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1-1

 キエルの町を訪れたのはこれで二度目になる。


 一度目はショーンおじいさまに連れられて、ブリテンに渡った時だった気がする。


 そして、二度目となる今日はわたしの迷いを払うため。


 街並みは綺麗に整地されて、石畳の大通りには馬車と蒸気自動車が行き来していた。機関車のような円筒を被った乗合自動車の心地は乗合馬車よりも肩身が狭い。


 わたしなどは紳士淑女に席を譲って、昇降口の手すりにしがみついているしかありません。


 乗合自動車が新装したばかりのオペラハウスの前で止まり、わたしは追い出されるようにしてキエルの町に降り立ちました。


 とにかく人が多い。紳士淑女はもちろんでしたが、市場を遠巻き観た時には様々な地域の人が行きかっています。


 目につくものすべてが鮮やかな色をして、風にそよぐ木々すらも新芽の様に透き通って、瑞々しいさざめきを奏でる。


 しかし、訪問先へ向かうほどに、キエルの美しい景観から離れていき、徐々に寂れた住宅街に迷い込んでいました。動乱の時代の爪痕か、住宅の壁には弾痕、歯抜けの石畳や救貧を求める人が腰かけています。


 このような場所は近しく訪れていなかったものですから、戦々恐々としてわたしの歩みも半歩小さくなっていました。


 今日の暮らしもままならない人たちが、ビロードの紳士やアール・ヌーボーな淑女に恵みを求めても、わたしには一時たりとも寄り付こうとしませんでした。


 そのはず、この時のわたしは着古したドレスにボロボロの頭巾をして、網かごを下げていたのですもの。身なりのなっていない女中くらいにしか見えなかったでしょう。そんな人間が富を持つかもしれない、とはつゆとも彼らは思わなかったはずですとも。


「ヴィンセント通り一二二……、ここ?」


 わたしは通りに面した一軒のテラスハウスに見つけて、じっと観察しました。


 赤レンガづくりで青々とした葉っぱの群れが引っ付いています。他の家も同様に古ぼけたレンガの家が立ち並んで、崩れかけの城壁のように思えました。


 玄関へ続く短い階段を上り、表札にある住所を確認しノッカーを叩きました。


「どちら様だい?」


 すぐに取次の、妙齢の女性がドアを開けて、不機嫌そうな声で問いかけました。


 眉間にあらん限りのしわを寄せて、上から覗き込むように顔と近づけてきます。スンスンと鼻を鳴らして、品定めをしている風だ。その薬指に銀色に光る指輪が目の端に入ったので、彼女が既婚しているご夫人だとわかったのですが、どうしても魔女という言葉が頭をつついて離れませんでした。


「ええと……、メリーナ・マルケスと申します、マダム。ジェームズ・ヴェン・ヘルマン先生、いらっしゃいますでしょうか?」

「どちらの、紹介だい?」

「亡き祖父のショーン・カッケスの紹介で……。あ、これが紹介状です」


 わたしが網かごから古ぼけた紹介状を取り出すと、彼女はそれを手に取って目を細めました。


「それで手紙をお送りしまして、面会していただける電報をもらいまして……」


 言葉を振り絞っても、女の人は答えてくれません。


 だってどこまでも疑った雰囲気で、いくども紹介状の文面に目を走らせています。きっとこのみすぼらしい格好と亡き画家の名前が信じられないのでしょう。


「ミセス・ドーラ。いかがしました?」


 と、玄関のむこうから澄み渡った男性の声がわたしの耳に飛び込んできました。


 ドーラ夫人と呼ばれた女性はすくっと姿勢を直すと、後ろを振り向きました。


「あんたに面会したいという客人なんだがね、どうにも……」

「この時間に尋ね人。なら、約束した方でしょう」


 コツコツと革靴の固い足音と共に玄関にチョッキを着た紳士が姿を見せました。


 きれいに磨かれた革靴に長い足を隠すような長ズボン、長い手をポケット入れていて、少しだらしない。それから、シャツにチョッキの質素な風体で、その顔を見上げた時、初めてこの方と目が会いました。


 短い黒髪で高い鼻をした紳士。その目元が子どもの様に笑うものですから、若い印象を受けました。


「ああ、なるほど。カッケス画伯のお孫さんだね。入りたまえ。待っていたよ」


 そう言って紳士は背を向けて二階に向かう階段へと歩いていく。


 わたしはドーラ夫人の視線を気にしながら、紹介状を返してもらい彼の後をついていきました。


「少し散らかっているが気にしないでくれたまえ」


 そう言って、ヘルマン先生は二階の部屋に通してくれた。


「ドーラ夫人、彼女にホットミルクでも入れてもらえないだろうか? 長旅で疲れていると見える」

「はぁ、まぁ……。先生がおっしゃるなら、いかようにも……」


 後ろでドーラ夫人の嫌々な反応と首筋がヒリヒリするような視線を感じて、さっと部屋に飛び込みました。


 と、ヘルマン先生は丁寧にドアを閉めて、ゆったりとした足取りで横切る。


「こちらにどうぞ」


 ヘルマン先生のしゃきしゃきした声に顔を上げて、暖炉の傍にある対面のソファと胡坐椅子とを見比べる。


 部屋全体はロマン主義的な家具で彩られ、本棚にはジャンルも乱雑な蔵書、薬品の数々、暖炉の傍にはたばこの吸い殻をためた石炭入れがある。


 私立探偵の応接間、というものを初めて訪問しましたけれど、ブルジョアジーに憧れている風にも見えます。ですが、先生の性格を知っていれば、ただの成金趣味でないことはわかるかと思います。


「どうかしたかな?」


 ヘルマン先生はさっと足の低いテーブルをはさんで、自分の定位置なのだろう胡坐椅子に浅く腰掛ける。


 わたしも絨毯を汚さないよう、少しスカートのすそを挙げながら向かいのソファーに腰を下ろした。ぺったんこの靴裏から絨毯の柔らかい感触が伝わって、チクチクと痛みに耐えていた足もほっとします。


 そうしている間にもヘルマン先生は手持無沙汰にシャツの胸ポケットから煙草を取り出すのが見えました。


「煙草をやっても?」

「えぇ、どうぞ。お構いなく」


 失礼、とヘルマン先生は煙草をくわえると胡坐椅子の向きを変えて、暖炉の傍にある石炭入れをひょいと長い足先で釣り上げて足元に運んできた。


「それで先生? 手紙の方は読んでいただけましたでしょうか?」

「ええ、それはもうしっかりと」


 ヘルマン先生は今度はスーツのポケットからマッチを取り出して、タバコに火をつけるとゆったりした口調で言う。


「カッケス画伯の訃報はタブロイドで知りましたが、家の内情はそれ以上に重苦しい様子でおいでだ」

「はい……。それで探していただきたいのですが……」

「承知しました。では、あなたの口から順を追って説明願いますか?」


 ヘルマン先生が真剣な視線で見つめてくるのがわかって、わたしも頭の頭巾を取りながら数日前のことを思い出す。

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