5話 雨の丘で、心が触れる
放課後の空は、どんよりと重かった。
遠峰奏斗は、美術室の窓に落ちる雨粒をぼんやりと眺めていた。
水彩紙の上で乾ききらない色が、湿気で少しだけにじんでいる。
「今日は帰れそうにないね」
白石澪が、窓の外を見ながら言った。
彼女の声は、雨音に溶けるように柔らかい。
「……雨、強いね」
「うん。でも、嫌いじゃないよ。音が落ち着くから」
澪は筆を置き、スケッチブックを閉じた。
奏斗も片付けを始める。
雨の日の美術室は、いつもより静かだった。
「遠峰くん、帰り道どうするの?」
「……丘のほう、通るけど」
「じゃあ、一緒に行こ。私もそっちだから」
胸が少しだけ跳ねた。
でも、断る理由はなかった。
*
校舎を出ると、雨はさらに強くなっていた。
傘を差しても、足元に跳ね返る水が靴を濡らす。
「わ、すごい……」
「……走る?」
「ううん、濡れるだけだよ。ゆっくり行こ」
澪はそう言って、傘を少し奏斗のほうに寄せた。
その距離が、いつもより近い。
丘に向かう坂道は、雨で暗く沈んでいた。
海は見えない。
でも、波の音だけははっきり聞こえる。
「ここ、雨の日は初めてかも」
「……俺も」
東屋に着くと、二人は傘を閉じて屋根の下に入った。
雨が屋根を叩く音が、静かに響く。
澪はスカートの裾を軽く払ってから、海のほうを見た。
「ねえ、遠峰くん」
「なに?」
「私ね、女子とあんまりうまく話せないんだ」
突然の言葉に、奏斗は息を呑んだ。
「……今日、また言われちゃってさ。“男子に媚びてる”って」
「そんな……白石さん、そんな人じゃないよ」
「分かってる。でも、言われると……ちょっとだけ、しんどい」
澪は笑おうとしたが、その笑顔は少しだけ弱かった。
「遠峰くんは、女子と話すの苦手なんでしょ?」
「……うん。怖い」
「だよね。でも、私とは話せるんだよね」
その言葉に、胸が熱くなる。
「白石さんは……なんか、話しやすいから」
「ふふ、嬉しい」
澪は雨の向こうを見つめながら、静かに続けた。
「遠峰くんって、優しいよね。写真も、言葉も」
奏斗は返事ができなかった。
喉が詰まって、声が出ない。
澪は少しだけ顔を上げた。
「ねえ、今日の海……撮らないの?」
「……見えないよ」
「見えなくても、撮れるんじゃない?」
奏斗はスマホを取り出し、雨の向こうに向けた。
海は見えない。
でも、雨のカーテンの奥に、かすかな光が揺れている。
シャッターを切る。
画面には、灰色の世界に落ちる光の筋が写っていた。
「……綺麗」
「え?」
「雨の中の光って、こんなふうに見えるんだね」
澪は画面を見つめ、静かに微笑んだ。
「遠峰くんの写真って、やっぱり優しい」
「……そうかな」
「うん。私、こういうの好き」
雨音が、二人の間を満たす。
言葉は少ない。
でも、心は確かに近かった。
*
帰り道、雨は少し弱まっていた。
丘を下りながら、澪がぽつりと言った。
「ねえ、遠峰くん」
「うん」
「今日、話せてよかった」
その言葉は、雨上がりの光のように胸に落ちた。
「……俺も」
「また、ここで話そうね」
奏斗は頷いた。
雨の匂いが、少しだけ優しく感じられた。




