マヤ神聖文字殺人事件 その三
十月六日(土曜日)、光一の暮らし振り
もう、半年になる。
光一は茗荷谷の駅前を歩きながら、そう思った。
会社を辞めたのが四月で今は十月、もう半年になるのだ。
辞めた当初は空虚な虚脱感に襲われたが、今は結構忙しく暮らしているな、と思った。
近くの小石川図書館を始めとして、文京区の図書館の図書館員とはほとんど顔馴染みとなっ
た。
光一の現在の興味の対象はメキシコのアステカ文明とかマヤ文明の考古学、人類学だった。
しかし、文京区の図書館にはほとんど文献が無く、日比谷図書館などにも出掛け、文献を探しては読み耽った。
新しい本が出るとすぐ買い集めた。
週に一度は、池袋のジュンク堂、東京駅のオアゾにある丸善、八重洲ブックセンターといった書店の本棚を覘くこととしていた。
既に、二十冊程度の文献を買い集め、部屋で読み耽った。
光一と正樹が住んでいるマンションは地下鉄・丸の内線の茗荷谷駅から歩いて二、三分という近いところにあった。
このマンションは五年前に、それまで住んでいた静岡の御殿場から引越しをしてきた時に買った。
そして、本郷のアパートで学生生活を送っていた正樹を呼んで、一緒に暮らすこととし、それから現在に至っている。
正樹は光一の仕事の関係で、小学校は岐阜、中学校と高等学校は静岡・御殿場の社宅でそれぞれ過ごした。
小さい頃に、母親を亡くした正樹にとって、光一は父親であると共に、母親としての役割も果たしてくれた親であった。
正樹は毎朝小さな仏壇に飾ってある母親の写真を前にして、お線香を上げてから出勤する父の姿を見るのが好きだった。
男手一つで一生懸命育ててくれた父親に変な心配はかけまいと幼心に誓い、勉学に励んだ。
父の光一が五十五歳を少し前にして、会社を早期退職した際も、正樹は特に反対はしなかった。
今までご苦労さまでした、これから自分の人生を大いにエンジョイして下さい、というのが正樹の本心からの父に対する想いであった。
光一は駅前から少し行ったところにあるカフェテリアに入り、コーヒーを注文した。
月曜日になったら、本間教授の研究室でも覗いてみようかと思った。
本間教授のところには、三枝美智子という年配だが独身の助教授が居た。
三枝は日本とメキシコの政府交換留学生の親睦団体である日墨交流協会の事務局をしていた。
本間教授は日墨交換留学生の第一回目の留学生であり、柳光一は第六回目、三枝美智子は第八回目の留学生であった。
協会は数年前に本間教授の呼びかけで発足し、光一、美智子共に、その派遣年度の幹事をしていた。
久し振りとなるが、月曜日に美智子さんを訪ねてみよう、何か面白い話でも聞けるかも知れないから、と光一はコーヒーを飲みながら思った。
幅の細い眼鏡をかけ、理知的な微笑みを絶やさない、清楚な美智子の顔を思い浮かべた。
十月七日(日曜日)、光一と正樹の会話
「コーヒーが入ったよ。飲むかい?」
「勿論、戴きますよ。お父さんのコーヒーは美味しいから」
正樹は光一が腰をかけているダイニングの食卓に来て、光一が淹れたコーヒーに手を伸ばした。
「どうだい、このところ、捜査一課は? 何か、面白そうな事件はあったかい?」
「とりたてて、大きな事件も無く、平穏無事です」
「おお、そうかい。それは、何より。平穏無事が何よりだよ」
「そう言えば、ちょっと気になる事件がありました」
「どんな事件?」
「武蔵野警察署の管轄なんですが、吉祥寺で少し変な事件がありました。ある大手の商事会社の部長さんが社宅で死んでいたのです。その死因が死体観察の結果ではどうも判らないということで、今司法解剖にまわされているんです。現場鑑識では、自然死のような感じでしたが、何か変だ、ということで武蔵野警察から僕の課に連絡が入ったのです。解剖結果は明日出ますので、そこで自然死か、事故死か、他殺かどうかが判ります」
十月八日(月曜日)、第二の殺人事件予告の手紙が着く
「三枝先生、また着きましたよ」
事務員から手渡された手紙を見て、三枝美智子の顔はさっと青ざめた。
一週間前の十月一日に受け取った手紙と同じ筆跡の宛名書きがされていた。
同じ筆跡という表現はこの場合はあてはまらない。
同じ書体と言う方が正確である。
つまり、直線定規を使って書いたような直線だけの字が書かれてあった。
美智子は少し震える手で、机の引き出しを開け、先に受け取った手紙を取り出して、比較観察した。
やはり、同じ書体であった。
曲線が一切無く、直線の組み合わせによる字が不気味な印象を与えていた。
一瞬躊躇ったが、思い切って封筒を開けてみた。
やはり、紙片が二枚、入っていた。
一枚の紙片には、前の手紙と同様、単純な図形が描かれてあった。
今度は、棒が四本書かれていた。二本ずつ隣接した組となって描かれていた。
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もう一枚の紙片には、前とは違うが、やはり奇妙な絵のような図形が描かれてあった。
美智子はじっと見詰めるばかりだった。
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「三枝先生、お客様です。柳さんが玄関口で待っておられます」
事務員からの電話を受け、三枝美智子は急ぎ足で玄関に向かった。
そこに、久し振りに見る柳光一のスリムなジャケット姿があった。
「お久し振り、柳さん。このところ、お見えにならなくて、さびしい思いをしておりましたのよ」
「二ヶ月振りといったところです。美智子さんに、そう言われると男としては辛いですな。エレガントな女性を淋しがらせるとは、不届きな輩め、となってしまいますから」
「丁度、良かった。実は、ご相談したいことがあったものですから」
柳光一は玄関口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて、美智子の後を追った。
「実は、これですの」
本間教授の研究室の簡素な椅子に腰を下ろした柳に、美智子は机の引出から取り出した二通の手紙を見せた。
「その一通は先週の月曜日に、そしてこの一通は今日、たった今届きましたの」
光一は二通の封筒の中に入っていた紙片をテーブルの上に並べて、暫く眺めた。
「美智子さんは確か、メキシコ留学の際は、メリダのユカタン大学でしたよね。僕はグアナフアト大学ということで、マヤ文明に関してはそれほど詳しくは無いんですけど。マヤの数字と神聖文字のように見えますねえ」
「柳さんもそうお考えですか。実は、私もそう思っておりました」
「一通目の○と棒はマヤの数字でいうと、一を表す○が三つで三と、五を表す棒が二つで十ですね。二通目はマヤ数字では、棒が二本ずつですから十と十ですよね」
「確かに、マヤ数字で言えば、三と十、十と十になります。但し、別の紙片の絵文字みたいな図形の意味は皆目解かりませんね」
「三と十、十と十、果たして何を意味しているのでしょう」
「それに、この手紙の宛先の字の書き方、不思議ですねぇ」
「筆跡を知られたくないということにも解釈出来ますわね」
「例えば、美智子さんか、本間先生が見れば、すぐ解かるような筆跡の持ち主が出した手紙、といったところですか」
「それと、この研究室宛に送付した意味は何なんでしょうか?」
「これらの手紙は本間先生にもお見せしましたか?」
「いえ、未だですわ。でも、お見せした方がいいのでしょうね」
そこに、白髪の本間教授が現われた。
「ああ、柳さん。いらっしゃってたんですか。先日は、研究室へケーキの差し入れ、ありがとうございました。私の研究室はご覧の通り、女性が多いので、みんなで喜んで平らげていましたよ」
先生、実は・・・、ということで、美智子が謎の封筒と意味不明の紙片に関して、これまでの経緯をかいつまんで説明し始めた。
三人がテーブルに置いた紙片を前に額を突き合わせるようにして思案に暮れているところに、元気な女子学生が現われた。
「今日は。本間先生、三枝先生」
その女子学生は柳に気付いたらしく、少し好奇心を持った顔をした。
目の大きな、白い肌をした混血の美少女であった。
「あら、麻耶さん。・・・、こちらの方、ご存知かしらん。メキシコであなたのお母様と同じ大学に留学されていた柳光一さんよ」
「初めまして、星野麻耶です」
「いや、こちらこそ。柳光一です。あなた、星野麗子さんの娘さんですか?」
「ええ。・・・、そう言えば、柳さんのことは母からよく聞いておりました。グアナフアト留学中、いろいろと母がお世話になったそうで」
「いやいや、お世話したなんて。実際は、その逆で。星野さんには、僕たち男の留学生は当時頭が上がりませんでした。学校側との交渉、コナシットというメキシコ政府の留学担当役所との連絡・交渉等全て星野さんにお願いしてばかりしていましてね」
「いろいろお話がありそうね。柳さん。それならば、これから、私たち女性軍をお茶に誘って戴けません? 本間先生、少しお茶に脱け出して宜しいでしょうか? 柳さんがご馳走して下さるとのことなので」
本間教授は笑いながら、柳光一に、ご苦労様とばかり、目配せした。
柳たちは、大学近くのカフェテリアに行った。
「星野さんはお元気ですか? ××女子大学の教授になられたということはここに居られる三枝さんから伺っておりましたが。もう、何年もお会いしておりませんので」
「お蔭様で元気でおります」
「しかし、意外でした。星野さんに、このような立派なお嬢さんがいらしたとは」
「母が三十二歳の時の子供です」
麻耶が笑いながら言った。
「星野さんはグアナフアト大学で僕たちと研修を積んだ後、確か、メキシコシティのコレヒオ・デ・メヒコ(大学院大学)に進学し、更に専門分野の学問に研鑽を積まれたという話は聞いておりましたが」
「麗子さんは、その後、メキシコ人の研究者の方、麻耶さんのお父様ですが、その方と結婚し、麻耶さんが生まれたということなのよ」
三枝美智子が微笑みながら、柳たちの会話に入ってきた。
「でも、お気の毒に、麻耶さんが未だ小さい頃に、お父様は交通事故でお亡くなりになり、麗子さんが麻耶さんを連れ、日本の実家に帰って来られたということなの」
「そうですか。お小さい頃に、お父さんを亡くされたわけですか。うちの息子と同じですねぇ。うちの息子も小さい頃に母親を亡くしていまして」
「そうそう、柳さんの息子さんは凄いのよ。東大の法学部を出て、警察庁にキャリア官僚として入られているのよ。今、確か、警視さんよねぇ」
麻耶が少し敬意を込めた目で柳を見た。
柳も少し嬉しくなった。
「ええ、新米警視で、今は警視庁の捜査一課におりますよ」
「捜査一課って、よくテレビドラマで出てくる、あの捜査一課ですよね。凄い」
麻耶がキラキラとよく輝く目をして言った。
暫く、柳たちはお喋りをして、秋の小春日和の時を楽しく過ごした。
この麻耶という女の子は混血で且つ父を幼い頃に亡くしているが、明るく真っ直ぐな心を持っている、きっと麗子がそのように育てたのだろう。柳はグアナフアト大学で明るく天真爛漫に振舞っていた当時の麗子の姿を思い浮かべ、少し胸の高鳴りを覚えた。
美智子たちと別れ、柳光一は電車を乗り継いで、茗荷谷の自宅に帰った。
ずっと、あの奇妙なマヤ数字と思われる○と棒のことを考えていた。
ふと、日付かも知れないと思った。
三と十、これは三月十日か、逆に読んで、十月三日ということか。
他の一枚は、十と十。
どちらから読んでも、十月十日となる。
手紙が着いた順番は、三と十の紙片の方が一週間早かった。
ということは、もし日付であれば、十月三日と解釈した方が妥当であろう。
手紙はどちらも同じように意味する日付の二日前に着いている。
とすれば、これらの手紙は何かを予告する意味を持って意図的に出されたものと解釈した方がよいだろう。
筆跡を隠すために、直線定規を使って記載された封筒の宛名書きも不気味であった。
判らないのは、あの絵文字の意味だ。
どちらも幼稚な絵文字のように思えたが、やはりどこか不気味な影を持っているように思えた。
幸い、デジカメを持参していたので、絵文字に関しては写真撮影をしてきた。
帰ったら、メール添付でフィリップに送ってみることとしよう。
マヤの絵文字であったら、何を意味する絵文字であるか、フィリップから返事のメールが返ってくることだろう。
ふと、グアナフアトで米国人留学生フィリップと過ごした日々を懐かしく想い出した。
フィリップは、かつてはベトナムに駐留していた米軍兵士であったが、兵役退役後はメキシ
コの大学を転々としながら、メキシコの古代文明について研究しているという変わり者の学生であった。
彼はメリダのユカタン大学にも二年ほど居て、マヤ文明に関しても勉強しているはずだ、もしかすると、この絵文字に関する知見もあるかも知れない、と光一は思った。
部屋に入るなり、光一はデジカメの絵文字の画像データを添付して、フィリップ宛に送った。
その後、十月三日周辺の新聞の記事を確認し始めた。
特に、殺人事件といった凶悪犯罪の記事に関しては、メモを取りながら、慎重に読み進めた。
十月四日の新聞に、昨日正樹が言っていた吉祥寺で起こった変死事件が小さく載っていた。
他、ストーカーによる殺人事件とか、放火と思われる火災による焼死事件とかいった記事が目に止まった。
こうして見ると、殺人事件含め、人は多く死んでいるものだなあ、という印象を受けた。
老眼鏡を掛け、熱心に新聞を見ている光一を見て、正樹が近寄り、少し覗き込むようにした。
「正樹。今週の木曜日あたり、夜、時間あるかい?」
「十一日? 今のところ、夜は空いているけど。呼び出しが無ければ、大丈夫ですよ」
「君を代官山のメキシコ料理店に招待するよ。一緒に、夕食を食べよう」
「へぇー、また、どういう風の吹き回し? お父さんがあのレストランに誘ってくれるなんて」
「実は、女性とデートするんだ。向こうも娘を連れて来ることとなっているし、こちらも息子を連れて行くことになっているんだ。昔のメキシコ留学時代の女友達なんだ。お互いの皺の数を数えるために、会おうという話になったんだ。別に、都合が悪ければいいんだよ。無理にとは言わない」
「お父さんの女友達か。いいねえ、行くこととしますよ。お父さんのかっこよかった昔の話も訊きたいしさあ」
正樹の言葉を聞きながら、光一は麻耶との会話を思い出していた。
美智子たちと入ったカフェテリアを出て、美智子と別れて歩き始めた光一は麻耶に呼び止められたのであった。
麗子が光一に会いたがっているという、一度会ってお喋りをしてくれないか、という誘いであった。
光一は麻耶さんが同席するならば、いいよ、と快諾した。
「麻耶さん。あなたは知らないだろうが、当時のグアナフアトの男子留学生の間では、あなたのお母さんの星野麗子さんはマドンナ的存在だったんだ。星野さんは美人で且つ聡明な外語大四年生、僕は二十五歳の企業研修生。当時も二人きりで会ったことは無いんだ。三十年経っているといっても、どうも二人きりというのは苦手なんだよ」
麻耶はにっこりと微笑み、小指を絡めてきて、光一は無理やり「げんまん」をさせられた。
「そうそう、お父さん、例の吉祥寺の社宅で死んでいた部長さんの件、解剖の結果が出ました。殺しということが判りました。毒殺されていたんです。その毒というのが非常に珍しい毒でして、ツボクラリンというアルカロイド系の物質が検出されたんです。何でも、南米の先住民が毒矢として矢の先に塗るクラーレという毒の主成分という担当官の話でしたよ」
「どのような症状で死に至るの?」
「傷口から体内に入ると、呼吸困難に陥って、結果的には窒息死となると言っていましたね」
「傷はあったの?」
「首筋に一箇所。どうも、注射器で注入されたみたいです」