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1-4

 アトリエはベルフェダー()と呼ばれる小さな湖のほとりに佇んでいます。


 周囲には針葉樹の森林が覆い、二階建てのアトリエを覆うようにしている。他に建物と呼べるものは小さなボート小屋と短い桟橋、納屋くらい。


 日も傾いて、湖は夕日色に輝いていました。これの光景を目にしたときは、別宅で見つけたヒントが嘘ではないと感じられます。


 しかし、湖の下となると厄介です。今のわたしたちには大仰な捜査道具はございません。それに春の時分であっても、冬の名残で夕刻は冷え込んできます。水温などは想像しただけでも震えが止まりません。


「これまた古びている」


 ヘルマン先生が最初に目を付けたのは、夕日の光りを返す湖ではなくアトリエでした。


「さる名家から譲り受けたお屋敷らしいのですけど……」

「それまたご立派なことで」


 木々がヘルマン先生を批判するようにざわめく。


 ヘルマン先生もタバコを捨てて、足先で揉み消すと周囲を見渡す。


「お嬢さん、お気づきですかな?」

「ええ、あの黒い自動車のことでしょう」


 わたしは振り返って、屋敷に続く細い道のわきにぽつんと止まっている黒塗りの自動車を見た。


 別宅を出てからずっと後ろをついてきて、とうとうここまで追ってきたのである。何が目的なのか、と考えればわたしでも彼らの背景を想像できる。


「そう。おそらく、メリーナ嬢が住まいを出てからずっとつけていたのでしょうな」

「そんなに……」

「ぼくのところに訪れた時には、二人組の男が張り込んでいましたがね。同じ手合いでしょう」


 そういって、ヘルマン先生は踵でターンすると、その自動車の方へ歩み寄っていく。


 わたしも急いで彼の後ろについていきました。


「どうするのです?」

「話をします。なぁに、心配はご無用です」


 先生の自信満々な言い草にわたしは口を閉じて、緊張に歩調を速めて彼の隣にぴったりと寄り添う。


 フロントガラス越しに運転手たちがバツの悪そうに一瞬動いて、新聞を広げるなり帽子を目深にして寝たふりをするのが見えた。


 これにはヘルマン先生が肩を上下させて呆れていた。が、すぐに愛嬌のある顔を作って片手を上げる。


「やぁどうも!」


 ヘルマン先生が陽気にあいさつしながら、運転席の横についた。


「何のようだい?」


 運転席で新聞を広げていた男が今にも飛び出しそうな眼玉をぎょろつかせる。


 わたしはそれに驚いて、すっとヘルマン先生の背中に隠れる。緊張で心臓が今にも口から飛び出しそうなほど高鳴って、足元が震えあがしまいました。


「いやね、ぼくたちの後ろに付きまとうものですから。何用かと問われれば、そっくりそのままお返しするだけなんです」

「変わった御仁だ」

「ええ。私立探偵をしている者ですから」


 ヘルマン先生は名刺を差し出すと、運転手はおっかなびっくりに受け取りました。


「見たところ、同業者に思えるのですがいかがか?」

「質問攻めにあう側の気持ちを考えたことがあるかい? 探偵さん」

「それが重要で?」


 ヘルマン先生はふてぶてしく自動車の屋根に腕を置いて、車内をのぞき込むようにした。


 すると、助手席の方でもぞもぞと動く音がした。


 わたしは先生の裾を引いたが、彼は動こうとはしなかった。


「このまま、ぼくたちの邪魔をしないならばそれで結構。が、できれば協力してもらいたいことがありましてね」

「協力? 何を言い出すことやら」


 と、ぎょろめの男は引き笑いをしながら、新聞を畳んだ。


「俺たちもあんたも雇われの身なんだ。報酬以上のことはできねぇよ」

「報酬以上の結果を出せば、善いではありませんか。そうすれば依頼主も万々歳でしょう」

「ほほぉ。それであんた、そっちのお嬢ちゃんを裏切るのかい?」

「裏切るも何も、ぼくぁ、見つけるのが仕事でね。このさい猫の手も借りたいんですよね」


 ヘルマン先生の暢気な語りに唖然として、わたしは何も言えませんでした。


 今の先生でもおじいさまの遺産の所在を探しあぐねいているのだろう。ヒントの言葉がわかっても、湖を調べるにしても限界がある。


 ぎょろめの男はしばし閉口し、口元の乱雑な髭を摩った。


「いいだろう。こっちとしても、穏便に済ませたい」

「そりゃぁ助かる。それで、こっちの情報なんだがね」


 ヘルマン先生は姿勢を直して、手帳を取り出すとメモ書きに目を走らせる。


 と、目当ての箇所を見つけて次にはまた同じように姿勢をかがめて手帳の中を見せる。


「別宅で見つけた画伯のヒントがコレ。湖に何らかの秘密があるらしい」

「小さい湖と言っても調べるのも苦労するぜ」

「言うと思いましたよ。しかし、あなたも探偵なら知恵を絞ればこの言葉の意味を紐解けるでしょう」

「フンッ。言ってくれるな、ひよっこ」


 ぎょろめの男は野良犬の様に凶暴な口元をひん曲げて言う。


 ヘルマン先生は軽く自動車の屋根を叩きながら、わたしの肩に手を乗せました。突然のこと、ピクリと体が小さく跳ねてぎょろめの男が不審そうに見てきました。


「ならば結構。ぼくは遺品整理でもして、新しいヒントでも探してみますよ」


 ごきげんよう、と吐き捨ててヘルマン先生はわたしをつれてアトリエの方へ歩を進める。


「先生、どうしてあのようなことを?」

「あまり素行がいい連中ではないからです。アトリエから遠ざけた方があなたの身の安全も保障できます」

「あの方たちは……」


 振り返ると、自動車がのそのそと発進してわたしたちの横間を過ぎていった。


 湖の周辺を捜すのだろう。今にも止まってしまいそうなほど遅い速度で、助手席の男が身を乗り出すようにして辺りを探っていた。その手に拳銃らしいものが握らているのが見えて震えが止まらなかった。


「探偵にも色々と性質はあるものです。車内から粗悪品のヘロインの匂いもしていましたし。酸っぱ臭いんですよね」

「では、わたしたちを……」

「遺産が見つかれば襲撃してきたかもしれませんね」


 ヘルマン先生は震えるわたしの手を握り、一階の出入り口の前で立ち止まる。


 彼が影になって悪徳な二人組を視界から遮ってくれたが、身の危険が近くにあることの恐怖に震えが止まらなかった。


「あまり時間をかけてはいられません。さぁ、ちゃちゃっと見つけましょう」

「は、はい……」


 わたしは鍵を取り出し、アトリエの錠前を外す。


 中を開ければ夕日が差し込んだ暗いエントランス、短い廊下があり、作業場にはすぐにたどり着きます。


 がらんとした室内にはまだ片付いていないイーゼルやモデル用の石膏像、梁と梁の合間には細いロープが吊るされ、デッサン用紙が洗濯ばさみでつるされていた。


「ここにはなさそうですね」

「そうなのですか?」

「氏の遺言とメモを紐解けば、なんとなしには」


 ヘルマン先生はわたしの肩を支えながら、一度外に出て住居になっている二階に続く外階段を上がっていく。


「先生は遺産の場所がわかったのですか?」

「ええ。間違いなくこのアトリエに隠されていますよ」


 先生の自信に満ち溢れた口ぶりにわたしはただ呆然とするばかりだ。


「では、どうしてあの方たちには湖の方を探すように仕向けたのです?」

「ぼくはメモしていた『金色の湖』という単語を見せたのですが、彼らが遺言の内容をそっくり覚えていたら、ああも安直な行動には出なかったでしょう」

「遺言の内容?」


 ええ、とヘルマン先生は返答しながら、二階の出入り口の錠前をわたしを見下ろしました。


「はい。メリーナ嬢は『彼女とわしが知っている』とおっしゃいました」


 わたしはドアを開けて、ヘルマン先生がするりと前に出るのを目で追いました。


「確かに、ええ」

「それでまず別宅の画はこれを示している。肖像画の差異や水彩画の技法を知るあなただからこそ知りえるヒントです」

「でも、湖にはわたしも出たことがあります。ボートもまだありますよ?」


 ヘルマン先生の背中を追って、二階の廊下に足を踏み入れました。


「湖の下に、隠したのかも」

「遺書の日付を思い出してみてください。平静を失いつつあった画伯が一人で湖出るようなことがありましたでしょうか? まして、そばにはメリーナ嬢、あなたが付き添っていた」


 わたしはそこまで言われて、納得した。


 おじいさまが一人、徘徊するようなことは度々あったがその都度わたしに止められて部屋に戻していた。そして、おじいさまが亡くなる直前はこのアトリエが終の棲家だ。


 ヘルマン先生は廊下の突き当りまで来て、そこの小窓から湖を眺める。


「ここで画伯は最期を遂げたわけですが、湖の下などは見えそうにありませんね」


 彼はぐるりと頭を回して、天井、壁、床を見渡し、最後に影に突っ立ているわたしを見た。


 わたしからはヘルマン先生が西日で影人形のよう見えたから、表情などはわからない。ただ、その佇まいが顔も思い出せない父に似ている、そんな感じがした。


「こちらの部屋が湖側に一番近い部屋ですか?」

「はい。ちょうど、おじいさまが亡くなられた部屋になります」


 なるほど、と言ってヘルマン先生はためらいなくドアを開けるので、わたしも恐る恐る部屋に入いりました。


 その部屋は殺風景で安物のベッドと画材道具を詰め込んだ棚、箪笥、年季の入った書斎机があるばかり。おじいさまが亡くなってから変わらない配置で、窓から差し込む橙色の光が物寂し気にそれらを照らしていた。


 ヘルマン先生は天井を見上げて、わたしに示した。


「湖の下というのはこういうことでしょうな」


 言われて、わたしも天井に目を向ける。


 そこにはキラキラと揺らめく光の波が天井で揺れていた。


「これは……」

「湖の反射光が入って映り込んでいるんです。さる名家の屋敷らしい、手の込んだ計算をしてね」


 窓は三つあり、小さな天井の水たまりも三つある。


 ヘルマン先生は書斎机にあった椅子を引っ張り出し、天井を調べる。彼の長身だと余裕で届くほど天井は低く、反射光を映す天井を叩いていく。


「おじいさまはなぜこのようなことを……」

「さて、それは遺産の中にでも真相が隠れていると思いますよ」


 そういって、ヘルマン先生は最後の一か所を叩いて、そこが抜けるのを確認する。そして、天井の一部が見事に浮き上がり、天井裏へとその手を伸ばす。


「ネズミに噛まれてたりしないことを祈っててくださいよ」


 わたしは両手を合わせながら、ヘルマン先生の捜索結果を待ちました。


『特別な遺産』の正体。想像しても、なにも思い浮かびませんでした。ただ、もうすぐおじいさまの遺志を知ることが出来る。それだけを知りたくて、探したのですもの。


「ん……っ」


 と、先生は何かを掴んだらしく伸ばしていた手をひっこめました。


 そして、彼の手にはほこりをかぶった包みが収まっていました。


「いやいや、これが遺産ですかな」


 ヘルマン先生は椅子から降りるなり、そっとわたしにその包みを差し出した。


 わたしは包みと先生の穏やかな表情を交互に見やる。先生は静かに開けてごらん、と顎で示してほほ笑んだ。


 恐る恐る包みを解いていくと、埃が舞い、夕日の中で宝石の様に輝く。


「これが、おじいさまの遺産……」


 包みを解くと、しわしわに波打ったパルプ紙の束がタコ糸で綴られていた手製のスケッチブックが現れた。


 表紙には『愛しの孫娘へ』とおじいさまの今にも崩れそうな文字が書かれていて、一枚めくった時、わたしは胸が熱くなり、目頭が熱くなった。どうして素直に渡してくれなかったのだろう。その疑問が頭を巡ったが、今は淡い喜びの中に沈んでいた。


 それを見たヘルマン先生は静かにドアの方へ歩いていく。


「しばし、外の連中を探ってきます。ここで少し待っていてもらえますかな」


 先生の声にはわたしは頷くで精一杯で、彼はすぐに部屋を出て行ってしまった。


 そして、誰もいなくなった部屋で座り込んでわたしは大粒の涙を流し、ここにはいないわたしの家族を強く感じる。

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