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1-3

 キエルの町から南へ二〇キロ離れた小さな町レットンがわたしの今の住まいであり、おじいさまの別宅がある。


 キエルの近代的な街並みを抜ければ、澄み渡る青空も見渡せるほど広い森林と田園が広がる。小高い丘から見れば、街道の土の色がはっきりと線を引いている。


 わたしが目を瞬かせて、ぼうっと見えて景色はそんなものであった。


「ご気分はどうかな?」

「あ、ええ。わたし、寝てしまって?」


 隣にいるヘルマン先生はタバコを咥えたまま、ハンドルを握って正面を見ていました。


「それはもう気持ちよさそうに。エンジンの音も気にせずにね」


 わたしたちが乗る自動車は彼の自家用車です。


 しかし、それは辻馬車よりもずっと小さいおもちゃのような車。二人乗せるのでやっとなほど小さく、車輪は四つ、丸いフォルムに横に飛び出たライトなど正面から見ると愛嬌のある顔にも思えます。わたしが知っている車や馬車のドアは左右にあるのに、この車ときたら正面から開くのだからユニークなことこの上ない。


 ヘルマン先生も『あと半世紀したらわかる人も出てくるでしょう』といっていたけど、少し理屈がわからなかった。


 お尻から伝わるエンジンの震えや背中を痺れさせる騒音は自動車のそれであったが。


「もうすぐレットンに到着するよ。天蓋を開けて風にでも当たってみなさい。目が覚めますよ」


 ヘルマン先生が片手で天蓋のシートを引っぺがす。


 ゆったりとした風が車内に吹き込んで、青々とした草の匂いにつられてわたしもそっと頭を出した。


 緩やかな風が頬を撫でて、頭巾の下に隠した髪をざわめかせる。


 わたしは目を細めながら、頭巾を抑えてしばしその風に当たって、眠気を洗い流す。余裕が出てくると景色を見て、後ろを振り返ったりして気持ちを落ち着かせる。背後には一台の自動車、前から干草を積んだ荷馬車とすれ違う。


 雑木林のトンネルを抜けると、煙突屋根の町並みが見えてきた。


 見慣れてきた風景でしたが、郷愁の念はありません。もっぱらアトリエで暮らしていましたし、別宅は後援者の方々や画商、同業者を集めてのちょっとした社交界の場とか、おじいさまのお弟子さんが利用していただけですもの。


 途中で乗り合いバスが横を過ぎて、多くの人が逃げるように町から離れていく。


「小さな田舎町だと聞いていますが、これはまた寒々しい」


 運転するヘルマン先生は町に入るなり、肩をすくめてその様子を言いました。


「農家をしている方がほとんどですから。住んでるいる人も少ないのです」

「なるほど、人通りがほとんどないわけだ」

「すぐそこの角を右へ行ってください。とんがり帽子のような家がおじいさまの別宅です」


 それからすぐにわたしたちを乗せた車は目的地に到着した。


 とんがり帽子のような古びた家。しおらしい外観からはとても人が住んでいるようには見えないだろう。


「別宅とはいえ、どれほどの頻度で画伯はいらっしゃたのです?」

「おじいさまが画家として売れ出して、間もなくに建てられたのですけど、ほとんどがお弟子さんの仮住まいとして使われていました」

「庭師もいなかったようですな」


 ヘルマン先生は車から落りて、わたしの手を取って車から降ろしてくれました。


 彼の視線は周囲に向けられ、丸坊主の花壇や荒れ放題に伸びた庭木を注意深く眺めます。


「わたしが来たころもこのような有様でした。最近も色々とありまして、引き払ってしまいましたけど……」

「少し前まではメリーナ嬢が世話をしていたのですね。もったいない」

「長く住めるわけでもありませんから」


 わたしは別宅の玄関を開けて、ヘルマン先生を迎え入れる。


 閑散とした家内は透き通った空気に満ちて、窓から差し込む日差しが寂れた内装を浮き彫りにする。


「どちらに引っ越すので」

「さぁ……。イタリアの方だと聞いております」


 ヘルマン先生が家を散策している後ろについていきながら、わたしは答えた。


 キッチンに差し掛かると、使い古された長テーブルや使い古された燭台、流しに一組の食器が寂し気に放置されている。


「さぁ……って。お嬢さん、ここを引き払うおつもりなんでしょう?」

「ええ。二万マルクほどですが、少しの間の身持ちはできます」

「それはおかしい。これほどの家なら、十五万はくだらないでしょう。調度品や家財道具だってあっただろうに」


 ヘルマン先生は振り返って憤慨した。


 彼に家を目利きする才能があるかはさておいても、わたしにはそうは思えません。暮らしてきた感触というはあまりにも物悲しい。最低限の衣食住で事足りましたし、一生涯ここで暮らしていける自信もありません。


「調度品はお弟子さんたちに渡してしまいましたし、弁護士さんから言われたものですから。もしかしたら、先生のおっしゃる通り、それくらいはあったのかもしれません。でも、わたしに稼ぎはありませんから、依頼料として受け取っているのかもしれません」

「悪徳ですな。その弁護士が君の叔父が手引きした方ならそうでしょうとも。悔しくはないのかい」

「全然、これっぽっちも」


 一階を探し終えて、次に二階に上りながらヘルマン先生は窓の外を見てから客間の方へ足を進めました。


「お嬢さんがお金に頓着なのは結構。しかし、このご時世、お金は入用だ」

「お金のことは……、叔父たちのこともあってあまり考えたくないのです」

「がめついと人間は変わるものです。そこのところ、遺伝的に似なくてよかったとはぼくも思うよ」

「それにわたし自身、いつまでも独り身ではないようですから」


 ヘルマン先生が客間に入って立ち止まると、怪訝そうにわたしを見下ろす。


 わたしもその視線に気づいて、避けるようにそそくさと部屋の中へ入った。まだ片付けの途中ともあって袋に詰めた荷物やカバン、壁に掛けたままの額縁がいくつかある。


「叔父が婚約相手を見つけたらしくて」

「それでイタリアに出向くというのかい? それに従うのかい?」

「だって、他にしようがありませんもの」


 わたしは一枚の額縁の前に立って、その水彩画を見た。


 つたない筆先で描かれた祖父、ショーン・カッケスの肖像画だ。少し肌の色が灰色にくすんで羊のような顎鬚も黒ずんでしまっている。背景の青色はみずみずしいままだというのに、おじいさまの顔ばかり霞んでいた。


「おじいさまはわたしに絵を描くことや、読み書きを教えてくださいました。その時間は楽しかったと心から思います。だけど、わたしは自由ではいられません」

「そう思って、最後に祖父との思い出を大切にしようと遺産を探すことにした、と」


 ヘルマン先生は横に立って、壁に飾られている別の水彩画を見つめた。


 それはおじいさまが書いたわたしの肖像画である。いつ描かれたものか、鮮やかな色合いをそのままにうつむき加減と憐憫の眼差しが深い緑色の背景に溶け込んでいる。おじいさまの筆は繊細で、みすぼらしいわたしであっても、一人前の婦女子として認められるくらい上質に書き上げている。


「大切にと言いますか、ええ、最後の思い出作りに宝探しをしたいだけ、だと思います」

「それはまた奇特なお考えで……」


 そういってヘルマン先生は咥えているタバコを手にして、姿勢を正す。


「それはさておき、この二つの画はカッケス氏が?」

「いいえ。おじいさまの肖像はわたしが書いたものです」

「となると――」


 ヘルマン先生は煙を吐き出すと、タバコを咥え直し、おじいさまの肖像画手に取った。


「この画の黒い部分。あとから重ね塗りされたのも、あなた?」

「重ね塗りをした覚えはありません。第一、これは劣化ではないでしょうか?」

「ショーン・カッケス氏ほどの画家であるなら、そうした対策を取らないはずがないでしょう。まして、自分の肖像画であるなら、ね。ごらんなさい。紙の質は上々だというのに、絵の具の、それもごく一部しか劣化しているように見える」


 わたしはヘルマン先生に促らされて、改めて肖像画を見る。


 自分で描いていた時はどの技法が劣化を防ぐものであったのか、覚えていない。確かに記憶しているのは、このつたない絵をおじいさまが喜んで受け取ってくれたことだ。


「窓際へ。それからこの黒い部分を落とす技法をご存知ですかな?」

「ぼかしを使えばもしかしたら」

「よろしい。なら、それをしていただきたい」


 ヘルマン先生が肖像画をもって窓際に歩み、わたしは一度外へ出て井戸から水をくみ上げる。


 その時、バケツを持って玄関に向かったとき道のわきに黒塗りの自動車が背の低いブナの木の木陰に止まっているのを見つけた。その平べったい鼻先は先ほど見た自動車に似ているように思ました。


「メリーナ嬢。画材道具は一階ですかな?」

「は、はい。すぐにお持ちいたします」


 玄関からヘルマン先生の声が聞こえて、わたしはすぐに家の中に引き返しました。


 先生は居ても立っても居られないように肖像画をもって階段を駆け足で降りてきた。


「やはり、この絵にヒントが隠れているようです」

「どうして?」

「光にかざして、僅かながら切り込みが見えましたよ。指先の感触もそう。さすがは画伯です。コンマ数ミリの薄い傷を黒い絵の具はすっかり塗りつぶしてあります」


 ヘルマン先生はキッチンの長机に肖像画を置いて、満足げにタバコをふかした。


 わたしは画材道具を持ってきて、急いで筆を一本水に浸し、使い古した雑巾を手にする。


「落とせそうですか?」

「色を落とすのとは少し違いますけど、どうにかやってみます」


 水をたっぷり含んだ筆で肖像画のあごひげの部分を撫でる。


 すると、黒い部分が徐々にふやけたように広がりを見せていく。余分な水は雑巾で拭いて、黒い絵の具のあらましが取れるまでその作業を続けた。紙が破れないよう注意しつつ、徐々に浮き上がってきた文字に驚いた。


 ヘルマン先生が言っていたコンマ数ミリの切り込みに染み込んだ黒い絵の具が残り、角々しいアルファベットが姿を現した。


『金色の湖の下』


 解読できた文字はそれだけだった。


 ヘルマン先生はその文字に口元をひん曲げながら唸った。


「金色の、湖の下、ですか……」

「先生。湖でしたら、アトリエの近くにございます」

「わかりました。では、そちらに出向く前にもう少しここを探ってみましょう。ほかにもこういった仕掛けがあるかもしれません」


 ヘルマン先生はそう言って捜査を再開した。


 わたしはしばらくその場に立って、おじいさまの肖像画を眺めた。


「おじいさま。わたしに何を遺されたのですか?」


 その画は水で滲んで少し悲し気に見えたのは、気のせいだったのかもしれない。

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