4話 視点を交換する午後
放課後の美術室は、いつもより静かだった。
窓から差し込む光が、机の上の水彩紙を淡く照らしている。
遠峰奏斗は、筆を持ったまま動けずにいた。
――今日の構図、どうしよう。
静物画の課題。
花瓶と果物。
ただ置かれているだけのモチーフなのに、どこから見ても“しっくりこない”。
筆を置いてため息をついたとき、横から声がした。
「遠峰くん、迷ってる?」
白石澪だった。
彼女のスケッチブックには、すでに淡い色が重なり、柔らかな光が描かれている。
「……うん。どこから描けばいいのか分からなくて」
「構図って、難しいよね」
澪は自分の席から立ち上がり、奏斗の隣に座った。
距離が近い。
胸が少しだけざわつく。
「遠峰くんって、写真だと迷わないんでしょ?」
「え……まあ、なんとなく、だけど」
「その“なんとなく”を教えてほしいな」
澪はそう言って、花瓶を見つめた。
「私、いつも“描きたいもの”を中心に置いちゃうんだよね。でも、それだと平坦になっちゃう」
「……ああ、それ分かるかも」
奏斗は、花瓶と果物を見比べた。
そして、自然に言葉が出た。
「白石さんの絵って、光が綺麗だから……光が入る方向を中心に考えるといいかも」
「光……」
「うん。例えば、ここから見たら、果物の影が花瓶に少し重なるでしょ? その重なりを“線”として使うとか」
澪は目を丸くした。
「……すごい。そんなふうに見てるんだ」
「写真だと、光が全部だから」
「なるほど……」
澪はスケッチブックを開き、奏斗が示した角度から描き始めた。
筆が紙の上を滑る。
色が重なり、影が生まれる。
「……ほんとだ。いつもより立体感が出る」
「白石さんの色の使い方が上手いからだよ」
「ふふ、ありがとう」
澪は照れたように笑った。
その笑顔に、胸がまた熱くなる。
「ねえ、遠峰くん」
「なに?」
「私、遠峰くんの“目”で世界を見てみたい」
その言葉は、思っていた以上に強く胸に響いた。
「……俺の、目?」
「うん。写真の構図って、どうやって決めてるの?」
「どうって……なんとなく、だけど」
「その“なんとなく”が知りたいの」
澪は立ち上がり、奏斗の手を軽く引いた。
「ちょっと校内歩こうよ。視点、交換してみたい」
奏斗は驚いたが、断れなかった。
むしろ、断りたくなかった。
*
校舎の廊下は、夕方の光でオレンジ色に染まっていた。
澪は歩きながら、時々立ち止まっては言う。
「ここ、遠峰くんならどう撮る?」
「えっと……この窓の影を入れるかな」
「影?」
「うん。光だけじゃなくて、影があると奥行きが出るから」
澪は窓の影を見つめ、ゆっくり頷いた。
「なるほど……影って、悪いものじゃないんだね」
「むしろ、影があるから光が綺麗に見えるんだと思う」
澪はその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「……なんか、遠峰くんらしいね」
「え?」
「優しい光と、静かな影。遠峰くんの写真って、いつもそう」
胸がまた熱くなる。
言葉が出ない。
澪は続ける。
「私、遠峰くんの写真、もっと見たいな」
「……うん。今度、ちゃんと見せるよ」
「楽しみにしてる」
夕陽が廊下を照らし、二人の影が長く伸びていた。
その影は、少しだけ重なっていた。




