ツァラトゥストラの欲動
その国では、大人は根絶やされ、子供は滅亡を志向することになっていた……。
これは、とある少年ハジメの幸福で最良な最期の一日のお話。
※登場人物の「死」がテーマです。ご覧になる際は十分にご注意ください。
※誤字脱字等、御座いましたらご報告願います。
※ご意見・ご感想等、お待ちしております。
長らく降り続いた雪は、夜明け前に霙に変わった。
辺りがうっすらと白みはじめた時分にはそれも上がり、ハジメが目を覚ました時には雪の表面がすっかりと冷えて、凍ってしまっていた。
「お早う、今日は良い天気だね」
寝台を整え、顔を洗って朝食の用意をする。
コーヒー用の湯を沸かしている間、ハジメは機械を弄って配下の監督官たちと会話を交わす。
空中に浮かぶ画面の向こうには軍服風の衣装を着た少年たちがいたが、無論、そんな電子画面板は物理的には実在していない。技術担当の部下から以前、電子がどうの、量子がどうのという説明を受けたことがあるが、勿論さっぱり意味は判らなかった。良くは分からないが、そういう技術があるのだろう。
『はい、府督。お早う御座います――』
『お早う御座います、府督閣下――』
『府督殿、ご機嫌よう御座います――』
いつもと同じような朝、同じような時間、同じような文言。
しかし、今朝の監督官たちとの会話は、日頃の穏やかなそれとは明らかに違った、ある種の鋭さを持ったものであった。
「うん、本当に良い天気。今日は絶好の、〈ばなな魚日和〉だね」
刹那、彼らの間に沈黙と緊張が走る。同志である少年たちが、この言葉の意味を知らないわけがなかった。
『昨夜遅くに、府内最後の〈大人〉たちが自ら絶ちました――』
『看守の監理の目を盗んで、絞首し合って果てたそうです――』
『部隊がついておきながら、面目ありません――』
監督官らは心底残念そうに、申し訳なさそうに視線を下にする。
ハジメは通信映像の少年たち一人一人に微笑を投げかけ、そっと首を横に振った。
「僕たちの手で絶ってあげられなかったのは、残念だけど……。すぎたことは仕方ないよ。それよりも、府内の〈大人〉が根絶やされたことをもっと喜ぼうよ」
焜炉の薬缶がしゅんしゅんと音を立てている。コーヒー豆をセットし、漏斗に湯を注ぎ入れながらハジメは、自身の両親を手にかけた時のことを思い出していた。
はじめて殺めた相手が父親で、案外躊躇うこともなく刺殺できた。母親はその次に手にかけた。夕食に睡眠薬を混ぜ、神経毒で一息に殺めた。せめて苦しんで、死んでもらいたくなかったのだ。今日から数えて、ちょうど三年前のことである。
ハジメの場合、ハジメ以外に、両親の最期の面倒を見る者はいなかった。ハジメは一人っ子だったのである。
すべての子は、実子・養子の如何に関わらず、自身の親を殺めること――。
それが〈党〉の基本方針だったし、ハジメにとって別段差し障りのある規定というものでもなかった。と言うより、初期党員として〈党〉の活動の草創期から運営の中心に携わっていたハジメからしてみれば、この方針はハジメ自身が構想を練った規定の一つなのだった。どうして歯向かう理由があるだろう。
背後では少年たちが、最後にするなら何がしたいか――ということについて熱弁を振るい合っている。
(僕なら絶対に、食べることだな)
胸中で一人ごちて、ハジメは冷蔵庫からベーコンと卵を取り出した。今日はスクランブルエッグの気分だ。
チーズがあった。ライ麦のブレッチェンを薄く切って、それをその上にのせてトースターで軽く炙っても良い。ジャムは、この日のために取っておいた格別なマーマレードがある。柚子の皮で作ってあるのだ。本場の、あの独特のえぐみは柚子でなくては出せまい。
鼻歌交じりに丸パンを平たく削ぎつつ、淹れたてのコーヒーに口をつけて、ハジメは小さく幸せの溜め息を吐いた。
食事がはじまってすぐ、映像通信は中断されることになった。各々も朝食を取りたかったし、今日一日の予定を鑑みても、その方が良いだろうということになったのである。
『では、また正午すぎに――』
郡督の一人が敬礼し、直後、映像が靄のごとく(文字通りの意味で)掻き消えて、次いで他の監督官たちも各々勝手気ままに消えていく。そして最後には、一人の少年を残して一切が静かになった。
「なに?」ハジメはいささか砕けた口調で問うた。「どうかしたの?」
食卓に片肘などついてみせる。相手の監督官は初等科時代からの旧知の仲であり、半年前まで直属の副官をしていた旧友だった(その時分に郡督を担当していた党員が自殺してしまったため、代わりに就いてもらう他なかったのだ)。
「何なのさ?」ハジメはさらに棘のある一瞥を与えつつ云う。
『アイツからは?』
元副官は怒気も、苦笑も浮かべずにただ静かに問うた。
『電報くらいは来たんだろう?』
「まあね、何の味気もない一文だったけど」
『そうか。良かったな』
ひょっとしたら、旧友の方からアイツに何かしたのかもしれない。余計な真似だが、そうでもしてくれないと、相手は今日まで何も云い出してこなかった可能性は十二分にある。
そう考えると、もうこれ以上冷たく当たることもできずに、
「夕刻までには、帰って来れるって……」
『そっか』
「うん……」
『良かったな」
「うん……」
ハジメは極まりが悪くなって、明後日の方へふいと顔を背けた。
旧友は何も云わずに、ただじっとハジメのことを見つめている。その眼はとても穏やかで、しかしちょっと退廃的でもあった。
『うちの府にはもう、〈大人〉がいないからな。しばらくは暇だろう』
「ちょっと酷使しすぎちゃったかな? 田園整理と森林保全で、だいぶ過労死しちゃったもんね」
最後の一口を嚥下し、食器を流し台に並べて水を張る。
寝室着を脱いで野戦用の将官制服に腕を通し、腹部のバックルをちょうど良い加減のところで縛った。
『お前って、ときどき惨いくらいに計画を優先する時があるよな。親の敵を嬲るみたいに、さ』
「そうかなー? そんなことないと思うけど」
『そんなことあるさ。他府県なんか計画遅延が続発しすぎて、党本部から大目玉だってのに』
姿見と睨めっこしながら、首元の徽章の塩梅を指で慣らして確かめる。
暖炉の火加減を調節しつつ、
「まあ、総督府の人たちの出す命令もどうかと思うけどね。単なる統計学上の数字としか考えてないんだよ。きっとね」
ハジメの言葉が旧友にはひどく笑いのツボを突いたようで、違いない違いないとしきりに頷いては、からからと音を立てて笑っている。
「もう。いつまでそうしてるのさ。郡督って、そんなにヒマなの?」
『分かってるよ。そうだな。俺も、最期に観ておきたい映画もあることだし』
「そうだよ。やりたいこと、やっておかなくちゃ。最期なんだから」
『……ハジメ、良かったな。ホントに良かったよ――……』
「う、うん……?」
相手はそのまま通信を切ったのか、それきりうんともすんとも云わなくなった。ハジメは向こうから再開してくるかとしばらく待ってみたが、しまいにはとうとう画面板は霧散して、交信が完全に途切れたことを告げた。
最後にわずかではあるが、一瞬ノイズらしきものが走ったような気がしないでもない。
(急いでたのかもなあ)
特に気にした風もなく、ハジメはもう一杯コーヒーを注いでそれをゆっくりと口元へ運ぶ。
何となく気になって、窓の外へと視線をやった。
窓の向こうには白銀の世界が果てしなくどこまでも、どこまでも続いている。
白――清潔なイメージ、清らかなもの、穢れのない純潔の象徴。
ハジメは思考の半分ほどでそんな、白の持つ印象について考えを巡らせた。と同時に、光と絵具の、色彩の特徴の差異について、昔、どこかで聞いたお話を思い出していた。
光は波の性質を持つ。光は他の光と重なり合う度、その電磁波の持つ光子の密度の上昇に伴って限りなく透明な白色へと近づいていく。絵具の色とはその表面に電磁波が当たり、特定の光線だけが反射したもので、その反射した電磁波を観測者たる人間が、絵具に固有の色であると解釈する。
ここで愉快なのは、絵具は塗り重ねる度、当初の反射特性は失われ、やがてはそれが完全に壊滅して、一切の光を反射しなくなってしまう――すなわち、黒へと近づいていく、という事実である。
この意味で、画家は決して現実世界のありのままをキャンバスに描き取ることはできない。叶わぬ理想と知って知らずか、それでも画家は手にした筆を置くことはない。
ハジメは苦笑を浮かべていた。このことは何か、人間がこの現実世界を生きる際の象徴であるように思われた。
すっかりと冷めてしまったコーヒーを数口啜る。
「哀れな画家に、哀れな人の子に……、死の快楽を……」
少年はマグカップに残った最後の一口を飲み干した。
外は身体の芯から凍えるような、痛いくらいの寒さが蔓延っていた。唯一の救いは、陽の光が穏やかな力を湛えていてくれることだろうか。
じりじりと骨の髄から冷えていく様をこれでもかと味わわされながら、ハジメはただじっとその時がくるのを待ち構えていた。
「寒いなあー」思わず独り言も零れる。
制服の下にカーディガンを着込み、外套の前ボタンを残らず閉じて襟まで立たせているというのに。
(とっとと終わらせて戻ろう)
「中尉」ハジメはそばに控える将校に声をかけた。「時間だね」
「はい……」
士官は一つ大きく頷いて、手近の〈突撃兵〉に指示を出した。やがて、ハジメの周りには十余りの士官が集まってくる。少年らの折り襟の刺繍から中一生、准尉ないしは少尉相当の突撃隊員であることが知れた。
「神宮山城市の特別行動は、午前九時半の時点でC2クラスまで完了致しております。C1クラスの方々は、すでにあちらに」
一人の少尉が報告してくれた。やや緊張しているのが分かる。ハジメは微笑してやりつつ、彼の頭を撫ぜてみた。
「少尉、ご案内して差し上げなさい」
「はい、中尉殿。ハジメ様、こちらです」
周りの将校たちと一緒に移動を開始する。
少尉の先導に従ってその後に続いていくと、
「ハジメ様」一人の青年に声をかけられた。
「うん。お早う、少佐」こちらも軽い挨拶をしつつ、握手を求める。
彼の後方には、千人近い少年少女が微動だにせずに、向かい合うようにしてただ直立不動で待機していた。ハジメと同じダークグリーンの、国防色よりは薄くてやや灰色がかった色の制服を着た者から、真っ黒な詰め襟を着た者まで多種多様である。しかし、誰にでもいえたことは全員が全員、真新しいまるで仕立てたばかりのような衣服を着用しているということであった。
「ついにこの日が、やってきたんですね!」
「少佐。市督のお仕事、ホントにご苦労様」
「ええ、本当に。でも、ようやくこれで重い肩の荷が……」
それから市督は今朝の特別行動やその他、細々とした話題を口にしたが、やがては口数も少なくなり、ついには完全にその口を閉ざしてしまった。ハジメも特に何を訊くということもなく、やがて定刻の時間になった。
「お二人とも。お時間です」
脇に控えていた中尉が一歩歩み出て、そっと告げてきた。
「さあ、元帥閣下。突撃隊元帥兼、府督の名において、ご命令下さい」
突撃隊少佐兼、神宮山城市督は哀願するようにそう云うと、けれど次の瞬間には安らいだような面持ちになってハジメの眼前に跪いた。
「迷える我らに」
片膝を立て、右に拳を作ってそれを胸の高さの辺りに突き出すようにして静止すると、少佐は静かに乞い願うた。
「迷える我らに――』
後に続いて、向かい合う二列が一斉に片膝をついて突撃銃を地に突き立てた。突撃隊の中では、最上級の敬礼である。
「…………」
ハジメは一言も口を開かずに、外套の前ボタンに指をかけた。
腰に吊った拳銃をゆっくりと引き抜く。安全装置を解除した。
「この騎士鉄十字に誓って――」
銃口が、少佐の前額に照準される。
カチリっ、と撃鉄が乾いた音を立てた。
「汝に、至高の救済を」
刹那、ハジメは引き金を絞った。
雪上に鮮血が飛沫し、青年が倒れたその周辺の雪が赤色を帯びながら滲んでいく。
「汝らも……」
ハジメが呟くと、聞き取れたのであろう手前の兵卒から順に銃口を上げ、数瞬の後には、一斉に射殺し合って果てていた。
「午前十一時十五分。神宮山城市、ステージCの達成を確認」
「現時点をもって神宮山城市は事実上、消滅しました」
「山城郡全体での達成率は、これでコンマ96になります」
周りの尉官らが各々報告する。それらをほど良く聞き流しつつハジメはただじっと、その行列を眺め見ていた。
「閣下、今しがた府督府より入電が」中尉が、背嚢型の大型通信機を背負った兵卒を連れて近づいてくる。「我が府内全体での特別行動達成率は、午前十一時の時点で、コンマ95に達したとのことです」
尉官の報告に、後ろに控える通信兵も頷いた。周囲の兵卒たちは、すっかりと撤収の準備をし終えている。
早く帰ろう。
そして、熱い紅茶でも飲もう。
「そうか、分かったよ」
そうとだけ云って眼前の二人と、付近の突撃兵らにも労いの敬礼をくれてやると、きびすを返してさっき来た道を戻っていった。辺りはほど良く雪が積もっており、行き来のための砂利道以外は本当に一面真っ白である。
この雪原に、あの鮮血の遺骸はさぞ映えよう。
「あっ……」
兵卒の誰かが、小さく声を上げたのを聞いた。見上げれば、虚空から粉雪が舞い降りてくる。
ハジメは一つ大きく身震いすると、
「ミルクのたっぷり入ったお茶を淹れよう」
独りごちつつ側車つきオートバイのところまで大股で歩いて戻って、来た道を走り去っていった。
お茶というものは、注ぐ時の湯の温度が最も肝心である。
それは古今東西、紅茶だろうが烏龍茶だろうが皆、同じことである。
湯は沸騰させすぎてはならぬ。いつまでも沸かしすぎて、水の中の空気を損なわせてしまってはならないのだ。
かといって、沸かし足りないのも良くない。水道水などには塩素が含まれており、十分に沸かし切らないとどうしても臭みが残ってしまうのだ。よく、「水道水は雑味が出てしまって……」と、専用のミネラルウォーターで飲んでいる人種もいるそうだが、一紅茶愛飲家として一言物申したい。
確かに塩素などの雑味が残ることは否めない。しかし、それは十分に沸騰させる――たとえば、一度完全に沸騰させた後、一端火から下ろし、しばらくたってからもう一度沸騰させる、というような方策を採れば克服でき得る事柄なのではなかろうか。また、水道水が豊富に含む空気を見棄て去ることがどうしてもできないということも、その理由の一つではある。
「ふうー……」
独り静かに紅茶を啜る。こんな心底冷える日にはロシアンティーも良いが、ここは王道にミルクティーと洒落込みたい。アッサムは、最もミルクと相性が良い茶葉の一つだと思う。
(そういえば、今朝方の通信は何だったんだろう?)
旧友との通信の最後のところで、映像が不自然に途切れたように感ぜられた。急いていた、といえばそれまでだが。
しかし、どうにも引っかかる。郡督の身に何もなければ良いのだが……。
そんなことを考えていた、刹那――
ダダダダダダダダッ!
「――ッ!」
家屋の外。すぐ間近で、機銃の連射音が鳴り響いた。
ハジメは護衛をつけるのはあまり好きではなく、そのため家にも警護の兵はつけていない。部下からは府内にテロリスト潜伏の可能性があることは聞いていたが、よもやここが突き止められることはないと見ていた。考えが甘かった、とは思わなかった。遅かれ早かれハジメには決まった運命が待っていたから。
先ほどの中尉の話では、次の行動予定までしばらくは下の納屋の方で待機していると話していたので、おそらくは先にそちらを沈黙させる気なのだろう。案の定、やがて下にある納屋の方が騒がしくなり、複数の銃声が交じり合う。けれど、それもだんだんと聞こえなくなっていき、ついには静かになった。
別に今更、死など恐るるには及ばない。しかし今はまだ、死に急ぐ気にはなれなかった。
ハジメは落ち着いた様子で寝室から突撃銃と銃剣を持ってくると、予備の弾倉を幾つか懐に入れ銃剣を着剣させた。折り重なるようにして聞こえていた銃声も、今やまったく聞こえない。
考えられる可能性は二つしかなかった。
良い方と、悪い方の二つ。そして、中尉たちの部隊の大半は通信兵だという事から鑑みるに、状況はそう楽観的ともいえまい。
ザクザクザクっという、雪を踏みしめる小気味の良い足音とともに、声変わりをしてだいぶとたった男の声が二、三聞こえてきた。明らかに中尉らのそれではない。
ハジメは匍匐の体勢で窓辺の壁際に近寄ると、彼らの会話に耳を傾けた。
「府督を探そう。この家で暮らしていることは突き止めてある」
「あの子たち。見たところ、通信兵のようだったけど」
「納屋の奥んとこに、突撃隊のトラックが止まってた」
「兵科色のカラーリングから、通信兵の部隊であることは間違いないかと」
「通信兵の部隊がなぜ? 通信拠点か何かなんじゃないのか?」
「第一、ホントにこんなところに住んでんのかよ?」
幾人かの足音と重なるようにして(隙間風が酷く、いつか直そうと思っていたのだが、修理しておかなくて良かった)、壁を隔てたすぐ向こう側で複数が会話をしている(おかげで先方の会話が良く聞こえる)。
(十……いや、納屋の方からも微かに声がしている。十四、五人といったところか)
そうこうしているうちに、足音の半分が表の玄関の方へ向かった。
もう半分は――。この窓から侵入する気だ。
(いつ振りかな、戦闘なんて)
ハジメは思考の半分ほどでそんな暢気なことを思いつつ、
「ふぅ……」
突撃銃の安全装置を解除した。
頭上では、何気に強化ガラスのせいで叩き割るのに苦労しているらしい。けれど、硬い銃床の頭突きにそう幾度も持ち応えられる訳もなく、
「つッ!」すぐ頭の上で音を立ててガラス窓が破壊されたのには、さすがのハジメも一瞬声を上げそうになった。
自宅の窓がぶっ壊される様子なんて、そうそう滅多に見物できるものじゃない。
しかし、本当に凄い音だ。驚いたの何の。
ハジメは軽く首を振り、気を取り直して銃の撃鉄を起こした。
直後、頭上に男の上半身がぬっと現れる。
「な――ッ!」驚く男。
「こんにちは」微笑む少年。
銃口を男の顎元に突きつけて、ハジメは何の躊躇いもなく銃剣を突き上げた。
男は血を滴らせながら、けれど上半身だけを乗り出す格好を取っていたので腹部が縁に引っかかって、その半身だけで覆いかぶさるようにしてこちらに倒れ込んでくる。
残念ながら大きな血管には触れなかったらしく即死の傷には至らなかったが、おかげで男の弱り行く様がじっくりと観察できる。面倒なので声帯も切っておこう。
窓の向こうでは、血相を変えて男たちが騒ぎ合っている。しきりに男の無事を確認している姿がわりと滑稽だ。
「あー、大丈夫も何も。助かりませんよ、この人」
親切心から、一応相手方に話して聞かせてやる。誰一人として聞いてなどいないのだろうけど。
「ひいっ! く、くるなあっ!」
「ひどいなあ……」
ハジメは何だかとても悲しくなった。僕に用事があって来たくせに。
男たち(まだ若い。二十四、五といったくらいか)はまるで、はじめて気違いでも見た幼子のごとく目をひん剥いている。近くで男の一人が一歩後ずさったのが分かった。
迷わず銃口を構え、男の顔面に狙いを澄ます。数瞬の後、彼の眼窩は射抜かれ、男はゆっくりと後ろに倒れ去った。
その時、卒然ハジメの脳内にある一つの仮説が湧いて出てきた。
刹那、全身をこれ以上ないくらいの虫唾が駆け抜ける。
「すみません、先に席を外してもらえますか?」そう云ってただ一人の男を残して、他の男たち全員を撃ち殺す。残った男は、相手方のリーダーらしかった。けれど、男の容姿は他のどの男よりも若くて、成人しているのかも怪しい。
「今朝の映像通信を傍受したの?」少年が問う。
「ああ、聞いていた」幾分幼さを残した青年が答えた。
激情こそ込み上げてはこなかったものの、ハジメは相手のその言葉にひどくショックを受けていた。同時に失望さえ感じていた。
「良い趣味だね。いつも誰かの生活を穿鑿してるの?」
「ああ……いや、プライベートなやり取りまで傍受したのは、今回が初めてだ」
「ホントに?」
「ああ。別に、信じてもらおうとは思ってない」
そう云って男は首を竦めてみせた。小さく苦笑しつつ、
「もう少し早く邪魔してれば、お茶の一杯でも呼ばれたものを」
青年は心底残念そうに、そして申し訳なさそうに静かにごちた。
周りの友達は皆お呼ばれしているのに、自分だけ声がかからなかった時のような。彼の表情には、どことなくそんな拗ねた感じもない交ぜにされていて、ハジメは思わず声を上げて笑った。
この男となら、さぞおいしいお茶が飲めたことだったろう。
「ズルイね、君って」
突撃銃の銃帯を右肩に引っかけながら呟く。
「ああ、俺はズルイ」
「ズルイよ、ホントに。僕にばっかり撃たせて」
背後で気配がする。きっともう半分の男たちが、銃声を聞きつけて玄関から侵入してきたに違いない。
「人は誰でも、死を志向する権利と義務とがあるそうだな」
しかし駆けつけた男たちは、自身らの首領の手で撃ち殺された。最後の一人を射殺しながら、青年はそんなことを訊いてくる。ハジメはほほえみを浮かべていた。
「俺は最初、アンタらの考えには懐疑的だった。世間知らずの理想論者だと決めつけてた。だから去った。逃亡兵になった。そうして、同志を集めてレジスタンスの頭になった」
「それで。何か得たものはあったの?」
「得たもの?」
「逃亡の果てに、君は何を知った? 何を見た?」
「……さあ、な」
ハジメは、銃を構えた。しかしその銃口が男に向くことはなかった。突撃銃を真っ直ぐに垂直に掲げ、銃剣の剣先を自身の喉元へと突きつける。
「言え、躊躇わずに。そうして、自身の欲深さを知れ」
「…………」
青年は頷きはしたものの、すぐには言葉を発しなかった。
暫しの間、沈黙が流れた。
「さあ、な。良く分からなくなったよ」
ハジメはじっと、青年を見つめていた。彼は言葉を続けた。「だが、結局、アンタたちの言い分を否定するだけの根拠は得られなかった。いや、むしろ、ますますアンタらを喜ばせる論拠を集めただけだったかな」
ハジメはじっと、青年を見つめていた。彼は言葉を続けた。
「ハジマリとオワリは、本質的に同じ場所にある。死を退けることは、生を拒否することに他ならない……。コイツらには、そのことがイマイチ良く分からなかったみたいだが……」云いながら、青年は足元に横たわるかつての部下たちを見下ろしていた。
「……そっか」
剣先を退かして銃を下ろすと、同じようにハジメも横たわる彼らを見下ろした。
「さて――」
一つ大きく咳払いをすると、「あらゆる魂は、この〈箱庭〉の外へ出ることを志向する。そうだろう、元帥殿? なれば」
「そうさ。あらゆる人間は、無機物の状態を志向する。でもね、僕は原則、突撃隊員しか殺せないんだけど? ましてや理由もなしに」
「大丈夫だ。俺は突撃隊員として、かつてアンタの直属にいた。そして俺は、かつての上司を暗殺せんとした逃亡兵の首領だ。理由は十分すぎるくらいだと思うが?」
「でも君は自らの過去を振り返り、〈党〉の理念の妥当性に気づき、現にこうしてレジスタンスを退け、僕を護ったじゃないか」
「じゃあ、こうしよう」
青年は窓のそばへと近づいてきた。
ハジメの眼前に立つと、
「元帥よ。私を閣下の直属の突撃騎士としてください。そして、今しがたの功績に対する褒賞をお与えください」
そう云うと、青年はおもむろに窓辺の際に片膝を立てて跪いた。
「……よろしい、汝を我が直属の騎士としよう」
云いながらハジメは自身の首元に佩用していたそれを綬のリボンごと外し、彼の首からかけてやった。窓越しに渡すのは、何だか少し変な感じがする。
ハジメは突撃銃をその場に投げ捨てると、腰の愛銃を引き抜いて銃口をそちらへと向けた。
青年は満ち足りたように微笑を浮かべて頷いていた。
「我が名において、そなたに――」
元帥の言葉に、眼前の突撃兵は本当に穏やかな表情を浮かべていた。「そなたに、最上級の褒賞を与えん。すなわち、死の快楽を」
刹那、少年は引き金を絞った。青年が雪上へと崩れ落ちる。
青年は顎下の鉄十字を握り締めて、虚空を見上げながら事切れていた。
「…………」
ハジメは何をする気力も起きなくて、ただじっとその亡骸の容貌を眺めていた。抜け殻と成り果てたその残骸は、もう決して動き出すことはないのだ。
いつまでもいつまでも、ハジメはその遺された骸を見下ろしていたのだった。
どれくらいの間、そうしていただろうか。
「……っ?」
不意に室内に気配を感じて、意識を思考の底から呼び戻した。部屋の中をぐるっと見渡してみる。
「よう」男が一人、食卓に着いて座っていた。「昼は食ったのか?」
「い、いいや。まだだけど……」
「だろうな、その様子じゃあ」
男はすでに外套を脱ぎ、制帽をとってすっかりくつろいでいる様子だ。暢気に鼻歌なんぞ口ずさんだりして慣れた手つきで新しい紅茶を淹れている。
「ミカド、何でいるのさ」ハジメは不貞腐れた顔を張りつけた。
「ふん。ホントは嬉しいくせに。半年振りの再会だぞ?」
ハジメは表情筋が緩むのを押さえ込むのに必死だった。実際、この日がくるのをどれほど待ち望んでいたか知れない。
たった一人の幼馴染であり、たった一人の共犯者であり、そして家族を失ってからは、たった一人の家族でもあった。
初めは二人だった。ハジメとミカドの二人。
〈党〉の思想や基本理念は、ほとんど二人で考えて構想したといっても過言ではない。
どうして人々は生存のために、過剰な自己肥大と増殖を求め続けるのか。何故、国家は際限なく成長と拡大を競い続けるのか。人間が、無意識的には無への回帰を志向しているように、自ら進んで滅亡を希求する国家があって然るべきだ――、と。
一人、また一人と同志を集めた。案外、賛同者は容易く万を超えた。しかし、その大部分は未成年の青少年たちだった。
「国家の指導者層が、何故に成年者であらねばならない? 子どもによって大人が裁かれる国があって然るべきだ、と。そう信じて、ここまできた」
「うん。そう信じたからこそ、僕はミカドについて行ったんだ」
早めの夕食(あるいは遅めの昼食ともいう)を取りながら、ハジメとミカドは二人して思い出話に花を咲かせていた。とはいっても、お互いまだ十六、七の子どもではあったが。
ミカドは鰤大根の大根に箸を通しつつ、
「お前はそう言うがな。俺はお前の理想に近づきたくて、ここまで頑張ってきたんだ。お前が望む理想の国を。理想の世界を」
今度は里芋の煮つけに箸を伸ばしながら、
「なあ、ハジメ。俺で良かったのか? 共犯者が俺なんかで。俺はお前の思い描いた通りに、〈総督〉を演じられたか? 今あるこの世界は、本当にお前が思い、望んだ通りになっているか?」
格好の良い台詞もしんみりした台詞も、鰤大根や煮つけと一緒だと、およそこの場に似つかわしくないので笑ってしまいそうだ。
「な、なんで笑うんだ?」
しかし、そんな場違いさからくるおかしさに気づかないミカゲは一人、不安げな瞳でこちらの方を窺い見ている。
いつも映像通信で観る指導者然とした姿からは想像ができなくて、けれどああ、そうか、彼は昔から周囲の人間には威圧的なのにハジメに対してだけは弱気な小心者だったなあ、と思い出したり何ぞする。
「お、おい。何がおかしいんだよ」
夕食を終えてお茶の時間になってからも、ハジメはなかなか笑いを収めることができずにいると、ますますミカゲの表情が不安なそれになっていくので、それもまたおかしくてついつい彼をいじめてしまう。
そんなやり取りをしながら、二人してゆったりと寛いで(ハジメは別として、ミカゲにとってはちっとも心休まる状況ではないだろうが)いると卒然、
「仲が良いね、お二人さん」冷やかしの声が聞こえてきた。
「ああ。そうさ。俺たちは昔からこうだよ」
郡督は半分苦笑いを浮かべてこちらに視線をよこしたが、ハジメもこくりと頷いて破顔してみせると、もうそれ以上何も云いはせずに、
「家族ごっこは後で、きっと幾らでもできるだろう。先にこっちを終わらせてくれ」
そう云って呆れた顔をしてみせつつ窓枠から離れる。
二人は微笑み合った後、式典用制服から徽章から何からすっかりとめかし込んで、急いで外に出て旧友の後を追った。
納屋の裏手にはすでに何百という数の車両――ジープや装甲トラック、高級将校用の軍用車などが所狭しと並んでいて、その辺りには大勢の突撃兵が各々談笑したり、自慢の徽章を残らず吊り下げ合ったりなどして、皆思い思いにすごしている。遠くには無数の軍用ヘリが視認できた。
ハジメ直属の、特別な任務を帯びていた兵・下士官らもいることはいるのだが、ほとんどの者たちが郡督級の幹部将校たちである。他府県道の最高指導者らも見受けられた。皆等しく、総督の御前にて果てるべく、この地に馳せ参じてきたのだ。
「諸君ッ! 良くぞ、我が故郷に集うた」
ミカドは一歩ずつ、確かめるようにして突撃兵たちの前を横切っていく。ハジメもその後に続いて歩を進めた。
「ここから、我らの理想ははじまったのだ」
雪原の中をずんずんと進んでいき、もうかなりきたというところでミカドは足を止め振り返った。ハジメらの背後には、しっかりと突撃兵たちがつき従っていて、ただ無言でこちらの次の発言に耳を傾けているらしい。
「我らは知った。この世界がいかに醜く、歪であるのかを。そして我らは気づいたのだ。それは〈大人〉だけでなく、すべての〈子ども〉にも言えることなのだ、と」
ミカゲはそこでいったん言葉を切って、小さく息をついた。一度、ハジメの方に視線を寄越してから、
「さあ、〈ばなな魚〉の見えた者から、順に果てるが良い」
ミカドの目配せと同時に、彼らはただちに二列の長蛇に整列する。
「汝らに、甘美なる至高の救済を――」
そうして少年たちは果てた。旧知の友人も果てた。
正直なところ旧友の死は、ハジメの手によって与えてやりたかった。しかし、欠員はおらず、人数はぴったり偶数で揃っていたし、ハジメはこのことを信頼できる部下に委ねるより他には、どうすることもできなかった。
「皆、やっと死ねたんだね」ハジメは呟いた。
「ああ、そうだな。死んだ」ミカドが答えた。
「はあー……」
ハジメはうっとりとした様子で、長くゆっくりと幸せそうな溜め息を吐いた。目をとろんとさせてミカドを凝視する。
「ねえ、知ってる。ユダヤ教の暦によれば、一日は日没とともにはじまるそうだよ?」
「なに? それは困るな。ということは、一日は日没とともに終わっちまう」
ミカドはゆっくりとこちらに手を伸ばし、その漆黒の双眸でハジメの瞳の中を覗き込んできた。ハジメはたまらず嬉しくなって笑みを溢す。
「日没までは、もう幾らもないよ?」
云いながらハジメは懐から小さなブリキのケースを取り出した。
中には金属でできた、小さな薬莢のような筒状のものが幾つも並んであって、二人は一つずつ手に取った。その中には、さらに小さなカプセルが入っていた。
「この場合って、殺人になるのかな?」
「うっせえ、黙って奥歯にはさめって」
ハジメは決してカプセルを噛み砕かないように慎重に、右の奥歯にやさしく噛ませた。案外しゃべりやすい。
そう簡単には潰れぬようにと硬いオブラートが何重にもなっているとはいえ、さすがに緊張する。が、嬉しくも悲しくも、思ったほど身震いはしてこなかった。自分はそんなに鈍感だったのだろうか。
「僕って、鈍いのかな? どう思う、ミカド?」
「今さらだな、バカが。ほら、はさんだのか?」
ハジメはこくこくと、だけど絶対に潰してしまわないよう慎重に頷いてみせた。
ミカドはハジメの顎に指先を添え、また同じようにハジメもミカドの顎に指を添える。ハジメが満面の笑みを浮かべているのでミカドも心から幸せだ。総督府の側近たちが生きてこの場面に居合わせていたならば確実に卒倒していたに違いない。
「ハジマリとオワリはともに、」
「同じ墓場に回帰せん。刹那の死が、二人を別つとも、」
『我ら、死して再び、箱庭の外にて相見えん――』
静かに雪原の雪の上に崩れ落ちる二人。
二つの制帽が音もなく転がる。
二人はほとんど同時に、その拍動を止めることに成功した。
一瞬、胸の辺りで鈍い痛みを感じた気がしたが、それすらもハジメにとっては幸福と感ずるのであった。
〈終〉
学生時代に書いた短編に加筆修正を施した作品です。「死の欲動」というものを、いっそ開き直って全面的に受け入れたらどうなるか……、というのが書き出した最初のきっかけでした。
ここまでお付き合い下さいましてありがとう御座いました。願わくはまたお目にかかれますことを――。