9話 風の匂いが変わる日
九月の風は、夏の名残を少しだけ含んでいた。
遠峰奏斗は、丘の上に立って海を見下ろしていた。
夕陽が水面に落ち、細い金色の道をつくっている。
――この景色、あと何回見られるんだろう。
胸の奥に、言葉にならないざわつきがあった。
父から聞かされたのは、昨日の夜だった。
「来月、転勤になった。引っ越しの準備を始めるぞ」
突然だった。
あまりに急で、頭が追いつかなかった。
学校。
美術部。
そして――白石さん。
その名前を思い浮かべた瞬間、胸が痛んだ。
*
翌日の美術室は、いつも通りだった。
窓から差し込む光、絵の具の匂い、扇風機の低い音。
すべてが変わらないはずなのに、どこか遠く感じた。
「遠峰くん、おはよ」
澪が笑顔で手を振る。
その笑顔が、胸に刺さる。
「……おはよう」
声が少しだけ震えた。
澪は気づかない。
「今日ね、また構図迷っててさ。見てもらっていい?」
「……うん」
澪はスケッチブックを開き、描きかけの風景画を見せた。
光の入り方は綺麗なのに、どこかバランスが悪い。
「ここ、どうしたらいいと思う?」
「……影を、少しだけ右に寄せると……光が生きると思う」
澪は目を輝かせた。
「やっぱり遠峰くん、すごいね。私、こういうの苦手で」
「……そうかな」
「そうだよ。遠峰くんの“目”があるから、私の絵は助けられてるんだよ」
その言葉が、胸に深く刺さった。
――もうすぐ、ここにいられなくなるのに。
言えなかった。
言えるはずがなかった。
*
部活が終わったあと、奏斗は丘へ向かった。
風が強く、海が荒れている。
波の音が、胸のざわつきをさらに大きくした。
スマホを構える。
シャッターを切る。
光が揺れ、波が砕ける。
――この景色を、白石さんに見せたかった。
「……遠峰くん?」
振り返ると、澪が立っていた。
風に髪を揺らしながら、少しだけ心配そうな顔をしている。
「今日、なんか元気ないよね」
「……そう?」
「うん。分かるよ。遠峰くん、表情に出るもん」
胸が痛む。
澪は、いつもこうだ。
大げさな言葉は使わないのに、核心だけは自然に突いてくる。
「……ちょっと、考えごと」
「そっか。無理に言わなくていいよ」
澪は海のほうを見つめた。
「ねえ、今日の海……なんか、秋の匂いするね」
「……うん」
「季節って、気づかないうちに変わるんだよね」
その言葉は、まるで予兆のように胸に落ちた。
奏斗は言いかけた。
「白石さん……俺、実は――」
でも、言葉は喉で止まった。
澪は振り返り、優しく笑った。
「大丈夫だよ。話したくなったら、いつでも聞くから」
その笑顔が、痛いほど優しかった。
奏斗はただ、小さく頷いた。
――言えない。
まだ言えない。
風の匂いが、確かに変わっていた。




