夏乃セツナの《弱み》
私は夏乃セツナさんに惹かれている。
どこに惹かれているのかと聞かれても、正直自分でもよくわからない。でも、心は無意識のうちに彼女に引き寄せられてしまう。
本当は「好き」だと自覚している。だけど、その気持ちを認めたくなかった。
だって、私と夏乃さんでは、天と地ほどのスクールカーストの差がある。普通に話すことすら難しい関係だ。
話すくらいなら、勇気を出せばできるかもしれない。けれど、それには大きな壁がある。
――彼女の秋月瑠花さんという、可愛くて完璧な恋人の存在。
私なんかが入り込む余地なんてない。だから、想いに蓋をして、卒業とともに忘れようとしていた。
……なのに。
なのに、あんなものを見つけてしまったら、忘れようにも忘れられない。
彼女の秋月さんには、少し罪悪感がある。でも、見つけてしまったからには、もう利用するしかないじゃないか。
「……同じクラスの冬野トワさん、だよね? 急に呼び出してどうしたの?」
夕暮れ時、傾きかけた陽の光が古びた窓ガラスを通して差し込む。
埃まみれの旧校舎、音楽準備室。誰も使わないこの場所に、私は夏乃さんを呼び出した。
ピアノの椅子に腰掛ける私の前で、彼女は木製の椅子の埃を手で払いながら座る。その拍子に、細かな埃がふわりと舞った。
夏乃セツナ――。
彼女はいわゆる“一軍”の女子。
スカートは短く折られ、髪はほとんど茶色に近い。制服のブレザーも着崩していて、アクセサリーまでつけている。
私が同じ格好をしたら、きっと先生に怒られる。でも、夏乃さんは怒られない。なぜなら、彼女は頭が良くて、先生たちに“清楚な優等生”という印象を持たれているから。
――ずるい。
私なんか、ブレザーのボタンをひとつ付け忘れただけで注意されたのに。
それでも彼女は美しい。
軽いメイクを施した顔は、まるでモデルみたい。すっぴんでも中の上くらいの顔立ちだと思う。いや、すっぴんを見たことはないけれど。
私はポケットからスマホを取り出し、画面を彼女に向ける。
「夏乃さん、これって何?」
彼女はスマホの画面を見つめると、一瞬で表情を強張らせた。
「……?! ど、どこでこんなの見つけたの?!」
やっぱり、これは彼女の《弱み》なんだ。
顔色が変わり、戸惑う仕草がそれを物語っている。
可愛いな、と思った。
普段は余裕たっぷりで、自信に満ち溢れている彼女が、こんなにも焦っている。そんな表情を見るのは初めてで、思わずもっと見たくなってしまった。
「これ、みんなに見せてもいい?」
「ダメに決まってるでしょ!」
彼女は音楽準備室に響き渡るような声で叫び、私のスマホを奪おうとする。
その拍子に、楽器のケースに脚がぶつかり、また埃が舞った。
「ちょっと暴れないでよ。埃が舞って、鼻がむずむずするんだけど」
「……それはごめん」
夏乃さんは一瞬だけ申し訳なさそうに目を伏せた。でも、すぐに鋭い視線を向けてくる。
「で、どうするつもり?」
私は少しだけ笑ってみせた。
「簡単なこと。これから、私の命令を聞いてくれるなら、誰にもバラさない」
「命令?」
「うん。週に何回か呼び出すから、その時にお願いすることを聞いてほしいの」
彼女はしばらく私の目を見つめ、何かを考えているようだった。
「……何をさせるの?」
「課題とか、掃除とか、雑用とか……そういうの」
本当は、そんなことがしたいわけじゃない。
ただ、こうでもしないと話すことすらできないから。
夏乃さんは、小さく息を吐いた。
「……まぁ、それくらいならいいけど」
「なら、ルールを決めようか」
私は条件を提示する。
「命令は常識の範囲内で、暴力禁止、変なことも禁止。この関係は誰にも言わない。これでどう?」
「……いいよ」
彼女は、意外にもあっさりと了承した。
「じゃあ、せっかくだし何か命令してみなよ」
「えっ……?」
私は思わず言葉に詰まる。
なんでそんなにノリノリなの?
普通、もっと嫌がるものじゃないの?
「命令かぁ……。いきなり言われると、何も思いつかないなぁ」
いざ考えると、彼女にさせたいことなんて……。
あ、でも、ひとつだけ思いついた。
「なら、一緒に帰ろ」
そう言うと、夏乃さんは驚いたように目を丸くした。
「えっ、それだけ?」
「うん」
「そんなの命令されなくてもするけど……まぁ、いっか。じゃあ帰ろ」
彼女はひょいっと立ち上がり、私を振り返る。
「ほら、手」
「えっ?」
「普通、友達と帰る時って手を繋ぐでしょ?」
「いや、繋がないよ……」
「そうなの? 私、秋月とはいつも繋いでるけど」
――秋月さん。
彼女の本当の恋人。
その名前を聞いた途端、胸の奥がずきりと痛んだ。
「それは彼女だからでしょ」
「そういうもんなのかなぁ」
彼女は何か納得できないような顔をして、それでも手を引っ込めた。
「じゃあ、一緒に帰ろっか」
「……うん」
夏乃さんが音楽準備室のドアを開けて、先に外へ出る。
私は、その背中を追いかけながら、そっと思う。
――秋月さんには悪いけど。
夏乃さんの時間は、私が独り占めさせてもらう。
彼女の横顔を盗み見ながら、そう心の中で宣言した。