Hate
私は背を伸ばして、10㎝ヒールで歩く。
土曜日の午後。
まだ、明るい日差しの中で何事も無かったように。
それが、まるでいつもと同じ日であるかのように。
私の横を、小さな子供が笑いながら走り抜ける。
軽くぶつかった、黄色い小さなリュックサック。
「ごめんなさいっ。」
はっとして、私を振り返った女の子はそう言った。
そして、すぐに追いかけてきた母親も、同じように。
「大丈夫ですよ。」
微笑んで答えれば、ふたりで揃って頭を下げた。
彼女に小さく手を振ると、大きく振り返してくれた。
すぐに繋がれた小さな手と、母親の手。
そのふたつの背中が紛れていく街の中を、見渡した。
みんな、楽しい休日の午後を満喫していて、あちこちから笑顔が溢れている。
そこにいる人達全てが幸せそうなその空気に、私は、どこかから込み上げてくるものを振り払う。
平気。
何でも、ないんだから。
こんなこと、何でもない。
そう言い聞かせて歩き始めようとした、視線の先。
沢山の人が行きかう大通りの向こう側に、私は、見つけてしまった。
笑い合う、一組の男女。
つい、1時間も経たない過去に、私に別れ話をした男が、知らない女といたのを。
さっきまで、あんなに「辛そう」な顔をしていたのに。
「僕が、悪いんだ」なんて、今にも泣き出しそうな顔をして。
突然の別れ話に、言いたいことも、聞きたいことも沢山あったのに、それを言うことを憚ってしまうほどに「辛そう」だったはずの人が、道の向こう側で、あんなにも笑っている。
「好きな人ができたの?」
唯一、聞くことができたそれに
「違う。決して、君を裏切ってはいない。」
― じゃあ、なんで?
なぜ、私と別れるの?
湧いてきた疑問も、彼の潤んだ瞳と「ごめん」と何度も言うその姿に、結局飲み込んだ。
なのにもう、そんな風に笑ってるんだ。
「別の女」と。
結局、あの表情も、言葉も全部、嘘だったのだ。
私は、本当に馬鹿だ。
最後までいい人ぶって、彼を罵ることも、非難することもせずに「わかった」なんて言って。
きっと、彼はそんな私を分かっていたのだ。
「辛そう」な顔をして、「自分を責める」演技をすれば、揉めることなく別れることが出来るのだと。
手を繋ぎ、歩いていく姿を視線で追う。
肩を組むのでもなく、腰に手を回すでもなく、腕を組むでもなく、しっかりと繋がれたふたりの手。
必死に堰き止めていたものは、あっという間に決壊をして、私の頬を流れ落ちていた。
すれ違う人は、私を見ても、見ないふりで通り過ぎていく。
― いなくなれば、いいのに。
幸せそうな彼も、隣で笑う人も。
― みんな、失えばいいのに。
その、幸せな時間も、笑顔も。
― 消えちゃえば、いいのに。
私の記憶から、幸せだった時間も、優しかった時間も、愛し合った、甘い時間も。
そして、「彼」という存在自体も。
今すぐに、すべて消え去ればいいのに。
立ち止まっていた私に、また小さな衝撃が走る。
やんちゃそうな男の子が、腰のあたりにぶつかっていた。
「ごめんなさい。」
まっすぐに私を見上げて謝ったその子は、私を見てその表情を固めた。
こんな街中で、こんな明るい午後に、馬鹿みたいに泣いている大人の女の人など、きっとはじめて見ただろう。
困惑しているその子に、私は何も言わずに歩き始めた。
大人気ないのは、分かっている。
けれど、その純真な瞳が、私の汚れた心の中まで見透かしている様でいたたまれなかった。
足早にそこを抜けて、見つけたタクシーに乗り込む。
自宅の住所を伝えて、そのまま無言で窓の外の景色を眺めた。
少し上げた視線の先には、高くきれいな秋の空。
雲、ひとつない空。
― 雨でも、降ればいいのに。
そしたら、こんな私でも絵になったのに。
― 絵にも、ならないくせに。
こんな、どこにでもいる、普通の女なんて、みっともない、だけ。
顔を歪めて、私は自分を笑った。
小さな電子音を聞いて、鞄からスマホを取り出す。
数回のタップの後、現れた友人からのメッセージを確認して、消去した。
全部、嫌い。
この世界に、今存在しているものすべてが、嫌い。
嫌い。
『素敵な誕生日を。』
今日なんて、いらない。
こんな、誕生日なんて、いらない。
私はスマホの電源を落とし、座席へ頭を預けた。