車に轢かれるとアジフライになる世界
「きゃああああああああああああ!!!」
繁華街の交差点。
見飽きて久しい街並みにどんよりとした青空、行き交う喧騒。つまりは、いつも通りの風景。
「うわ……もろに見ちゃった……」
しかしそこに寝転がることで出会えた世界は、些かくたびれた私に未知を届けてくれるものだった――――。
歳を重ねることで初めてその魅力に取り憑かれることがあるが、私もまたその類の一人なのだろう。あと数年も勤めれば訪れる定年、老いてして得られる初めての自由に夢を馳せ、何をしようと考えあぐねた末にたどり着いた趣味。
それが、写真だった。
「グロ……やばいってこれ」
「救急車は!? 警察にも連絡しなきゃ!」
なんとなく、簡単でないのだろうとは思っていた。そしてやはり、知れば知るほどに奥行きを増してゆく。それが写真という世界。
私がそこへ至るまでに要した労は、決して生半可なものではなかった。
「首、変な方に曲がってない……?」
「うーわ、絶対骨折れてるよアレ……」
趣味趣向への理解というものはなかなかに骨を折るもの。これまで全くそんな素振りを見せなかったのだから尚のこと。当然のように良い顔をしない妻を相手取り、退職金の使い道や家事分担の見直しなどに努め、ようやく手にした愛機。寂しい小遣いをやりくりし、あらゆる資料に吟味を重ねて選んだ愛機。
「あっ良いカメラ落ちてる」
私の大切な、大切な宝のひとつ。
「そのおっさんのやつだろ?」
「やめとけって」
初めて手にしたときのことは今でもよく思い出す。触れると同時に感じた金属の冷たさ、施された滑り止めのざらつき、見た目以上の重厚感。こんなものを扱い切れるのだろうかという一抹の不安。
しかし、それら全てをすぐにも吹き飛ばしてしまうほどの喜び、なによりもときめきに溢れていた。
「……あっ! 見てよアレ!」
「フライ化が始まってる!」
そして最初の一枚。あれは初心者だったとはいえあまりに粗末な出来だった。被写体は名も知らぬ一輪。ある程度の知識は叩き込んだつもりでも、やはりそう上手くいくはずもなく。
「すっげ……俺初めて見るわ」
「SNSにアップしようぜ! 絶対バズるって!」
今でこそ、私の作品もそれなりの賛否を貰えるようになった。昨年撮った雪景色はちょっとした脚光を浴びてしまったほど。だが、どうしてなかなか、私の書斎の一等地をいつまでも彩り続ける一枚。
小さな小さな、純白の一輪。
「どんどんサクサクになっていってる!」
「綺麗なキツネ色だ!」
いつしか共にファインダーを覗いてくれるようになっていった妻もまた、あの写真が一番綺麗だとこぼしている。そう娘から聞かされた日のこと、きっとずっと、忘れはしないだろう。
「良い匂い……俺、なんか腹減ってきたな」
「あんまり揚げすぎると堅くなっちゃいそうだね」
昔の私は、いやはや堅い考えに支配されていた。自分がこうと思えばこう、立場を経るごとにそれはより強固なものへと。
「ママ、あのおじさんアジフライに変わっていってるよ」
「あら、今晩はアジフライにしようかしら」
だかしかし、写真。これに出会えたことで私の価値観は180度変わったと言って差し支えないだろう。良い写真の定義はそれぞれにある。無論私にもあるが、なによりも“ 視点 ”だと考えている。
ただ漠然と真っ直ぐに捉えた被写体はあくまでも真っ直ぐな表情でしかない。それが駄目だとは言わないが、しかし少しばかり角度を、視点を変えてやれば、途端に違うものを魅せてくれる。
「……なあ? これって食べてもいいんだっけ」
「完全にアジフライ化した場合のみ、それを食すことが許される。六法全書にはそう記されているな」
「やった! 教えてくれてありがとな!」
写真が、写真こそがそれを教えてくれたのだ。
「あぁ、もう我慢できないよ」
「そ、そうだな……冷めちゃうまえに……」
――なるほど。
ふふ。最期にまた、あの世へ旅立つまえにまた、私にそれを教えてやろうというのだろうか。
「それじゃあ……手を合わせてください――」
ガードレールとは見上げてこそ、その堅牢さを実感できるものなのだな
全てはアジフライがうますぎるせい