10話 言えなかった言葉、言わなければならない言葉
十月の風は、夏の匂いを完全に手放していた。
遠峰奏斗は、美術室の扉の前で立ち止まった。
胸の奥が重い。
今日こそ言わなければならない。
――転校する。
その言葉を思い浮かべるだけで、喉が締めつけられた。
扉を開けると、いつもの光景が広がっていた。
窓から差し込む午後の光。
絵の具の匂い。
澪がスケッチブックを開いている姿。
「遠峰くん、おはよ」
澪はいつも通りの笑顔だった。
その笑顔が、胸に刺さる。
「……おはよう」
声が少しだけ震えた。
澪は気づかない。
「ねえ、今日の光、すごく綺麗だよ。窓の影が長くてさ、なんか秋って感じ」
澪はスケッチブックを見せてくる。
淡い色が重なり、光が柔らかく描かれていた。
「遠峰くん、これどう思う?」
「……綺麗だと思う」
「ほんと? よかった」
澪は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、奏斗は言えなくなった。
――こんな顔をしているのに、どうして言えるんだ。
胸が痛い。
でも、言わなければならない。
*
部活が終わる頃、奏斗は意を決して澪に声をかけた。
「白石さん……ちょっと、いい?」
「うん。どうしたの?」
澪はスケッチブックを閉じ、奏斗のほうを向いた。
その目は、いつも通りまっすぐだった。
奏斗は深く息を吸った。
「……俺、来月……引っ越すことになった」
澪の表情が、ゆっくりと止まった。
「……え?」
「父さんの転勤で……急に決まって……」
言葉が途切れる。
喉が痛い。
胸が苦しい。
澪はしばらく何も言わなかった。
ただ、静かに奏斗を見つめていた。
「……そっか」
その声は、驚くほど静かだった。
「いつ……?」
「来月の……最初の週」
「……すぐだね」
澪は視線を落とした。
スケッチブックの表紙を指でなぞりながら、ゆっくりと言った。
「遠峰くんの写真……もっと見たかったな」
その言葉は、涙よりも痛かった。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。遠峰くんのせいじゃないし」
澪は無理に笑おうとしたが、その笑顔は弱かった。
「でも……寂しいな」
その一言で、胸が崩れた。
「……俺も」
「うん」
澪は窓の外を見た。
夕陽が沈みかけていて、光が長く伸びている。
「ねえ、遠峰くん」
「……うん」
「最後に……また写真、見せてね」
その声は、風に溶けるように静かだった。
奏斗は、小さく頷くことしかできなかった。
――この時間が、終わってしまう。
その現実が、ようやく胸に落ちてきた。




