剣先は語る(1)
彼女はいつものように熱心に朝刊を読んでいる。時折その小さな手でティーカップをつかみ口元へと運ぶと、くいっと一口紅茶を飲んでまたテーブルに置く。紅茶に分けられた彼女の僅かな意識は、やがて新聞に向けられていたそれと再び合流し、他人の声など届かないような別世界に彼女を没入させる。一体新聞の何が面白いのかと僕は彼女に尋ねたことがあるが、彼女の返答は僕の満足するようなものではなかったと記憶している。
僕は少し大きめな木製の肘掛け椅子に腰を掛け、そういう彼女のほうを見たり、あるいは天井を見たり、はたまた窓の外をぼんやりと眺めたりしている。仕事に向かうであろう人々や家の前で水やりをする人々、あるいは通り過ぎていく馬車などが幾度となく目に入る。平和というのはまさにこのようなものでだろう。この世の中のどこかで不穏なものが暗躍しているなど露程も脳裏をよぎらない。何事もない日々はたいていこうやって始まり、こうやって終わるものなのだ。特別な何かが起こる日ばかりではない。こんな日々を少しくらい繰り返しても、誰も文句は言わないだろう。僕は一つ欠伸をしてもう一度彼女を見る。彼女はやはり熱心に新聞を読んでいる。
彼女の名前はリリだ。
リリとの出会いは正直なところよくわからない。それは覚えていないという意味では決してない。むしろよく覚えている。途方に暮れていた僕のところを彼女が訪ねて来たのだ。最初はもちろん不信がったが、それは本当に最初だけだった。彼女に悪意がないことがわかると僕はむしろ彼女を信頼した。信頼せざるを得なかったというほうがどちらかと言えば正しいのかもしれない。それからというもの、彼女がこの部屋をよく訪れるようになり、いつしか探偵の真似事さえ始めるようになった。ただ、彼女がなぜ僕を訪れてきたのか、いや、なぜあんな場所を彼女が訪れたのかは一切わからない。出会いはよく覚えているが、なぜ出会ったのかはよくわからないのだ。無論、出会いというものはたいていそういう、よくわからないものなのかもしれない。
とにかくそうして僕はリリと出会った。
リリは十七歳の女の子だと言っていた。他意はないが、可愛い女の子だと言える。十七ならば僕の五個下だ。しかし、学校には行っていないのか、それともそもそも学校と呼ばれるものが存在しないのか、とにかく毎日僕のところに現れる。それもたいてい朝から晩まで。
彼女は日本人的な容姿をしていて、優しそうな目つきに控えめな鼻、そして小さい口に丸みはあるもののややすっきりとした輪郭と、彼女を可愛いと評さない人間がいるとすればそれは嘘をついていることと同じことになる。それほど彼女は容姿に優れている。もちろんこれは第三者的な意見であり、他意はない。しかしながら、髪だけが唯一日本人らしくなく、少しだけ青みがかったあるいは少し銀が入っているというべきか、そんな白の短髪で、その点が真っ先に目に入るために彼女はやはり私の知っているような世界の住人ではないということが十分に実感できるのだ。
彼女が関心を寄せるものは新聞だけではない。とにかく暇さえあれば情報を得ているのだ。この前もそうだった。一緒に外に出たかと思うとあちらこちらに視線が向くものだから、何事かと思って横目で観察していた。彼女は何かをつぶやいていたようで、その目線の動きと口元を交互に見ることによって僕はその示すところを理解しようとした。すると、町に掲げられている看板や、露店の売り物の文字、目に入るものすべてを読んでいたことがわかったのだ。これには正直なところ僕も驚いた。確かに町に出れば様々な情報が文字となって表れ、それを目にする機会は多いものだ。しかし、まさかそれらすべてを読んでいるのだとは思わなかった。すると突然、どの看板とも一致しなさそうな口の動きを数回繰り返すものだから、つたない読唇術でそれをついつい解析してしまった。
「そんなに見つめないでください」
彼女は恥ずかしそうにしていた。僕は気づくと彼女のことを凝視していたのだ。もちろん結果的にそうなってしまっただけで他意はない。ただ、彼女はそれほどまでに普段から周りの情報を多く取り入れようとしているのだと僕はそのとき知ったのだ。
僕は彼女の入れてくれた紅茶を一口飲み、その甘さに納得しながら再び窓の外を眺めた。
こういった日々を過ごすのも悪いことではない。
しばらくすると新聞が置かれる音がして、僕の目はリリに向けられた。彼女は僕と視線を合わせ、少し大きめの声で言う。
「カイトさん、事件です!」
何事もない日々はこうやって終わりを迎え、
「私たちの出番ですね」
特別な日々はこうやって始まるのだ。
僕は現場へと向かう道中で、彼女から今回の事件のあらましを聞いた。もちろんそれは新聞に載っていたことであろうことに疑いの余地はない。あの場で他に情報を得る手段などないのだ。しかし、新聞を読まない僕には彼女の口から出される情報がすべてでもある。
それは誰も相手にしないような事件であった。そんな事件だからこそ彼女は選んだのだとも言える。大きな事件ともなれば王国がその威信をかけて対処するだろうことは想像に難くないが、小さな事件であれば構ってはいられないという場合もある。それは僕のいた日本とも少しばかり似ているところがあるだろう。しかし、それも致し方ない部分がある。対処できる量には限りがあるのだ。だからこそ僕たちは小さな事件を進んで解決しようとしている。無論、その結果に寄与する割合は僕と彼女とでは比べ物にならないほど差があるが。
事件の全体像は、やはり小さな事件とあって簡潔なようだ。一昨日の夜中に武器屋から商品が盗まれたという、よくある話と言えばよくある話だ。ただ、盗まれたものは書いていなかったようで、その代わりに盗まれたものは一つだけだということが書いてあったらしい。
僕は謙虚な盗人もいたものだと考えていた。僕がいざ盗むとなれば、できる限り盗んでやろうと思う気がするのだが、この盗人はその辺がとても謙虚だ。尤も、これくらいの小規模な事件であれば誰も気にしまいと高をくくった行動であるのならば、むしろよっぽどの悪党だとも言えるだろう。
「カイトさんはどういう人が犯人だと思いますか?」
「そんなことを聞かれてもまだわからないよ。リリは?」
当然のことながら僕には見当がつかない。彼女が僕に意見を求めるときは幾つかのケースがある。今回はそのどれだかはわからないが、ひとまず意見を促した。
「魔術師ではない気がしますね」
魔術師。本来であれば聞きなれない言葉だ。しかしこの世界では、よくあるとまでは言わないまでも、比較的一般的な言葉だと言える。僕が迷い込んだこの世界は、およそゲームの中と見まごうような世界で、それはアニメの中だと言っても良いだろうし、僕がいた世界とは別の世界だと言っても良いだろう。そんなこの世界では魔術師と称される人間は相応の魔力を持った人間であるため、彼らが悪事をはたらくことは非常にたやすい。無論、その場合の処罰の厳しさは言うまでもない。
「それはなぜ?」
魔術師がこのような犯罪を行うには見返りが少なすぎるという意見は確かにあるだろうが、その考えは魔術師の犯行を否定するには及ばないはずだ。小規模ならば立件される確率が低いと言えることは犯罪者側からすればメリットのようにも思える。
「なんとなくです。まだよくはわかってません」
「そうか」
見た目でも実際にも僕より幼い彼女の脳裏には、僕とは少し違った世界が広がっている。おそらく今回の事件の犯人も魔術師であることはまずないだろう。
しばらく歩くと、リリが立ち止まる。
「着きましたよ。ここです」
ここは、町の中心にある商店街から少しだけ離れた場所だ。見た目からして明らかに武器屋で、店の名前は『ストロング』と書いてある。
この世界に来て驚いたことは幾つもあったが、そのうちの一つは言語についてだ。そのすべてが日本語であることは冷静に考えてもおかしい。話す言葉も書いてある文字も、そのほとんどが日本語なのだ。なぜこんな異世界が日本語で溢れているのか、その理由はまったくわかっていない。しかし、生活する上での支障が、しかもその割合の大きいものが消えたということは当時の僕にとっては嬉しい出来事だった。もちろん、日本語があふれる理由については今でもまったくわかっていない。
全体を見てみると、正面には木製のドアと二つの窓がうかがえる。石造りの白い家で、屋根が赤く染められているものだ。
ドアは閉められていて、正面に見える二つの窓も開いていない。カーテンで中が見えないようになっているあたりからは、営業している雰囲気はあまり感じられない。
「店は開けてなさそうだけど、どうする?」
「とりあえず訪ねてみますね」
リリは数回ノックをする。しかし返事はない。店の横の、道とは呼べない庭のような場所をリリは眺めるも、やはり誰もいないようでこちらにすぐ戻ってくる。
「おかしいですね」
「事件があったのが一昨日で、発覚したのが昨日だろう? それならば傷心していて何もおかしくない。今日は店に誰も来てないのかもな」
「たぶんそれは違います」
リリは僕の意見をあっさりと否定した。
しかし、この状況で否定するような材料があるとは思えない。窓にはすべて白を基調としたカーテンがかかり、中が見えないようになっている。それゆえに中に誰かがいるかどうかを知るすべはないはずだ。となると、むしろカーテンが閉められている分、誰もいないと考えるほうが自然だ。
「横の窓から何か見えたのか?」
無論、中が見えたとなれば話は別だ。
「見えませんでした」
「それならやっぱり今日は誰もいないんだろう。また出直そう」
「私はいると思います」
リリはそう言い張る。普通であればそれはただのわがままに聞こえるだろう。しかも現実とは相いれないことを言い張るようなとても迷惑なわがままだ。しかし、彼女の場合は少し話が違う。
リリがそこまで強気なのには何か理由があるはずだ。僕はぼんやりと武器屋を眺めた。普通の建物と言えばそれまでだが、しかしなかなかいい店でもある。商店街の中心部から少し離れてはいるものの、外装もしっかりと武器屋の様であるし、店に入りにくいような不潔感もない。看板は木で作られていて、カタカナなのが少しミスマッチではあるが、それでも武器屋としての体裁を損なうほどのものではない。
そうして眺めていると、違和感を覚えてその部分に目を遣る。ドアの回動する側に、手紙かあるいは布切れか、何か白いものが少しばかり挟まっているのだ。それを手で引っ張ってみても動くことはなく、手触りは柔らかい。よく確認するとカーテンの端であることがわかった。おそらく店内のカーテンがドアの開閉とともに挟まったものだろう。もしかするとリリの発言はこれを見てのものだったのかもしれない。
「このカーテンか?」
「そうです」
彼女はどうやらこのカーテンこそが人のいる根拠だというのだ。
しかしながら、当然僕にはそれが根拠だとは思えない。ドアを開閉した際に挟まってしまったことは間違いないだろうが、それが店を出るときなのか、店に入るときなのか、その区別がつかない。
「店を出るときに挟まってしまったということも考えられる。ドアというのは入るときだけに開けるものではない」
「それはそうだと思いますが、果たしてそれですべてでしょうか?」
僕の発言のどこに向けての疑問なのかは定かではない。店を出るときに挟まったという点に関しての疑問だと考えるのが普通だが、彼女の場合はドアというものの使い方について疑問を持つということすらありうるのだ。
僕は彼女の意見を促した。
「これはお店に入るときに挟まったものだと私は思います」
僕はやや考えすぎていたようだった。
しかし、これならば理解できる範疇の話だ。そして、店に入るときだと決定づける根拠はないはずだ。
「出るときにカーテンが挟まることもある」
「もちろんです」
「それじゃあこれが出るときに挟まった可能性もあるだろう」
「それとこれとは話が違います」
「言っている意味がよくわからない。それとも、入るときと出るときとで、カーテンの挟まりやすさは変わるものなのか?」
僕にはそんな統計の知識など持ち合わせているはずもなく、リリとておそらくそのような知識までは持っていないだろう。
彼女の言っていることがよくわからなくなってきた。リリはいつもこうだ。僕の理解のおよそ届かない領域で論を繰り広げる。だからこそ尊敬している部分があることに相違はない。ただ、それはあまりにも説明がなさすぎて理解ができないのだ。
「カイトさん。よく考えてみてください」
こちらはすでによく考えた上で話をしているのに、彼女の言い草はひどいものだ。
「本当に、こうなると思いますか?」
「可能性はあるだろう」
「では、店主になりきって想像してみてください。店を出るときです。いいですか?」
僕はしぶしぶ承諾した。それをやったところで何かが変わるとも思えなかったが、彼女の言う通りにするとなぜか良い結果が生まれるのだ。だからこういうとき僕は彼女の言う通りにすることにしている。
「今日も一日頑張って勤め、仕事が終わります。仕事で使うものをきちんと片付けました。あとは帰るだけです。店を出ます。このドアに来てドアを開けます。今、開けました。そして外に出て閉めます。今、カーテンが挟まりました。そしてそのままドアに鍵をかけます。おそらく鍵がきちんとかかったか確認もします。そして帰ります。これがおよそ一連の流れだと私は思います。どうですか?」
僕はその話を頭の中で想像させ、その途中で違和感を覚えた。
「なるほど。言いたいことが僕にもわかったよ」
今度はリリが笑顔で僕の答えを待っている。
「確かに出るとき、いや、店を離れるときにこの状態はありえない。ドアにカーテンが挟まっていたら気づくはずだ。今の話は少し誇張されたせいでいくらかカーテンが際立っていたかもしれない。だけど、このようにカーテンが挟まっていたら間違いなく気づくし、一度ドアを開け、閉め直すだろう。つまりこのようなカーテンの挟まりは、外側からでは目立って確認がしやすいため、店を離れるときには起こりにくい」
そして内側に人が入ったときにはカーテンが外に出ていることには気づきづらく、直しにくいのではないかということも想像がつく。だからリリは中に人がいると考えたのだろう。
「その通りです。私もそう思いました」
リリは満面の笑みで僕の答案を採点してくれた。
僕は少し誇らしく思った。彼女の至った境地にたどり着くことはとても嬉しいものだ。彼女と同じ考えを共有できることは、何か自分が素晴らしい人間になれたのではないかという優越感や高揚感を覚える。それは決して彼女に特別な情があるから感じているわけではない。一人の人間として何か特別なことを成し遂げた錯覚によってもたらされるのだ。
僕はおよそ確信のようなものを抱きながら、ドアを叩いた。
すると今度は店の奥から音が聞こえてきたのだ。誰かが歩み寄ってくるような感覚が、床の軋む音を通して伝わってくる。
そしてドアが鈍い音を立てながら開けられる。
「あの……何か御用でしょうか?」
彼は店主のようだった。僕よりも二回り近く上であろう人が、少しやつれた表情で現れた。目の下には少しばかりクマをこしらえ、精神が弱っているようにもうかがえる。武器一つでここまでともなれば、この人は商売に向いていないのではないかという思いもあるが、悪意を自分に向けられるということはひどく精神を消耗するものなのかもしれない。
出てきた人物に、リリがすかさず言葉を発する。
「私たち、今回の事件について捜査させていただきたいのですが、どうでしょうか?」
店主は困惑しているようだ。それもそのはずだ。いきなり訪ねて来た見ず知らずの子どもと若造が、自分の巻き込まれた事件について調べたいなどと言い始めれば、どちらかと言えば迷惑だという気持ちが生まれてきてもおかしくない。
こういうときに嬉々として話すリリは捜査を続ける上では都合が悪い。そういうところだけはなぜか少し抜けている。もっと真剣に、相手の心を慮っているような厳かな雰囲気で、それでいて優しく話さなければならない。
「今回の事件については私も心を痛めております。自分の営業している店で物が盗まれるということがどれだけ辛いことなのか、それを世間の人間はあまり知りません。失うということ。それは大なり小なりとても辛いことです。私も以前大切なものを失いました。だから少しでもお力になって励ましになればと、そう思って駆け付けさせていただきました。私は探偵のカイトと申します」
店主は少しばかり涙目になっている。僕は嘘は言っていない。きちんと心を痛めているのは『私』だとも言った。リリはどうせ楽しさ半分でこの事件を考えているのだろうが、僕は人としての情も有しているつもりだ。実際に僕は現実というものを一度失っている。その絶望は計り知れないものだった。
僕は挨拶の最後に名刺を渡した。名前と探偵という文字だけのとてもシンプルなものだが、その名刺を見ながら店主は言う。
「探偵さんですか。わざわざ私のためにありがとうございます。私はこの店の店主のヨーイと言います。どうぞ、中へお上がりください」
僕が店内に足を踏み入れると、リリが後ろをついてきた。