1話 海の見える丘で
入学式のざわめきが、まだ耳の奥に残っていた。
遠峰奏斗は、胸の名札を指で押さえながら、校舎裏の坂道を上っていた。
風が強い。潮の匂いが混じっている。
この丘の上から見える海が、奏斗は昔から好きだった。
理由はうまく言えない。
ただ、光が水面に落ちる瞬間を見ていると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
スマホのカメラを構えたくなる。
でも、誰かに見られたらどう思われるだろう。
「カメラ小僧」とか「盗撮」とか、そんな言葉が頭をよぎる。
だから、奏斗はいつも人のいない時間を選んでここに来ていた。
――そのはずだった。
「……あれ、遠峰くん?」
振り返ると、制服のスカートを押さえながら、ひとりの女子が坂を上ってきていた。
白石澪。
入学式で、奏斗が一瞬だけ目を奪われた相手。
風に髪を押さえる仕草が、光の粒みたいに見えた。
その瞬間を撮りたいと思った。
でも、撮れなかった。
撮ってはいけない気がした。
「こんなところにいたんだ」
「……うん」
声がうまく出ない。
女子と話すのは苦手だ。
息が浅くなる。
「海、見えるんだね。知らなかった」
「……うん。ここ、好きで」
澪は海を見て、目を細めた。
その横顔が、絵のように静かだった。
「遠峰くんって、写真とか好きなの?」
「っ……!」
心臓が跳ねた。
どうして分かったんだろう。
いや、スマホを握っていたからか。
「べ、別に……その……」
「ふふ。なんか、そんな感じがしただけ」
澪は笑った。
その笑顔に、奏斗は言葉を失った。
――この人は、怖くない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
*
美術部の部室は、校舎の端にある。
窓が大きくて、午後の光がよく入る。
部員は十人ほど。
新入生は奏斗と澪だけだった。
「じゃあ一年生は、まず水彩からね」
先輩がパレットを渡してくれる。
奏斗は筆を持った瞬間、嫌な予感がした。
絵は苦手だ。
線も色も、思った通りにいかない。
案の定、紙は水でふやけ、色は濁り、筆跡はガタガタになった。
「……はぁ」
ため息が漏れたとき、横から声がした。
「遠峰くん、筆圧強いんだね」
澪だった。
彼女のスケッチブックには、淡い色が重なり合って、光のような風景が描かれている。
「こういうときはね、紙の上を“なでる”感じで動かすといいよ」
「……なでる?」
「うん。ほら、こう」
澪が奏斗の手元を見ながら、軽く筆を動かしてみせる。
その動きは驚くほど滑らかで、迷いがなかった。
「すご……」
「慣れだよ。私も最初は下手だったし」
澪は笑う。
その笑顔は、海の丘で見たときと同じだった。
「遠峰くんは、写真のほうが得意なんでしょ?」
「っ……なんで……」
「構図の取り方が、なんか“見てる人”の目だなって思っただけ」
奏斗は言葉を失った。
誰にも言っていないのに。
言えなかったのに。
「……写真、好きなんだ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「うん。知ってるよ」
「なんで……」
「だって、遠峰くんの目、優しいもん」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
誰にも言えなかった秘密を、
この人だけは、自然に受け止めてくれる。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
*
帰り道、奏斗はまた丘に立っていた。
夕陽が海に沈む。
光が揺れる。
スマホを構えた。
シャッターを押す。
今日の光は、少しだけ違って見えた。
――澪が見てくれたら、どう思うだろう。
そんなことを考えてしまう自分に、奏斗は驚いた。
でも、悪くなかった。




