第十五話 慈しめ、断罪
赤い月は、まだ沈まない。草原には、戦いの痕が刻まれていた。抉れた地面。散った血。折れた草。その中心に──二人は立っている。互いに、動かない。動けない、が正しいのかもしれない。
「……はぁ……」
ロアンソの呼吸は荒い。剣を握る手が、わずかに震えている。代々受け継がれてきた銀の長剣は、今までいくつものを吸血鬼を相手してきても、一切欠けたところはなかった。だが、今や刃には、無数の欠け。もはや一撃で砕けてもおかしくはない。
対するアーカルド。その体からは、血が滴っていた。傷なら、吸血鬼に備わる再生能力で、治るはずだった。だが──戻らない。再生が、起きていない。銀の斬撃は再生能力を阻害し───また、多量に失った血液は、吸血鬼としての力を奪っていった。
「……ここまでか。」
アーカルドが呟く。それは、相手に向けた言葉ではない。自分自身への確認のようだった。
「……ああ。」
ロアンソも応じる。剣を構え直す。だが、その構えには、もはや最初の鋭さはない。ただ、折れてはいない。ここで終わったとしても、全てを終わらせてやるまでは、終われない。
沈黙が闇夜に満ちる。黒い風が吹く。草が揺れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……長い戦いだったな。」
アーカルドが言う。
「ああ。」
相槌でしかない、短い返事。それ以上の言葉は、二人の間にいらなかった。互いに理解している。ようやくここまで来たこと、もう戻れないこと。そして──終わりが近いことも。
「吸血鬼ハンター、ロアンソ。」
アーカルドが、呼ぶ。ロアンソは視線を上げる。
「最後に、一つ提案がある。」
「……聞こう。」
命乞いの類ではないことはわかっている。この男がそんな事を言い出すはずがない。する意味がない。
「このまま削り合っても、終わりは来る。」
アーカルドは言う。月を見上げ、息を吐いた。
「だが、それでは面白くない。」
アーカルドはわずかに笑う。
「最後は──全てを賭けて決めようじゃないか。」
ロアンソは目を細め、記憶を辿っている。
「あれだろ、前言っていた必殺技、とかいうやつ。」
「ああ。」
迷いのない返答。それを聞いて──ロアンソは、小さく息を吐いた。それは呆れでもあったし、安心でもあった。
「……お前らしいな。変わっちゃいない。」
苦笑に近い、笑み。その瞳の奥には、確かに何かがあった。
「いいね、受けて立とう。」
短く、了承の返事を出す。それで決まりだった。アーカルドは静かに目を閉じた。終わりを受け入れるように。いや──待ち望んでいたかのように。
体内に残る血を見極める。もう、せいぜい一回の攻撃しか出来ないだろう。消耗を抑えずに戦ってきた代償か。だが、それで十分だ。最後の一撃には、その全てを賭ける。
……これでいい。アーカルドはそう思った。不思議と、後悔はなかった。確かに、多くを失った。多くを壊した。それでも、あの時、あの月夜のもとで、あの騎士と出会ったことだけは。無意味ではなかったと、思える。
目を開ける。ロアンソを見るために。その姿は、もう満身創痍だった。それでもなお、終わらせようと立っている。銀の剣を構えている。ああ、……強いな。心の底から、そう思った。
一方で、ロアンソは、銀の刀を見ていた。欠けた刃、それに反射する、ボロボロの自分。いくらしぶといといえども、ここまで負傷していては、継戦は困難だろう。それでも──最後の一撃を、あの技を見せるだけの力は残っている。
……これで、終わる。そう、理解している。この一撃で、一振りで、終わる。終わってしまう。視界が何故か滲む。何故かではない。理由は分かっている。だが、そんなの認めたくなかった。
私は、何をしようとしているのか。一体誰を、斬ろうとしているのか。本当に刃をむけている対象は何なのか。思い出が、頭をよぎる。あの時の会話、あの時の顔、あの時の、声。
アーカルドは敵だ。人々の命を脅かす吸血鬼の始祖だ。なんの間違いなく、それは絶対だ。吸血鬼ハンターとして倒すべき相手だ。だがしかし、私自身の、個人がやるべきことは───。やりたいことは───。
歯を食いしばる。頭の中から余計な記憶を振り払う。こんなもの、いらない感情なんだ。私は吸血鬼ハンターだ、目の前の男を殺さねばならない。それが、役目だからだ。
「……行くぞ、アーカルド。」
声が震えそうになるのを、押し込める。
「終わらせよう。」
「ああ。」
アーカルドが応じる。その瞳はもう何も見ていなかった。ただ、世界に映る物語を見ていた。何とも安らかな顔で。今から自分は死ぬとわかっているのに。
実のところ、アーカルドはもう最後の一撃を万全な状態で撃つ力は残っていなかった。だがむしろ、それで良かったのかもしれない。きっとその状態でも、撃てたとしても、撃たなかっただろう。
右手を月にかざす。周囲の血を動かす。残されたすべてを、一つに集中させる。それが、集まり、圧縮され、形を成す。
誕生したのは、槍。巨大な、一本の血の槍。脈動している。まるで、生きているかのように。
ロアンソは、刀を鞘に納めた。深く息を吸い、吐く。気配がだんだん鮮明になっていくのを感じる。意識を、研ぎ澄ます。余計なものを、すべて切り捨てる。視覚も、聴覚も、触覚も、嗅覚も、雑念も、その全てを切り払う。
残るのは──ただ一つ。斬る、その確固たる意志。吹き荒れていた風が止む。木々のざわめきの音が消える。深夜の世界が、静止する。互いに、一歩、踏み出す。
そして──駆ける。アーカルドが、前方に跳躍をする。血の槍を構え、一直線に。何者にも劣らぬような速さで。
ロアンソは前に一歩足を踏み出し、体重を前方に移動させる。そして、すれ違い様。その一瞬に、すべてを込める。
一閃、俊撃、瓦解。──交錯。時間が、止まる。世界の静寂は保たれたまま。互いに数歩、慣性のままに進む。
そして、静止する。風の鳴く音が戻る。草が揺れる。遅れて、音が、返ってくる。どちらが立っているのか。それを決めるのは、ほんの、わずかな時間の後だった。




