池の神様への願い事
深夜、高校近くにある池に自分の姿を映して願掛けをすると、願いが叶う――。
そんな噂が流れ始めたのは、六月の下旬だった。
◇◆◇
「ねえ美香! 池の噂、試そうよ」
休み時間、隣のクラスのアキがわたしを訪ねてきた。
アキは親戚で、お互いの家も徒歩十分くらいの距離。生まれる前からの付き合いになる。アキは怖い話やおまじない、都市伝説とかが大好きだから、やるって言い出すと思っていた。
「無理だよ。真夜中に出かけるなんてできないよ」
大きな一軒家のアキの家と違って、うちは普通の賃貸マンション。夜に両親の部屋の前を通って抜け出すなんて不可能だ。
「だったら土曜日、ウチに泊まりにくればいいじゃん。期末の勉強会ってことにして。ね」
アキはそう言って、思わせぶりに笑った。
わたしは無理やり笑って、
「お父さんに確認するね」
とだけ答えた。
親戚、ではあるがわたしの家はアキの家の分家だ。
アキの祖父母や両親は『もう本家とか分家とかそんな古いこと関係ない』と言っている。けれど、お盆やお正月にはわたしは両親と一緒にアキの家に手土産を持って挨拶に行く。アキの家からは誰も挨拶に来ない。
アキはこの関係を良く理解している。
「大丈夫。反対されたら、アタシが説得してあげるからね」
ほらね。わたしが断ることも、両親が泊まりに反対することもアキの選択肢には最初からない。
第一、お父さんは『土曜日にアキの家で期末試験の泊まりの勉強会するんだけど』と言えば反対しない。
それどころか、アキの意見に反対しようものなら『一番最初のお友達はアキちゃんなんだから』とやんわり圧力をかけてくる。
結局、令和になっても根本的な部分は変わっていないし、変わらない。
◇◆◇
土曜日の深夜一時。アキとわたしはこっそり家を抜け出した。誰かが起きて叱ってくれればいいと思ったけど、こういう願いは叶わない。
車すら通らない薄暗い国道に、わたしとアキの足音だけが響く。
池はアキの家から徒歩十分くらいのところにある。すっごく綺麗とかそういうことはない普通の池だけど、この村一番の観光名所でもある。
「この池ってさ、水の神様が住んでるっていうじゃん。だからどんな日照りでも、絶対にこの池だけは枯れなくて、村の人たちを助けてきたって」
「うん」
この村の昔話だ。説明されなくても知ってるし、村の観光ガイドにも載っている。
「でもね、本当は人身御供を捧げてたんだって」
「人身御供?」
この話は始めて聞いた。
「そ。日照りのたびに神様に占いで選ばれた人身御供を捧げて、池の水が枯れないようにって祈ってたんだって」
雨乞いのがいいんじゃない?
そう思ったけど、真夜中に付き合わされている意趣返しを込めて、
「そうなんだ。やっぱ同じような話ってあっちこっににあるね」
と明るく言った。
わたしが知らなかったことで、得意げな表情をしていたアキはムッとした顔になった。
「美香、先に試してみてよ」
どうせそんなことだと思った。好きなわりに、自分が先陣をきることはしない。
言い返すのも面倒だから、地面に手をついて池を覗き込んだ。暗い水面に自分の顔が映る。鏡で見るより顔が縦に長く感じる。
そんなことを考えていたら、ふっ、と空気が動いた。次の瞬間。
「ドーン!」
アキの声とともに背中に衝撃を感じた。とっさに池の中に手をつく。跳ねた水が顔やTシャツにかかる。濡れた土のような水の匂いが、体中に纏わりついた気がした。
「なにするのよ!」
振り返るとアキがニヤニヤ笑っていた。
「ちょっとふざけただけでしょ。だいたい、この池じゃ落ちても溺れないって」
「人は三十センチあれば水死するんだよ」
「落ちてないじゃん。美香はいつも大げさなんだよ」
はあ、とアキはわざとらしいため息を吐いて、クルリと背を向けた。
「ちょっとアキ!」
「人は三十センチあれば水死するんでしょ。危ないじゃん」
帰る、とアキは歩き出した。
自分から言い出したくせに、池の噂はどうでも良くなったらしい。
わたしはアキの背中を睨みつけた。
どうせ月曜日には、高校で「自分が一人で試してみた」と言って回るんだろう。
高校を卒業したら、東京の大学に進学することは決めている。でも、どこに行ってもアキという存在はついてくる。実家と、一番最初の友達、という言葉を盾にして。
アキのことは、本当に一番最初の友達だと思っていた。十歳くらいまでは間違いなく親友だった。
左の手のひらがヒリヒリと痛んだ。
見ると一センチくらいの小さな傷ができていた。池の中の石か何かで切っちゃったんだろう。
――今のアキなんて、いなくればいいのに。
パシャン。ピシャン。
真夜中なのに、池から大きく水が跳ねる音が聞こえた。
◇◆◇
奇妙な夢を見た。
ビシャン、ビシャンと水音が近づいてくる。
水音はわたしの真横で止まり、すぐにくぐもった声が聞こえてきた。アキがうなされているらしい。
土が濡れたような匂いが鼻先を掠めた。池の匂いだ。
そう思ったけど、体は泥のように重たくて動かなかった。
ふたたび意識が遠のくなか、頬に冷たいものがあたった。
◇◆◇
「――て。朝だよ、起きて」
優しい声と、肩を軽く叩く感触に目を覚ました。
見慣れない木目の天井に、アキの家に泊まったことを思いだす。
ここはアキの家の座敷だ。座卓の上には、勉強会という言い訳用の教科書やノートが広げたままになっている。
「おはよう」
「……あ、うん。おはよ」
朝が弱いアキがわたしより早く起きるなんて珍しい。布団もすでに畳んである。
珍しい、というよりも、なんでだろう。今のアキにはすごく違和感がある。こんなに柔らかく微笑む子だったっけ。布団を畳むのだって、なんだかんだ理由をつけてわたしに押しつけていたのに。
「どうしたの? 美香ちゃん」
アキが《ちゃん》を付けてわたしを呼んでいたのは十歳くらいまで。今はふざけたって呼ばない。
違和感で頭が上手く働かない。
左の手のひらに貼った絆創膏がはらりと剥がれた。切り傷が小さな血の玉を作る。
『人身御供を捧げてたんだって』
昨夜、アキから聞いた話が脳裏をよぎった。
人身御供を捧げたという池の中で、わたしは傷を作った。たった数滴とはいえ血は水の中に流れたはずだ。だから神様は願いを叶えてくれたんだろうか。
だとしたら、今のアキの中にいるのは、誰なんだろう。
――あなたは誰?
喉元まで出た質問をわたしは飲み込んだ。
ニコニコと子供の頃のように笑うアキとなら、ずっと仲良くいられるって思ったから。




