Closed world 3
深夜二時を回ったところで僕は静かに寝息を立てていた明日葉を起こす。
彼女に着替えるよう命じた僕は、窓の鍵を開け音を立てないようにゆっくりと雨戸を開けた。
懐中電灯を下に当て、しばらくは周囲を照らし観察する。
数時間前からすでにそうだったが、辺りはしんと静まり返っていた。
遠くに視線を向けると逆光に照らされた煙が立ち上っているのが確認できた。
どこかで火事でも起きたのだろうが、消防車の音が聞こえてくる気配はない。
この非常時では消防隊も出動できないのか、もしくは有事の際は政府主導となり勝手に出動できない仕組みになっているのかは分からない。
だがこの距離であれば我が家に火が燃え移る心配はないだろう。
僕は一旦部屋に戻り鞄の中に先ほどの懐中電灯と水、食料、包帯や傷薬などを入れ、部屋にある家具にしっかりとロープを括りつけた。
「やっぱり……行くの?」
すでに明日葉には大学に優衣を助けに行くと伝えてあったが、やはり深夜にゾンビが蔓延る街を出歩くのは怖いらしい。
僕は衣装ケースの奥に仕舞ってあった鉈と小さめのボウガン、それにスタンガンを取り出し彼女に見せる。
これらは全てこの日のためにネットで購入しておいたものだ。
もちろん購入履歴などから住所を辿れないように、ネットカフェなど別の場所に指定して届けさせたものだが。
僕は彼女に鉈を渡し、身の危険を感じたらそれを使うように指示を出す。
「大丈夫だよ。優衣さんを見つけたら、すぐにここに戻ってくるから。美優や京子さんを危険な目に遭わせるわけにはいかないし、もし明日葉が怖いんだったら僕一人でも――」
「嫌……! 正一君が一人で行って、もしものことがあったら私、生きていけないもん……!」
彼女は懇願し、僕は優しく微笑んだ。
この答えが出るのは最初から分かっていたことだ。
荷物を全て鞄に入れた僕は、もう一度ロープが固定されていることを確認し、音を立てないように窓から下に降りる。
地面に着地し、周囲にライトを当てて安全を確認する。
上にライトを向けて明日葉に合図をし、彼女が降りてくるのを待った。
無事に地面に降り立った彼女と目を合わし、僕らは同時に頷く。
ロープを部屋に投げ入れ、誰も登れないようにする。
窓と雨戸だけはどうしようもないが、この様子であれば外から侵入してくる者などいないだろう。
……空を飛ぶゾンビが現れなければの話だが。
静まり返った住宅街を抜け、僕らは東へと向かった。
方向的には火災が起きている場所がそこに当たる。
もしかしたら大学の構内のどこかで火事が起きているのかもしれない。
そうだとすると少し厄介だ。
僕ら以外の人間が同じ場所に集まると、それだけ人目に付く可能性が高くなる。
交差点で一旦立ち止まり僕は考える。
これだけ大きな交差点だと普段は深夜でも車通りが多いのだが、今夜は全く通過しない。
どこかで検問でも敷かれているのだろうか。
ニュースでは池袋警察署は壊滅状態だと言っていたが、他の署の警察が自衛隊と連動して行動している可能性もある。
このまま再びゾンビ事件が沈静化されたら、僕はどうするのだろう。
――いや、答えなどとうに決まっていた。
僕はきっとまた同じことを繰り返す。
この手に、このゾンビパウダーがある限り。
「ねえ、正一君……。あれ、何だろう……?」
交差点を渡った先にある神社を指差してそう言う明日葉。
大通りの脇にある神社の境内に、何かが吊るされている。
僕らはそれに近付き懐中電灯を当ててみた。
「ひっ……!」
ライトに照らされたのは、腹から下が消失した吊るされた遺体だった。
頭部には何ヶ所か鈍器のようなもので殴打された跡があり、原形を留めていない。
口が大きく裂けているが、僕はそれに見覚えがあった。
「人間……? それとも、ゾンビの遺体……?」
「多分、ゾンビだと思う。誰がやったかは分からないけど、吊るしたのは人間だろうね」
神社の境内に吊るされたゾンビの遺体。
これに何の意味があるかは分からないが、一人や二人でここまでできるとは思えない。
他のゾンビに対する見せしめか。それとも家族や友人を喰い殺された恨みなのか。
どちらにせよ、この池袋は確実に狂いだしている。
それこそが僕の望んだもの。生を感じることができる理想郷。
――ドクン。
まただ。心臓が高鳴る音。
京子と一緒にいたときもそうだったが、得体の知れない快楽が全身に広がっていく。
だが前回よりもはっきりとした感情が脳から洪水のように溢れ出してくる。
僕はこの感情を知っている――。
これまで生きてきて、幾度となく感じてきた欲求。
「人間がこんな酷いことをするなんて……。早くここから離れ――――」
彼女がその先の言葉を発することはなかった。
僕は口を大きく開き、彼女の美しい唇を鼻ごと喰いちぎったからだ。
血飛沫を浴びながらゴリゴリと音を立て、彼女の血肉を咀嚼する。
この上ない喜びの感情が全身に広がり、僕は達してしまった。
ピクピクと痙攣し膝から崩れ落ちた明日葉。
僕は構わず、今度は彼女の白くて細い腕にむしゃぶりついた。
何度も僕の頬を、髪を、身体を、愛撫してくれた彼女の美しい指。
骨の折れる音と血の味が同時に口の中いっぱいに広がり、僕は幸せの絶頂を迎える。
――『食欲』。
僕を支配するのは、ただそれのみだった。
唇と鼻、指を平らげた僕は袖で口を拭き、ふと我に返る。
目の前には血で真っ赤にそまった明日葉が痙攣し、倒れていた。
その姿を見て嗚咽するかと思ったが、僕には何の感情も沸かない。
――彼女を、食べた。ただそれだけのこと。
『…………ウゥ。ウウゥゥ…………』
しばらくして呻き声を上げた明日葉はゆっくりと立ち上がる。
そして左手で鉈を抜き、一歩、また一歩と何処かへ向かって歩いていってしまった。
彼女はもう、元の美しい桐生明日葉ではない。
鼻と口と右手の指を失った、哀れなゾンビと化したのだ。
僕は血で濡れた上着を脱ぎ捨て、境内に吊るされているゾンビの遺体に掛けてやった。
そして月明かりに照らされた自身を改めて見返し、ようやく理解する。
僕は、ゾンビ細胞に感染していたのだ。
仁田に首を噛まれたとき、すでに――。
でも抗体は確かに効いた。自我もある。
理性は飛ぶが、それは少しの間の時間だけだ。
あの身悶えるような快感は、普通に生きていて味わえるものではないだろう。
警察が以前にゾンビ事件を麻薬事件だと断定した理由が今、はっきりと分かった気がした。
次はいつ、この快感を味わえるのだろう――。
余韻に浸った僕の顔は明らかに笑みを浮かべていたに違いない。




