君の手のひらで
夏の終わりが近づくと、街の空気が少しだけ重くなる。
湿った風が首筋を撫でるたび、俺は無意識にため息をついていた。
彼女の名前は陽菜。
初めて会ったのは、去年の夏の終わり。
カフェの窓際で、陽菜がぼんやりと外を見ながらコーヒーをかき混ぜていた。
俺が隣の席に座った瞬間、彼女はふっと視線を寄せてきて、
「ここ、いつも空いてるよね」って微笑んだ。
その一言で、俺の日常は静かに傾き始めた。
陽菜はいつも、俺の予想の半歩先を歩く。
俺が「今度、映画でも行かない?」と誘えば、
「いいね。でもその日は予定が……」と曖昧に笑って、
次の週には「やっぱり行こっか」って急に連絡をよこす。
俺が喜んで準備を整えると、また「ごめん、やっぱり無理かも」って消える。
その繰り返しが、まるで呼吸みたいに自然になっていく。
陽菜の声は柔らかくて少し低めで、
電話の向こうで「ねえ、起きてる?」って囁かれるだけで、俺の心臓は勝手に暴れ出す。
でもそのあと必ず来るのは、「今、誰かと飲んでるんだけど……」という一言。
俺は「へえ、楽しそうじゃん」って平静を装うけど、受話器を握る手が震えていることに自分でも気づいている。
陽菜は俺の弱いところを全部見透かしている。
俺が少し拗ねた顔をすると、「可愛いね、そういうところ」って指先で俺の唇をなぞる。
その瞬間だけ、俺は世界で一番大切にされている気がする。
でも次の瞬間には、彼女はもう別の誰かの話をして笑っている。
俺はその笑顔を見ながら、胸の奥で何かが少しずつ削れていくのを感じる。
ある夜、俺は我慢できなくて陽菜に聞いた。
「俺のこと、どう思ってるの?」
陽菜は少しだけ目を伏せて、「好きだよ」って言った。
でもその声は、どこか遠くを眺めているみたいだった。
「でも私って、誰かをずっと大事にできるタイプじゃないかも…」
その言葉が俺の胸に深く刺さった。刺さったまま抜けない。
抜こうとすればするほど、血がにじむ。
それでも俺は、陽菜からのLINEが来るのを待ってしまう。
深夜の「今、近くにいるんだけど……」の一文だけで、靴を履いて飛び出す。
彼女が待っているベンチに着いたら、陽菜は少し疲れた顔で俺を見て、
「来てくれたんだ」って小さく笑う。
その笑顔を見た瞬間、俺はまた全部許してしまう。
彼女に触れると、温かくて柔らかくて…でもすぐに離れていく。
抱きしめても、俺の腕の中で彼女は少しずつ遠ざかる気がする。
まるで、掴めば掴むほど指の間からこぼれ落ちていく砂みたいに。
俺は知っている。
この関係は俺にとって甘い毒だということ。
飲めば飲むほど体が熱くなって、やがて心がぼろぼろになるということ。
それでも、陽菜の視線が俺に向けられる一瞬だけは、俺は生きている実感がする。
ある雨の夜、陽菜は珍しく俺の部屋にいた。
窓の外で雨音が響く中、遥は俺の胸に頭を預けて、
「ねえ、こんな私でもいい?」って呟いた。
俺は答えられなかった。
ただ陽菜の髪をそっと撫でた。
その感触が、愛しくて、痛くて…。
どうしようもなく切なかった。
陽菜は俺を見上げて、「ごめんね」って言った。
でもその目は、もうどこか別の場所を見ていた。
俺は思う。陽菜に勝てない。
敵わない。
振り回されて、傷つけられて、それでもまた陽菜の掌に戻ってくる。
まるで、陽菜の手のひらに描かれた模様の中に、俺の居場所がずっと決まっていたみたいに…。
雨が止む頃、陽菜は静かに立ち上がった。
「またね」その一言を残して、ドアの向こうに消えた。
俺はベッドに座ったまま、動けなかった。
胸の奥で何かがゆっくりと溶けていく音がした。
甘くて、苦くて、どうしようもなく陽菜の色に染まっていく。
――俺はまだ、陽菜の掌から逃げられない。
―終わり―




