11話 雲海の朝、光を掬う
引っ越しまで、あと三日だった。
遠峰奏斗は、まだ暗い早朝の空気の中を歩いていた。
冷たい風が頬を刺す。
空には星が残り、東の地平だけがわずかに白んでいる。
――今日しかない。
そう思った。
澪に渡す“最後の写真”を撮るなら、今しかない。
奏斗は、父から借りた古いデジタルカメラを首に下げていた。
スマホよりも重く、扱いも難しい。
でも、この一枚だけは、どうしても本気で撮りたかった。
丘を越え、さらに山道を登る。
息が白くなる。
靴が土を踏む音だけが響く。
やがて、視界が開けた。
――雲海だ。
山の下に、白い雲が広がっていた。
静かで、柔らかくて、どこまでも続いている。
その上に、太陽の光がゆっくりと差し込み始めていた。
金色の線が、雲を割る。
光が揺れる。
世界が、静かに目を覚ます。
奏斗は息を呑んだ。
「……綺麗だ」
胸の奥が熱くなる。
澪に見せたいと思った。
この光を、澪の絵の中でどう描くのか見てみたいと思った。
カメラを構える。
手が震える。
でも、迷いはなかった。
シャッターを切る。
カシャ。
その音は、朝の静けさに吸い込まれていった。
もう一度、角度を変えて撮る。
光の入り方を変え、雲の流れを追い、何枚も撮った。
――澪が好きだと言ってくれた“優しい光”を、ちゃんと掬いたかった。
太陽が完全に昇る頃、奏斗はカメラを下ろした。
胸の奥に、静かな達成感があった。
「……渡そう。ちゃんと」
澪に。
最後に。
*
放課後、美術室はいつもより静かだった。
澪は窓際でスケッチブックを開いていた。
夕陽が髪を照らし、淡い色を落としている。
「遠峰くん、今日……来ると思ってた」
澪は振り返り、少しだけ笑った。
その笑顔は、どこか寂しげだった。
「……これ、渡したいものがあって」
奏斗は封筒を差し出した。
中には、今朝撮った雲海の写真が一枚だけ入っている。
「開けてもいい?」
「……うん」
澪は封筒を開き、写真を取り出した。
光が雲を割る瞬間。
金色の道が、静かに世界を照らしている。
澪は息を呑んだ。
「……すごい」
「うん」
「こんな光、見たことない……」
澪の指が、写真の端をそっとなぞる。
「遠峰くんの光だね、これ」
その言葉に、胸が熱くなった。
「……白石さんに、見てほしかった」
「うん。すごく嬉しい。宝物にする」
澪は写真を胸に抱きしめた。
その姿が、夕陽の中で静かに揺れていた。
「遠峰くん」
「……なに?」
「私ね、遠峰くんの写真……ずっと好きだったよ」
恋ではない。
でも、確かに“特別”だった。
奏斗は、小さく頷いた。
「……ありがとう」
夕陽が沈み、光が薄れていく。
でも、澪の手にある写真だけは、確かに輝いていた。




