3話 小さな誤解と、澪のまなざし
美術室の窓から、春の光が差し込んでいた。
水彩紙の上で色が乾き、絵の具の匂いが漂う。
遠峰奏斗は、今日も筆を持っていたが、集中できていなかった。
――昨日、白石さんに写真を見せた。
その余韻が、まだ胸の奥に残っている。
褒められたことが嬉しくて、でもどこか落ち着かなくて、授業中も何度かスマホを見返してしまった。
「遠峰、スマホ好きだな〜」
突然、背後から声がした。
美術部の二年生、佐伯先輩だ。
明るくて悪気はないが、時々距離が近い。
「なになに? 写真撮ってんの?」
「え、いや……」
奏斗は慌ててスマホを隠した。
その反応が逆に目立ってしまう。
「おー、怪しいなぁ。盗撮とかしてないよな?」
「っ……!」
その言葉が、胸に刺さった。
冗談だと分かっている。
でも、奏斗がずっと恐れていた言葉だった。
手が震える。
喉がつまる。
言い返せない。
「佐伯先輩、それ言いすぎ」
澪の声が、静かに割って入った。
強くはない。
でも、はっきりとした声だった。
「遠峰くん、そんなことする人じゃないよ」
「え、あ、まあ冗談だって。悪かった悪かった」
佐伯先輩は笑って去っていった。
部室の空気はすぐに元に戻ったように見えた。
でも、奏斗の胸はまだざわついていた。
澪がそっと近づいてくる。
「……大丈夫?」
「……うん」
嘘だった。
でも、強がるしかなかった。
「ごめんね。先輩、悪気ないんだけど……言葉が雑なときあるから」
「……俺、写真撮ってるって言うの、怖くて」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「変に思われるのが……嫌で」
「うん。分かるよ」
澪は、奏斗のスマホを見つめる。
「でもね、遠峰くんの写真、変じゃないよ」
「……」
「むしろ、すごく綺麗。優しいし、丁寧だし……“見てる人”の写真だよ」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちていく。
「だから、怖がらなくていいよ。少なくとも私は……遠峰くんの写真、好き」
澪はそう言って、微笑んだ。
その笑顔は、昨日丘で見た光と同じだった。
奏斗は、胸のざわつきが少しずつほどけていくのを感じた。
*
部活が終わり、帰り道。
奏斗は丘へ向かった。
今日の海は、少し荒れている。
風が強く、波が白く砕けていた。
スマホを構える。
シャッターを切る。
光が波に反射して、細い線のように揺れる。
――白石さんは、俺の写真を“好き”って言った。
その言葉が、何度も胸の中で反響する。
恋ではない。
でも、確かに特別だった。
「……またここにいたんだ」
振り返ると、澪が立っていた。
風に髪を揺らしながら、少しだけ心配そうな顔をしている。
「さっきの、気にしてるでしょ」
「……ちょっとだけ」
「だよね。でも、ほんとに気にしなくていいよ」
澪は海を見ながら言った。
「遠峰くんの写真、私が保証する。変じゃないって」
「……ありがとう」
その言葉は、海風よりも温かかった。
澪は続ける。
「ねえ、今撮ったやつ、見せて」
「……うん」
奏斗はスマホを差し出す。
澪は画面を見て、ふっと微笑んだ。
「今日の海、強いね。でも、光は優しい」
「光……」
「うん。遠峰くんの写真って、いつも光が優しいんだよ」
その言葉に、胸がまた熱くなる。
澪はスマホを返しながら言った。
「ねえ、また見せてね。遠峰くんの写真」
「……うん」
その返事は、自然に出た。
*
家に帰ってからも、奏斗は何度も今日の写真を見返した。
澪が褒めてくれた光。
優しいと言ってくれた光。
胸の奥が、静かに温かい。
――この人にだけは、見られたい。
その想いが、少しずつ形になり始めていた。




