンソの肩が震える。最後まで、それなのかと。滑稽な物語をなぞり続けるつもりなのかと。責めたい気持ちが、確かにあった。だが同時に。それ以外では、いけないとも分かっていた。この男は、最後までそれでなければならない。そうであって欲しかった。
「……騎士はな……、」
息が浅い。それでも言葉を紡ぐ。
「最後に……怪物を打ち倒し……名誉を得るものだ……。」
ロアンソは、顔を上げる。涙で歪んだ視界の中で、その顔を見る。死にゆく者の顔ではない。どこか満たされた、穏やかな顔だった。
「……そして……」
ほんのわずか、浅く浅く、言葉を紡ぐためだけに息を吸う。
「全ての終わりは………怪物が……騎士に倒されるものだ……。」
静かな断定。それは呪いのようでいて、救いでもあった。この男が望むのはそれだったから。
「……だから……」
視線が、重なる。
「胸を張れ……」
その言葉に。ロアンソの表情が、歪む。
「……っ……ふざけるな……!」
声が崩れる。
「そんなの……そんなの……!」
否定したい。全部。その物語も、その役割も、この結末も。
「そんなので……終われるわけないだろ……!」
これは物語じゃない。現実だ。血が流れ、命が失われる、どうしようもない現実だ。なのに、どうして──そんなふうに、笑えるのか。だが、分かっている。それが、この男の望んだ結末なのだと。孤独に耐えかね、空虚に蝕まれ、物語に救いを求めた存在なのだと。
「……っ、ぁ……」
嗚咽が漏れる。どうしようもない。今更、何も変えられない。
「……サンソン……」
名前を呼ぶ。縋るように。祈るように。
「……私は……」
言葉が詰まる。だが、それでも絞り出す。
「……どうすればいい……」
騎士ではなく。ただの、一人の人間としての問い。サンソンは、わずかに目を細めた。ほんの少しだけ、愛おしく思うように優しく。そして。
「……幸せに、な───」
それだけを言った。短く。それ以上は、何もない。その言葉は、命令でも、祈りでもなく。ただの、願いだった。ロアンソの目から、さらに涙が溢れる。
「……っ……」
もう、言葉は出ない。ただ、抱きしめる。強く、離さないように。だが、その体から、力が抜けていく。ゆっくりと、確実に、温もりが失われていく。
「……サンソン……?」
呼ぶ。返事は、ない。
「……おい……」
揺する。動かない。
「……おい……!」
声が、震える。どうにかして、生に引き止めようとする。縛りつけようとする。だがもう、戻らない。
風が吹く。赤い月の下、騎士は、怪物を討った。それは、誰もが望んだ結末。正しい結末。けれども───その腕の中にあるものは。名誉でも、勝利でもなく。ただ、温もりを失っていく亡骸だった。
ロアンソは、その場に膝をついたまま。動かなかった。動けなかった。ただ、抱きしめ続ける。壊れたように、泣き続けながら。胸を張ることなど、できるはずもなく。
夜は、静かだった。まるで、その終わりを包み込み───そして、何もなかったかのように、過ぎていくかのように。




