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愛しの孫娘へ
お前がわしの下に来てからの五年、日増しに娘との面影を重ね、あの風来坊な若者の気質を見ている気がしてならなかった。
秋の麦畑のような髪と冬の銀雪のような瞳。お前は確かにあの二人の娘で、わが孫娘であると痛感した。
そして、蕾の様にたおやかなお前が枯れ枝のようなわしに寄り添うて、最後までこの老いぼれに力と生きる使命を与えてくれた。荒れ狂う様な筆先がようやく静穏を取り戻して、地獄絵から天へ昇華することを教えてもらった。
これらはお前に残すせめてもの贈り物だ。世界に二つとないものだ。
だが、息子たちにこれの所在を知られては、お前の手に届くか甚だ疑問であった。奴らの愚行を思い出すと、身から出た錆と思うしかないのだが、確実にお前の手にこれを贈りたかった。
きっとお前の手に収まることを信じて、わしは逝く。
心から感謝を。お前の幸運を祈っている。
ショーン・カッケス
* * *
ベルフェダー湖の水面に星の輝きが映り、夜空の絨毯となって揺れている。
わたしはおじいさまの遺してくれたスケッチブックを抱きしめながら、しばらくその水面を眺めていた。ボート小屋の桟橋を打つ水の音や木々のさざめきが、心を慰めてくれた。
と、後ろからこつこつと足音が響いて、そっと後ろを確かめる。
「少しは落ち着いたかね?」
「先生……」
わたしは長身のヘルマン先生に向きなおり、頭を下げました。
「申し訳ございません。わがままを聞いていただいて」
「いえいえ、構いませんよ」
そういって、ヘルマン先生はタバコを取り出して、口に咥える。
「物思いにふけることも、大事なことです」
マッチ箱を出し、さっと火をつける。
ぼぅっと光る赤い火が煙草を焼いて、赤く光る。寒い夜にタバコの火が静かに灯り、先生の落ち着いた風貌を際立たせた。
わたしは彼ほどの紳士を見たことがありません。
探偵としての職務を全うしてくれただけなら、それでもいい。しかし、今この手に抱いている宝物はきっと目の前の探偵なくして手にすることは叶わなかったとはっきりと言えます。
「あの、本当にありがとうございました」
頭を下げて、まず胸に浮かんだ感謝を彼に伝える。
「当然のことをしたまでです」
先生は言って、ポケットに手を入れ紫煙を吐き出す。
「あの二人組もしばらくはこのあたりをしらみつぶしに探すでしょう。その間に、あなたはイタリアに嫁ぐなりして、身を隠せば問題はないかと」
わたしは頭を垂れながら、ぎゅっとスケッチブックを抱きしめる。
「この絵にそれほどの価値があるのでしょうか?」
「今なら彼唯一の手製画集として、それなりの値がつけられるかもしれません。ぼくも品評者ではないので、そのスケッチの価値がいかほどかは保証しませんがね」
きっと世間は鬼才の画伯が残した遺作として、大々的に取り上げてその名声を高らかに歌い上げるだろう。
そこに描かれている人たちのことなどはお構いなしに、造形美や色彩の鮮やかさを褒め、描かれている物語を想像して勝手に膨らませることだろう。
しかし、わたしにとって、ここに収まっている数々の水彩画、描かれている人々は特別だ。
「ここにはわたしの父と母、それに顔も知らなかったおばあさま、そしておじいさまがいます」
スケッチブックに描かれた家族画はわたしと父と母、おじいさまとおばあさま。色とりどりの顔がそこに描かれ、何気ない日常を切り抜いた。みんなで食事をして、泣きべそをかくわたしや怒った母の顔、大あくびをする父、ほほ笑む祖父母。
これはおじいさまが見てきたわたしたちなのだ。
小さいわたしは絵の中で成長して、それを見守る家族の姿。叶わなかった日々が絵に息づいて、言葉にできない嬉しさでいっぱいだった。
「手放したくありません……」
「それがあなただけの特別な遺産。画伯があなたを思って、遺したのでしょう」
先生は静かに言って、そっとわたしの傍らに立ち、湖を見下ろしました。
隣の彼は何を思っているのか、タバコをふかしながら目を細める。
「ハリーもメリーナ嬢の健やかな成長を喜ぶでしょう」
「ハリー……、お父様の名前。どうして?」
わたしは一言も父の名前を先生の前で言っていません。
見上げるわたしにヘルマン先生は懐かしいことでも思い出したようにほほ笑んだ。
「その銀色の瞳は彼譲りだとすぐにわかりました。何せ、彼はその目で逐一ぼくが整備した車にイチャモンをつけていましたからね」
「お知り合いだったのですか?」
「ええ、戦友です」
ヘルマン先生は過去のことを思い出しながら、滔々と語る。
「彼は神出鬼没の配達兵でしてね。いつの間にか帰ってきては、いつの間にかいなくなるということが多くいつかみどころのない男でしたよ。車両整備隊のぼくには無理難題を押し付けていくようなありさまで」
「父はそんなにも強情な人だったのですか?」
「情に厚い男、というべきです。西部戦線で負傷し、傷痍軍人として帰国しましたが、ほどなく亡くなったと聞いています」
わたしは呆然として言葉が出なかった。
「今回の依頼もおそらくは画伯が彼からぼくのことを聞いたのでしょう。その短い合間にでも」
ヘルマン先生はタバコを手に持ちかえると、額を掻いた。
「探偵をしているというのもただの宣伝だったのですが、まさか自分の娘をよこす様なことになるとは彼がきいたら驚いただろうね」
「先生はそれだけ信頼されていた証拠です。父もおじいさまも、あなたが善い人だとわかっていたのです。でなければ、頼る相手にジェームズ・ヴェン・ヘルマンの名前を挙げたりはしなかったと思います」
「そう言っていただけると幸いです。さて、冷え込んできましたね」
そういってヘルマン先生はタバコを咥え直すと、上着を脱いでそっとわたしの肩にかぶせてくれました。
彼の温もりが伝わってくる。久しく人の温もりを感じて、嬉しさにはにかんでしまう。
「帰りましょう。夫人が夜食を用意してくれてると思います」
はい、とわたしは返事をして先生の後ろについていく。
そして、わたしは自分の人生をこの夜空の下で静かに決心を固めた。