10b-2 刺青と地図
何かを調べる際に重要な事はなにか。
それは、判断材料となる情報が少ない時は、可能性を並べた上であえて判断を保留する事だ。
これは一見優柔不断にも思えるが、限られた情報での予測を元に何かを決めて、それが間違っていたらいざという時に目も当てられない事になるからだ。
そして判断を保留した後に必要なのは、今度は集める情報の正否と軽重の判断に予断が入らないように気をつける事だ。
人間、自分で思い付いた『グッドアイデア』にはついつい肩入れしてしまう。新しい情報を得るのはいいが、無意識に思い付きを補強する形で内容を取捨選択してしまい、気がつけばグロテスクな陰謀論になり果てていた、なんて事がしょっちゅう起きる。
そうならない為にはどうすればいいか。
保留すると決めた思い付きを一度頭から追い出して、あえてバカになることだ。
「んあー」
「大丈夫か『無垢なる者』、普段よりさらに残念な顔になってるぞ」
***
夜明け前から降り始めた雨は、日が出るはずの時間にはザーザーとした本降りとなり、イビキ野郎をはじめとした天気が読める連中が言うには今日の内には止みそうにないという事だった。
朝飯の時間に顔を出した訓練士が今日の訓練はなしと告げて、自由民剣闘士達は街へ繰り出す相談をはじめ、奴隷剣闘士でも財布に余裕がある連中は女を呼び出す算段を付けはじめた。
「カネがある連中はそれでいいけどよ」
と訓練同期の誰かがボヤく。
「素寒貧の俺らにしたら、ここで駄弁るのが精一杯だよな」
剣闘士団では一番の新入りである俺達訓練同期は、参加した興行も少なければ稼ぎも少ない。後先考えずにカネを使えば、自由への道が遠くなる。
というわけで飯のあとも食堂に居残った俺達貧民組は、訓練同期や顔見知りのベテラン剣闘士とあちこちで顔をつきあわせ、世間話だの私物の盤上遊戯だので時間を潰すことにした。
吹きさらしの窓から入る湿った空気と雨音を背景に、だらだら管を巻く野郎共。
その中でも一際人が集まっているのが、イビキ野郎が色男に刺青を入れている一角だった。
***
「うーい」
後から顔を出した俺に杯を上げたのは、寝椅子にだらしなくもたれ掛かった色男だった。
杯の中には痛み止めを兼ねた強めの酒が入っており、顔の赤みがすでにそこそこ飲んでいることを示していた。
脇に座ったイビキ野郎がガウガウ唸る。
「なんて?」
「線引いてるんだから動くなって」
イビキ野郎の手には刺青針が握られており、色男の胸の傷に沿って慎重に線画を描いていた。
「傷痕を活かした絵を入れるんだってよ」
と、最初から見ていたらしい債務奴隷が教えてくれた。
「傷痕を木の枝に見立てて、咲き誇る花の絵を彫るんだと」
イビキ野郎の手元には、顔料が入った小皿がいくつかに何種類かの刺青針、水の入った桶と空の桶が配置してあった。
イビキ野郎が小皿の一つを示す。頷いた色男が水で口を濯いでから顔料を口に含み、唾液でのばしてから小皿に戻した。改めて水で口を濯いで空の桶に吐く。
イビキ野郎が顔料に針先をつけて線を引くのを再開する。
みるみる一本の傷痕が枝分かれした木の枝へと変わっていく。
イビキ野郎が刺青を彫れると知ったのは、俺達が例の『ヤバい連中』をぶっ殺して色男が左肩から胸にかけてでっかい傷を負った時の事だった。
剣闘士にとっちゃ傷痕も勲章の内と言えば聞こえいいが、目立つ傷は人によっては敬遠される。治したり目立たなくさせる術があれば選択肢としては候補に入る。
というわけで傷を覆うように刺青を入れるのはこの世界ではそれほど珍しい事ではないそうなのだが、そこでイビキ野郎が自分も彫れると言い出した。
ほんとかよー、と俺が先生の所で勉強するときに使っている粘土板──薄い板に木枠がついて浅い窪みになっていて、そこに粘土を塗った物──を渡して見れば、見事な鳥の絵なんかを描いて見せ、これなら試しにやらせてみるかという話になった。こいつら変なところで度胸あるな。
刺青の道具類は危険物の所有が許されない奴隷剣闘士の代わりに色男がカネを出して、イビキ野郎に貸し出すという形を取ることにした。
「まぁ実質奴のもんだよ」
と色男。
「まずは俺の刺青代がわりだな。その後は好きに使わせて、奴が自由を買い戻したら祝いに渡すさ」
「だがよ、今んとこ腕は悪くないぜ」
感想を述べつつ債務奴隷が俺を見た。
「『無垢なる者』も、次はその肩の傷に刺青を入れて貰ったらどうだ?」
俺はそっと右肩の傷をなぞった。御披露目興行で女顔に貰った傷の縫い痕は、今ではそこだけ変色して目立っている。
とは言えども。
「俺の『部族』じゃ、刺青は、あんまり人気がなくて」
俺はまだ元の世界に戻ることを諦めていない。
現代日本では刺青への視線はまだまだ厳しい。この世界と剣闘士生活に慣れてきたとはいえ、そのあたりの線引きは必要だった。
「部族といえば、『無垢なる者』、この間の新入りの入団試験で同郷の連中の居場所がわかったんだろ?」
と、ふと気がついたように債務奴隷が言った。
「俺らに頼んでいた人捜しの件は続けるのか?」
「それはつづけて」
後ろでは、酒を注ごうと急に動いた色男が、刺青針で乳首をひっかかれて悲鳴を上げていた。
***
さて、この世界には実は割とちゃんとした地図がある。
俺の剣闘士団がある都市を含む国──四都市同盟は、自由民による自治都市の大同盟であり、同時にある種の商業同盟としての側面を持っていた。
商業の本質は流通であり、流通は道であり海路であり、都市と都市を結ぶ道を示した地図があるわけだ。
「地図が見たい、ですか」
俺は先生の所に顔を出してそれを見たいと頼んでいた。
手元には、犯罪奴隷や債務奴隷といった娑婆にコネがある訓練同期に頼んで集めた、変な死に方をした余所者や、数の数え方がおかしい奴の噂話があった。
つまり、異世界転移が疑われる事例集だ。
同郷の剣闘士候補生と会ってから俺が疑っている事がある。
あまりにも異世界転移者に都合の良い、擁護者がいる街の事だ。
もしも件の街が黒幕ならば、予行練習を疑われる初期の異世界転移の犠牲者は、この街を中心とした広範囲に広がっているのではないか。
逆に言えば、疑わしい事例集を地図上にプロットすれば、その中心に件の街があるのではないか。
俺はしぶしぶと地図を出した先生にお礼を言うと、地図上に数を数えるときに使っていた小石を慎重に置いていった。
***
で。
「全然違うじゃねーか!!」
なんか全然関係ない街が中心になったのだが?




