狂気―ラシュエル視点―
それは、御零の店の中、狭く簡素な部屋には似つかわしくない大きなベッドの上、愛しい少女はあどけない表情を見せる。
『あ、ラシュエル。もう、だめ…』
甘えるような声、涙に揺れる漆黒の瞳は俺を見つめ、その無垢な手を俺に向けて伸ばす。
『早くさわって?寂しくて、どうにかなっちゃいそう』
下着以外は薄絹を纏うのみで、その衣すらもはだけかけ細い肩や腹部が露出されている。艶やかに上気した頬も、いつもよりも熱い吐息も、彼女の何もかもが俺を求めて情欲にまみれている。切なげに強請るような声を出して、俺の気を引こうと必死に鳴く。
『あ、なんで?どこにいくの?やだ』
舌ったらずな言葉。いやいやと首を振るたびにさらさらと黒髪が揺れる。引き込まれそうになる彼女の瞳は縋るように俺を見上げていた。
思わず駆け寄って抱きしめたくなるその光景が、けれど、俺は夢幻であることを知っていた。
そして安堵する。
もし現実にこのような状況になることがあれば、俺が御零を独占せずにいられようはずがない。御零は娼婦であるのだから、きっと誰に対しても、こうするのだと思えば、そんなことは許せない、と。気が狂いそうな嫉妬にかられて、彼女を自由なままでいさせられるとは思えない。この手で自らの側に閉じ込めて、彼女の意思すら尊重出来ず、約束をしたことを守ることさえも出来ない、その危険性すらあるだろう。
そう思うからこそ、俺はあの日以来、御零のもとを訪れることが出来なかった。
まさか己の中にこのようは感情があるとは思ってもみないことであった。酷く愛おしくて、毎日でも会いたいと願っているにも関わらず、それは彼女を傷つけてしまうやもしれないと思えば、何も行動に移すことは出来なかった。
初めてだった。まっすぐに俺を見て、話を聞いてくれた。外見も肩書きにすらも頓着せず、ただ俺自身を見てくれた。
夢の中であるというのに、必死に御零から離れようとする理性を抑え込み、結局、これは夢なのだと断じて、俺は御零に触れた。御零の生身の柔かな腹を親指で、その他の四指で腰を押さえ、反対の手で後頭部に手を差し入れる。反抗もなにもなく、幻想の御零は嬉しそうに笑う。その柔らかな唇を奪って、誘うように薄く開いた唇の合間をすり抜け、自らの舌でその口内を蹂躙する。甘くぬめる御零の舌を優しく吸って、呼吸を奪うかのように深く深く口付ける。俺の頭は痺れて歓喜の感情に包まれる。
『ん、らしゅえる、好き』
口付けの合間、喘ぐように息を吐き、涙に濡れた瞳をゆっくりと開いて、御零は囁いた。
次の瞬間、私は目を覚ました。全身に冷や汗をかいていた。頭がいやに冴えて血の気が引いているような感覚を覚える。
あぁ、私は何を…。
醜い私は、夢の中でさえ、私のままで、御零の瞳に写る化け物の姿に恐怖した。あぁ、このように穢れた身で、私は、綺麗な御零に触れて。あまつさえ、自分の欲望を満たすためだけに、耳に心地よい言葉を御零に言わせたのか。
気持ちが悪い。
自分自身ですらそう思う。
早く、会いたい。御零に。けれど、何をどうすれば私は私を律し続けることが出来るのだろう。そう考えて、ふと、思い至る。
脳裏に浮かんだのは鳥籠に入れられた哀れな金糸雀。
あぁ、そうか。自由を奪えば、きっと彼女は私を嫌う。その瞳が私を嫌悪を込めて見るのだ。彼女以外の他者と変わりのない視線。ただ、それは私の見かけではなく、中身を厭うて。今でも好かれている訳ではないだろう。けれど、彼女はまだ私に笑いかけてくれたというのに…。
あぁ、それだけは、嫌だ。
彼女に会いに行こう。御零と私のたった1つの誓いを違えることだけは、許せない。
どうにか仕事を無理矢理切り上げて、夕闇のなか馬車に乗り、供を一人だけ連れて街に降りた。御零の店の前に着き、店の正面に掛けられた看板を見る。自らが贈ったそれを隠すように貼り付けられた紙に書かれた"休業中"の文字。
私は愕然とした。
そうだ。彼女と私の関係は、ただの娼婦と客でしかない。私が何をどう思おうとも、彼女が店を開けなければ、会うことすら叶わない。
「まるで道化のようだな」
会えずとも、ただの客だとしても、私は、彼女が好きで好きで堪らない。たとえ、この身の破滅を誘う恋だとしても、もう、私には御零しか考えられない。もし、手に入れられないというのならば、どのような方法を取れば良い…。
私が、手に入れたいと願うものは、何故、いつだってあまりに遠く、手に入れ難いのだろうか。