第十二話 自らの感情に嘘をつき、最後に残った部下まで無下にする罪
王は帰還した。だが、それを迎えるものは、もういない。ただ一つの城は静まり返っていた。かつては多くの気配に満ちていた空間。廊下を走る足音、笑い声、囁き。───かつて、確かが生を実感していた場所。それらはすべて消え、今はただ、空虚な風の音だけが残っている。
私は玉座に座っていた。謁見の間は広い。天井は高く、シャンデリアがかけられ、壁には古い装飾と、いくつもの垂れ布が掛けられている。そのいくつかはひび割れ、いくつかは完全に破けていた。
誰もいない。いや、正確には───もういなくなってしまった、ということだ。ただ一人でいるというのは、全く良いものではない。私は肘掛けに頬を預け、目を閉じた。
時間はいくらでもある。一人でいられる気ままな時間が、この空間の存在意義だった。……そう思っていたはずだ。───本当に、そうだったのだろうか。
「……長いな。」
ぽつりと呟く。
「まだ来ないのか、騎士様は。」
満たされた空虚は、何も返事をすることなく佇んでいた。待つ時間というものは、どうにも扱いづらい。その時、扉が静かに開いた。重い足音。何度も感じてきた、第一子族の気配。
「父上様。」
ノストラだった。私は目を開けたが、姿勢を正すことはしなかった。……もう、そんな気力もなかった。横目でノストラを見る。
「───戻ったか、ノストラ。」
「はい。」
呼応に過ぎない、短い応答。冷静であろうとしているのだろうが、その声音には、抑えきれない感情が滲んでいた。怒り。困惑。そして、わずかな悲しみ。ノストラは数歩進み、玉座の前で立ち止まった。
「……お聞きしたいことがあります。」
「言ってみろ。」
しばしの沈黙。立場を知っているがゆえに、言葉を選んでいるのだろう。やがて、ノストラははっきりと言った。
「なぜ、あの人間を殺さなかったのですか。」
私は、どんなことでも説明するつもりだった。だが───この問いには、答えなかった。答えられなかった。理由はある。だが、それは言葉にすればするほど、嘘になる気がした。だから私は、沈黙を選んだ。ノストラは続ける。
「なぜ、あの者に城の場所を教えたのですか。」
大きくため息をつく。それは、吐き出してしまいたい何かを、どうにか押し留めるための動作のようだった。壁にかけられた鏡へと視線を向ける。鏡の騎士。それは、この大鏡から発想を得た名だ。ひびの入った鏡の中に、玉座に座る私が映っている。吸血鬼の王。この城の主。だが、その姿に、完全さはない。
「……騎士というものはな。」
私は言った。ノストラが顔を上げる。
「最後には敵の本拠地に乗り込み、勝利を掴み取るものだ。───だから、それまで殺さなかった。故に、あちらが攻めてきたその時、死を送る。」
ノストラは黙った。その説明は理解できる。だが、それだけではないこともまた、理解している顔だった。
「……それだけ、ですか。」
私は答えなかった。沈黙。それが、すべてを語っていた。抱いていた疑念が確信に変わっただろう、ノストラの眉が僅かに寄る。
「理解できません。」
率直な言葉だった。
「敵です。あの女は。父上様に刃を向けた者です。」
声が徐々に強くなる。
「そんな夢物語を、なぜ遂行しようなどと……!」
「そうだな。」
私は短く応じた。
「今私たちは窮地に立たされているのです。いったい何故、子供達の無念を晴らさずにおれましょう!」
ノストラの声が、さらに強まる。
「村にいたのならば、あの時決着をつけたならば、残る人間どもの血を使って、なんの抵抗もさせず殺すことだってできたはずです!」
かつてないほどの怒りだった。
「それで良いと思っていらっしゃるのですかッ!」
私は小さく息を吐いた。そして、言った。
「……わからん。」
ノストラの目が見開かれる。信じられない、という顔だった。私は続ける。
「だが。」
言葉を探す。
「あれを無念のうちに殺してしまうのは───
……あまり愉快ではない。」
それが、今の私に言える限界だった。ノストラは黙り込む。理解できない、という顔。だが同時に、何かを感じ取った顔でもあった。
「……ならば。」
ノストラは一歩前に出る。
「私が殺します。」
その言葉に、私は即座に言った。
「やめろ。」
低い声になってしまった。そう、はっきりとした拒絶だった。ノストラが動きを止める。
「行くな。───行くな。」
同じ言葉を繰り返す。それだけで十分だった。ノストラはそれ以上言わなかった。しばらく私を見つめる。その視線は、先ほどとは違っていた。怒りではない。諦めでもない。ただ───察したような目だった。
「……そうですか。」
小さく呟く。そして、ゆっくりと頭を下げた。
「わかりました、従います。」
それ以上は何も言わない。ノストラは踵を返し、静かに広間を後にした。扉が閉まる音が響く。再び、静寂が訪れる。私は一人になった。かけられた鏡を見る。ひび割れた像の中の自分を。
王。怪物。そのいくつもの自分の中に、ふと変わった姿を見つけた。
「……らしくないな。」
小さく笑う。肘掛けに体重を預け、天井を見上げた。
「だが。」
ぽつりと呟く。
「それも、悪くない。」
城は静かだった。ただ───誰かの足音を、待つように。




