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君の手のひらで

作者: 空野 翔
掲載日:2026/04/18

夏の終わりが近づくと、街の空気が少しだけ重くなる。

湿った風が首筋を撫でるたび、俺は無意識にため息をついていた。


彼女の名前は陽菜。

初めて会ったのは、去年の夏の終わり。

カフェの窓際で、陽菜がぼんやりと外を見ながらコーヒーをかき混ぜていた。

俺が隣の席に座った瞬間、彼女はふっと視線を寄せてきて、

「ここ、いつも空いてるよね」って微笑んだ。

その一言で、俺の日常は静かに傾き始めた。


陽菜はいつも、俺の予想の半歩先を歩く。

俺が「今度、映画でも行かない?」と誘えば、

「いいね。でもその日は予定が……」と曖昧に笑って、

次の週には「やっぱり行こっか」って急に連絡をよこす。

俺が喜んで準備を整えると、また「ごめん、やっぱり無理かも」って消える。

その繰り返しが、まるで呼吸みたいに自然になっていく。


陽菜の声は柔らかくて少し低めで、

電話の向こうで「ねえ、起きてる?」って囁かれるだけで、俺の心臓は勝手に暴れ出す。

でもそのあと必ず来るのは、「今、誰かと飲んでるんだけど……」という一言。

俺は「へえ、楽しそうじゃん」って平静を装うけど、受話器を握る手が震えていることに自分でも気づいている。


陽菜は俺の弱いところを全部見透かしている。

俺が少し拗ねた顔をすると、「可愛いね、そういうところ」って指先で俺の唇をなぞる。

その瞬間だけ、俺は世界で一番大切にされている気がする。

でも次の瞬間には、彼女はもう別の誰かの話をして笑っている。

俺はその笑顔を見ながら、胸の奥で何かが少しずつ削れていくのを感じる。


ある夜、俺は我慢できなくて陽菜に聞いた。

「俺のこと、どう思ってるの?」

陽菜は少しだけ目を伏せて、「好きだよ」って言った。

でもその声は、どこか遠くを眺めているみたいだった。

「でも私って、誰かをずっと大事にできるタイプじゃないかも…」


その言葉が俺の胸に深く刺さった。刺さったまま抜けない。

抜こうとすればするほど、血がにじむ。


それでも俺は、陽菜からのLINEが来るのを待ってしまう。

深夜の「今、近くにいるんだけど……」の一文だけで、靴を履いて飛び出す。

彼女が待っているベンチに着いたら、陽菜は少し疲れた顔で俺を見て、

「来てくれたんだ」って小さく笑う。

その笑顔を見た瞬間、俺はまた全部許してしまう。


彼女に触れると、温かくて柔らかくて…でもすぐに離れていく。

抱きしめても、俺の腕の中で彼女は少しずつ遠ざかる気がする。

まるで、掴めば掴むほど指の間からこぼれ落ちていく砂みたいに。


俺は知っている。

この関係は俺にとって甘い毒だということ。

飲めば飲むほど体が熱くなって、やがて心がぼろぼろになるということ。

それでも、陽菜の視線が俺に向けられる一瞬だけは、俺は生きている実感がする。


ある雨の夜、陽菜は珍しく俺の部屋にいた。

窓の外で雨音が響く中、遥は俺の胸に頭を預けて、

「ねえ、こんな私でもいい?」って呟いた。


俺は答えられなかった。

ただ陽菜の髪をそっと撫でた。

その感触が、愛しくて、痛くて…。

どうしようもなく切なかった。


陽菜は俺を見上げて、「ごめんね」って言った。

でもその目は、もうどこか別の場所を見ていた。


俺は思う。陽菜に勝てない。

敵わない。

振り回されて、傷つけられて、それでもまた陽菜の掌に戻ってくる。

まるで、陽菜の手のひらに描かれた模様の中に、俺の居場所がずっと決まっていたみたいに…。


雨が止む頃、陽菜は静かに立ち上がった。

「またね」その一言を残して、ドアの向こうに消えた。

俺はベッドに座ったまま、動けなかった。

胸の奥で何かがゆっくりと溶けていく音がした。

甘くて、苦くて、どうしようもなく陽菜の色に染まっていく。


――俺はまだ、陽菜の掌から逃げられない。


―終わり―


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