プロローグ
僕が歌う君の歌
プロローグ 三人の物語
幼馴染との恋愛というと聞こえがいいけど、一つ間違えると厄介なことになる。
歌音と出会ったのは幼稚園の真ん中の年。その頃だったと思う。
歌音はいつも歌っていた。
歌詞はなく、旋律だけの歌音の歌。
先生が絵本の読み聞かせをしてくれていても、歌いたくなったら歌う。絵本に合う明るい歌だったり、悲しい歌だったり。
突然歌い出しても誰も咎める事はしなかった。それほど歌音の歌は大人が聞いても心地良いものだったのだろう。
表情をころころ変えて歌う歌音に惹かれていた。。
幸い、歌音と接する機会はすぐにやってきた。
幸い……だったのだろうか。
「ヒギクくん、歌じょうず!」
歌音に初めて声をかけられたのはお遊戯の時間に歌っている時だった。
みんなが驚いていた。というのも、僕はとても小さな声で歌っていたからだ。
誰にも聞こえないように、でも先生に怒られないように。
歌音とは正反対の歌い方。
「えー、そんなことないよ!」
「ヒギクくんの声きこえなーい!」
「せんせー! ヒギクくんうたってないのにずるいー!」
子供って残酷だなと、今なら笑って思えるのだけど、当時はショックを受けていた。言われたセリフを覚えてしまうくらいに。
「そんな事ないよ! ね、ヒギクくん歌ってみてよ!」
歌音は譲らなかった。芯が強いのは幼い頃から変わっていない。
みんなの目が僕に集まるのを感じて、心臓が鷲掴みされたように苦しかった。
今思い出しても、まだ胸がキュッと締まる。
「え……う……」
元々恥ずかしがり屋の僕にとって、その視線は耐え難く。
走ってその場を逃げ出すくらいしか出来なかった。
逃げ出してしまった情けなさと、歌音に歌を褒められた喜びで頭がグルグルしていた。
「どうしたヒビク。またいじめられたのか?」
園内の端っこで背中を丸めていた僕に声をかけてくれたのは一つ年上の圭介だった。
そうだ、そういえば圭介はその時もちゃんと響と呼んでくれていた。
誰が最初にヒギクと呼んだのかは覚えていないけど、幼児にはそっちの方が発音しやすかったのだろう。僕の呼び名はいつの間にかヒギクになっていた。
「またって、ボクはいじめられた事なんてないよ」
「だったら、なんでいじめられたみたいにしているんだ?」
圭介が不思議そうに尋ねてきた。
「歌が……ほめられて、でも、歌えなかった」
「ん、そっか」
圭介は僕の隣にあぐらをかいて座って、乱暴気味に肩を組んできた。
「ほめられたなら、よかったな」
圭介はニカッと笑い、そう言った。
後ろ向きな僕にプラスな言葉だけを渡してくれる。
「――ヒギクくん! ごめん!」
僕を探して走り回ったのだろうか、息を切らした歌音が後ろに立っていた。
「ウタちゃん、ごめんね」
僕も自然と謝っていた。
「なんでヒギクくんがごめんなの?」
歌音は不思議そうにしていたけど、「褒めてくれたのに逃げ出して」なんて言えない。というか当時はなんで謝っているのか、自分でも分かっていなかったと思う。
「ヒビクの歌、うまかったのか?」
固まってしまった僕の代わりに、圭介が歌音に聞いた。
「そうなの! すごくじょうずなの!」
「そっか」
圭介は嬉しそうに笑っていた。
僕は真っ直ぐに褒めてくれる歌音の言葉に顔があつくなり、俯いてしまう。
「……よし、なかなおりだな!」
圭介が僕と歌音の背中をポンと叩いた。
頭の上にクエスチョンマークを浮かべる二人をよそに、圭介だけは満足そうに笑っていたのが印象に残っている。
それから僕達は三人で遊ぶことが多くなった。
いつも圭介が先頭に立って、なにやら面白いことを計画する。
僕は圭介についていく。
歌音は二人についてくる。
そんな関係は小学生になっても変わりなく、もはや当然のものになっていた。
小学校の高学年になっても、僕たちはいつも一緒だった。
圭介は六年になると身長が162センチになり、声変わりもしていて、なんだか大人みたいに感じていた。
歌音も身長が156センチになって、五年生にしてはかなり大きい方だった。顔の肉が落ちて丸さがなくなったのに、身体は曲線が多くなって、ドキリとする事が何度もあった。
歌音の事をウタちゃんと呼ばなくなったのは、いつだったか覚えてない。でもきっと、この頃だったと思う。
そして、肝心な僕はといえば、身長は151センチ。顔は幼いままで声変わりもまだだった。
一人だけ子供のまま取り残されているみたいで、焦っていた。
ある日、僕たちは夜の山に遊びに行く事になった。
珍しく歌音から僕と圭介に声をかけたのだった。
「山の小川に蛍がいるって。見てみたい!」と。
都市開発が進んでいたせいか、周りは山ばかりだというのに蛍を見ることはなくなっていた。
外で遊ぶのが好きな圭介の事だ、蛍がいなくなってしまっていた事には当然気付いていたのだろう。
失ったはずのものがまた見えるという事に興奮したのか、普段は知的な雰囲気さえ出し始めていた圭介が久々に目を輝かせていた。
圭介の反応を見て僕も賛成した。
「うん、じゃあ、決まり!」
歌音は満足そうに頷くと「集合は、みとこ山に夜八時ね」と集合場所と時間を告げて、ご機嫌な歌を歌いながら、家に帰って行った。
「……八時って、遅い時間だよね。親に怒られないかな?」
「それが良いんだろ。暗い方が蛍はきれいだ。ロマンチックじゃないか」
僕の心配なんか歯牙にもかけず、圭介はフフンと鼻を鳴らしていた。
ロマンチック。
その言葉が少し引っかかりながらも、確かに暗い方が綺麗だし、親に黙って夜遊びというのにも、そそられるものがあった。
「よし、決まりだな」
僕の心を読んだかの様に、圭介はニカッと笑う。
……この表情だけは変わらないなと思った。
「響、お前、きっと今日の事が忘れられなくなるぞ」
ぽそっと圭介が漏らしたように言った。その時の僕はまったく意味が分からなくて、そんなに蛍って綺麗だったっけ、なんて考えていた。
山のふもとには歌音が一番に到着していた。女の子が一人で危ないな、なんて感覚はまだなかった。歌音を見てドキドキする理由も分からない当時の僕が、そんな事に気が回るわけがない。
「遅いよ二人とも! 蛍が見たくないの!?」
腰に手を当てて怒っている様子の歌音だけど、声に怒気は感じなかった。そのくらいはすぐに分かった。
これから山に登るというのに歌音は白いワンピースを着ていた。黒髪と細い体躯に良く似合っていた。
「絶好の蛍日和になったな」
圭介も歌音の言葉に特に反応する事はなく、空を見上げていた。
僕と歌音もつられて空を見る。
「曇ってるけど……」
「その方が蛍が出るらしいぞ」
圭介がさり気なく知識を披露する。
「そう! 今日は絶好の蛍日和!」
蛍日和というフレーズが気に入ったのか歌音も復唱していた。歌音がこれだけテンションが上がっているのは珍しく感じた。
「蛍日和……」
なるほど、確かに口に出してみると何やら響きがいい感じがした。
「一応、懐中電灯は持ってきた」
圭介が肩から下げていたバックから懐中電灯を取り出す。
「それでは出発! かな、響?」
歌音が僕に問いかけてくる。
高学年になってからだったか、いつからだったか、歌音は何かを始める時には不思議と僕に合図をさせたがるのだった。僕にはその意図が分からなかった。
「うん、出発しよう」
僕はなんの芸もなくそう言うしかなく、圭介だったらもっと盛り上げる事が出来るんだろうなと考えていた。
山の入り口の横には用水路と山の小川の合流地点があったのだけど、水の質のせいか、そこに蛍はいなかった。
「山登りなんて久しぶりだな。前に登った時は親も一緒だったっけ」
圭介は先頭をズンズン進んでいく。
「ちょっと圭介! 落ちたらどうするの!」
足元を気にせずに歩く圭介に、最後尾の歌音が悲鳴交じりに言った。
山の道が舗装されているわけもなく、子供でも二列で歩けないほどに狭いけもの道を進んでいた。下を見ると確かに急な斜面になっていて、足を踏み外せば数十メートルは転げ落ちる事になる。子供の軽い体重、柔らかい体といっても軽傷では済まないだろう。
「大丈夫! 俺が落ちるわけない。でも響、お前は別だ。しっかり足元を見て歩くんだぞ」
「大丈夫だよ、私がちゃんと見てるから!」
いつの間にか僕を心配する話になっていた。
二人に心配される、まるで子供みたいに扱われる事が嫌だった。でも逆らったら、二人と一緒にいられなくなってしまうかもと考えると、素直に足元に注意して歩くしかなく、それがまた情けない。
しばらく歩くと川の上流に出た。
川の周りには腰かけられそうな石がいくつかあり、開けたスペースになっていた。
今までの狭いけもの道を考えるとその場所は何か、創られた様な神秘的とも言える雰囲気を持っていた。
川の流れは穏やかで、さらさらと水の音が聞こえる。
心地良い。
でも、肝心の蛍の姿はなかった。
「ここにもいないのか」
残念そうに圭介が呟いた。
腕時計をチラッと見る。八時半を回っていた。
「それなら、もっと上にいけば」
歌音が圭介に言った。
「……そうだな、俺が行って様子を見てくる。三人で行くより早いし、それで駄目なら諦めよう」
そう言い残して圭介はさらに上に登って行った。この場所より上は圭介も初めて行くようで、僕と歌音を連れて行くより一人の方が動きやすいと思ったのだろう。
僕と歌音は取り残された。
圭介は一人なのに、二人の方が残されたというのはおかしいのかもしれないけど、それほどに圭介との差を感じ始めていた。
横を見ると、歌音の表情が曇っていた。
そんなに、蛍が見たかったのだろうか。
それとも……そんなに圭介と離れるのが嫌なのだろうか。
考えて、胸が痛んだ。
「歌音、大丈夫だよ、きっと圭介ならもっといい場所を探してきてくれる」
思い出しても情けないセリフだ。
そんな励ましでも、歌音は笑顔を見せてくれた。
「そうだね、それなら私は……歌っていようかな」
変なセリフだ。歌音以外の人が言えば、状況にそぐわないセリフ。
歌音は大きな岩によいしょと登って、高くなった視線に微笑んだ。
両手を大きく開いて、背を反らせるようにして、数回深呼吸。
もう一度大きく息を吸い、一瞬の静寂。
――次の瞬間、歌音の世界が広がっていた。
優しい声色、深い緑色を感じるのは山にいるからなのか。歌音の表現力がそうさせるのか。
声量は物凄いのに、耳には触らない。
それどころか心が癒されていく。
不安に思っていたことが、些細なことに思えてくる。
歌詞も存在しない、旋律だけの音楽でここまで胸が打たれるのはなぜだろう。
きっと、感情をそのまま表しているからだ。
綺麗な感情も、汚い感情も、そのまま音にするだけでここまで人の心を打つんだ。
だから僕は、歌音の歌が好きだったんだ。
どのくらいの時間が経っただろうか。
しばらく歌音は歌っていたと思う。
終わりに向かって、気に入ったらしいフレーズが数回繰り返されて、静かにその歌が終わった。
それと同時に明るく照らされていた歌音の姿が暗くなる。
二人して空を見上げた。
月が、雲に覆われようとしていた。
「……月」
歌音が呟いた。
気付いていなかったけど、いつの間にか、歌音が月明かりに照らされるほどに晴れていたらしい。
そしてまた、曇ろうとしている。
完全に月が雲に隠れると辺りが真っ暗になった。
ある期待から、二人とも黙っていた。
三十秒もすると期待が形になった。
最初はポツポツと光が見え始め、次第に光の数が増えていく。
「わ、うわぁ」と歌音が声を漏らす。
その声に反応したかの様に、一気に光の数が増した。
気が付けば、一面に蛍の光が広がっていた
「すごい」
「ね、本当、すごい!」
二人して単純な感想だ。でも、僕たちの感情を表すのには一番の感想だった。
「ね、響。実は……さっきの歌には歌詞があるんだけど」
驚いた。いつも歌音の歌には歌詞はなかったから。その時の感情をそのまま表現するものだと思っていた。
「う、うん」
戸惑いながらも頷くと、歌音は僕の方を振り返って、岩の上からじっとみつめてきた。
「初めて歌詞をつけた……響の歌なの。聞いてくれる?」
僕は返事が出来ないでいた。
歌音の言っていることの真意が分からなかったからだ。
歌音の表情はもう見えない。
歌音の後ろには多くの光が舞っていて、彼女のシルエットがうっすらと浮かび上がっていた。
僕の返事を待たずに、歌音は再び深呼吸をして歌いだした。
「きみn――」
「上に蛍がいたぞ。って、こっちも凄いな。やっぱり明るかったから光ってなかっただけか」
歌音が歌いだした瞬間、圭介が帰ってきた。
圭介の声に驚いた歌音は歌うのを中断してしまう。
「け、圭介、お帰り」
僕もなんだか戸惑ってしまって、それしか言葉が出てこなかった。
歌音は岩から無言で降りて、圭介の事を睨んでいた。
圭介は気まずそうに頭を掻いていた。
「――って、そうだこんな事している場合じゃない。お前ら、すぐに降りるぞ」
圭介は焦っているようだった。
「え、せっかく蛍が出てきたのに」
僕はもう少しあの綺麗な景色が見ていたくって、悠長に不満なんかを漏らしていた。
「どうせ蛍はすぐにひっこむ。思ってたよりも雲が高くなってるんだ、強い雨が降るかもしれない」
父親から聞いた事があったのか、圭介は少し強い口調になった。
「雨――?」
歌音が手の平を上に向けながら空を見た。
ポツリと雨粒が落ちたのは僕の鼻先だった。
「本当に降ってきたみたい。傘なんて持ってきてないよ」
「俺だってそうだ。だから、早く下りないと」
田舎育ちの僕たちにとって、雨の降る山にいることが危ないというのは、共通の認識だった。体力は奪われるし、下りるのに時間がかかるようになる。水に体温を奪われたら風邪だって引いてしまうかもしれない。
「ちょ、ちょっと待って! 私……まだ――」
「歌音、今から歌ってたらみんなびしょ濡れだ。お前だってそれじゃよくないだろ?」
歌音が何かを言いかけて、圭介が制した。
歌音はまた圭介をみつめて、納得できない様子だったけど頷いた。
そのやり取りを見ていて、二人だけに通じている何かがあると分かってしまい、僕はわけもわからず苛立っていた。
「よし、急いで帰ろう」
圭介がそう言って先頭を行こうとする。
僕はその圭介の手から懐中電灯を奪って、先頭を走りだした。
「響!? おい、待て!」
なんでそんな事をしてしまったのかと今でも後悔している。
圭介はすぐに僕を追って駆け出した。歌音も圭介の後を追い、走っていた。
危ない――そんな事は分かっていた。
それでも足は止まらなかった。
けもの道に突き出してきている枝や葉が頬にかする。チクチクと痛い。
雨が葉を打つほどに強くなる。
それでも、走るのをやめなかった。
夜の山道を、か細い明りを頼りに走る。雨の中、急斜面の横を。
頭の中では色んなものが回っていた。
なんで僕は走っているんだろう
なんで僕は二人と違うんだろう
なんで――
次々と思考が浮かんでは消えて、答えは出ないまま、足だけが進んだ。
なんで――圭介はさっき帰って来たんだろう
「響! 止まって、危ない! 明りが――」
ひと際大きくなった歌音の声が、僕の耳に届いた。
手に持っていた懐中電灯がチカチカと点滅を繰り返していた。きっと数秒前からそうであったに違いないのに、僕は気付いていなかった。
そして足を止める前に、懐中電灯は完全に消えてしまった。
次の一歩をどこに踏み出せばいいのか、それすら分からなくなる。
そして案の定、僕は木の根っこに躓き、体勢を崩した。横に重心がずれて、そのまま斜面に倒れそうになる。
転げ落ちる、そう確信した。
しかし、背中が何かに引っ張られて、何とか転ばずにすんだ。
振り返ると、圭介が僕の洋服を掴んでいた。もう片方の手は木の枝を掴んでいた。
「――ったく! あぶねぇだろ! ……お?」
一度止まったはずの体が、また斜面の方に倒れていく。
「け、圭介?」
「わりぃ、響。雨で手が滑って……くそっ!」
圭介はもう落ちることは免れないと悟ったのか、僕を抱え込むようにして斜面に転げた。
圭介のおかげで勢いは殺されていたけど斜面の角度が急すぎた。
重力によって再び速度が増して、僕達は途中で止まることはなく、斜面を転がり落ちた。
上も下も分からなくなる程に転がっているのに、圭介が僕を掴む力は少しも弱まることはなかった。
「――ッ ――ビク、響!」
圭介の声が聞こえた。
瞼が重くて、意識があるのかないのか、夢なのかそうじゃないのかもおぼろげな感覚だった。
そんな中、腕だけがひどく痛かったのを覚えている。
左腕だ。力を入れて動かそうとすると悲鳴が出そうになるほどの痛みが走った。
「響! 目を開けろ!」
圭介の怒鳴ったような声に僕は目を開いた。
見えたのは僕を心配そうに覗き込む圭介の顔。
顔は泥だらけで、眉は歪み、涙が滲んでいるように見えた。
「けい、すけ。泣いてるの?」
「ば、ばかっ! 泣いてねぇよ!」
そう言って圭介は目じりをグイッと拭いた。そんな仕草をしなければ、雨のせいだで済んだのに。
「そうだ、歌音は? 歌音は大丈夫?」
「圭介ー!! 響は!?」
僕が聞くと斜面の上の方から歌音の声が聞こえた。
「あの通り無事だ。むしろお前の事を心配してこっちに降りてこないかの方が心配なくらいだよ。返事して安心させてやれ」
圭介が斜面の上の方を顎で指す。
「歌音ー! うぐっ――」
大きな声を出したら腕が痛んだ。
「響!! 大丈夫なの!? 大丈夫なのね!」
歌音の声が跳ねた。本当に心配してくれていたんだと分かった。
もっと返事をして安心させてあげたかったけど、腕の痛みから声を出せないでいた。
「腕、痛むのか?」
圭介はすぐに僕の様子に気が付いた。
「うん、すごく痛い」
強がっている余裕なんかないくらいに痛かった。一度痛みを認識してからは、ズクンズクンと鈍い痛みが続いていた。
「歌音!! 響が怪我をした。誰か大人を呼んできてくれ!」
「分かった!! すぐに呼んでくる!」
歌音の返事はすぐに返って来た。その声を聞いて、僕は不安になって声をあげようとしたんだけど、圭介が僕を制した。
「歌音! ゆっくりでいいんだ! お前まで落ちたらそれこそおしまいだ!」
「……分かった! 時間かかっちゃうかもだけど、待ってて!」
やっぱり圭介も同じことが不安だったらしい。圭介と同じことを考えられたことに少しだけ誇らしくなっていた。
「ありがとう、圭介」
「なにがだ?」
「助けてくれて」
「当たり前だろ……でも、なんで急に走り出した?」
圭介の声に怒りが混ざっていた。
なんで、と聞かれても自分でもうまく言葉にする事が出来ないでいた。それでも、圭介になにか言わなくてはと思った。
「圭介と歌音を見ていたら、なんか、焦っちゃって」
「焦ったって……お前、お前な……はぁ」
圭介はため息を漏らしてその場に仰向けに寝転がった。
「……歌音は――お前の歌が好きなんだってよ」
圭介がポツリといった。
聞き逃してしまいそうな小さな声だった。
聞いた瞬間、顔が熱くなって脈が跳ねたのを覚えている。
「歌が?」
「あぁ、そうだ。歌が、な。だからお前と一緒に歌いたかったんだってよ」
圭介が拗ねたように言う。
その様子をみていると、自然と僕の感情にも名前が付いた。
あぁそうだ。僕は多分、歌音に『恋』をしているんだ。
そして、圭介もまた同じ相手に恋をしている。
もやもやしていた感情がなくなって、すっきりした気分だった。
僕も圭介の横に寝転んだ。
「歌音は、どっちの事が好きなのかな?」
僕だ――と思える程、自信はなかった。
それでも、僕か圭介のどちらかだとは思った。
「お前の歌が好きだってことしか、俺は聞いていない」
圭介はぶっきらぼうに言った。
二人で空を見る。
雨はまだ降ったままで、綺麗な星空なんて見えなかった。
腕は痛いし、雨は冷たいし、おまけに泥まみれだ。
散々な状況だった。
そんな状況で恋の話をしているのがおかしくて、僕は笑ってしまった。
横を見ると、圭介もいつものニカッとした表情を浮かべて笑っていた。
普通に考えたら圭介は恋敵で、圭介から見た僕だってそのはずだ。
それなのに僕は、この先も三人でいるんだろうなと、根拠もないのになんとなく確信を持っていた。
どっちが歌音に選ばれても、ずっと仲の良い三人でいられると。
多分圭介も、似たような事を考えていたんじゃないかなと、今でも思う。
それからしばらくして、歌音と共に大人たちが来てくれて、僕達は無事救出された。
山のふもとまで下りると、圭介の父親の説教が待っていた。
曰く、大人に黙って夜の山に入るな。女の子を連れて行くならなおさらだ。田舎育ちの癖に山の天気も読めんのか――その他沢山。
長い話の途中で、歌音のお母さんが温かいスープを渡してくれた。冷え切った体にはありがたく、体の内側が暖まるのが分かった。
「お父さん、その辺で。みんな帰るに帰れないでしょ」
説教のきりが良いところで、圭介の母親が話をまとめてくれた。周りを見渡すと、二十人近く近所の見知った大人たちが集まっていた。
みんな口々に「無事でよかった」「久々にやんちゃな坊主がいたもんだ」などと言っていて、大人の大きさっていうのが分かった気がした。
最後に僕達三人の親が集まってくれた人たちにお礼と謝罪をして、その場は解散となった。
別れ際に圭介が「ごめんな」と言ったけど、親にせかされてその理由は聞けなかった。
そのまま僕は病院へ連れられて、腕が折れていたことが分かった。
二か月もすれば完治するらしかった。
それだけですんで良かったと、両親は言っていた。
そう、僕はそれだけですんだのに……。
――二日後、圭介は自宅で突然倒れ病院に運ばれた。
そのまま、圭介は二度と帰ってこなかった。
医者が言うには、頭を強く打ったことが原因だったらしい。
すぐに思い当った。
かばわれた僕の腕が折れるほどの衝撃だったのだ。
圭介が無傷でいる事の方がおかしいじゃないか。
すぐに気付いたけど、そんなのもう、遅すぎるにも程があった。
訳も分からないうちに、葬儀の日が来た。
もちろん僕と歌音も参加した。
歌音はずっと泣いていた。
圭介が入った棺にしがみつき、声が出なくなるまで泣いていた。
反対に、僕は涙が出ないでいた。
圭介が死んでしまった事は頭では分かっている。
でも、受け入れられてなかったんだと思う。
きっかけになったのは遺影だった。
遺影に写った圭介は、変わらないあの笑顔を浮かべていた。
見ていたら、色々な記憶が甦ってきた。
圭介はよく笑っていた。
嫌な事があっても。
嬉しいことがあっても。
悲しいことがあっても。
生まれ持ってのプラス思考で、笑顔でいた。
朝も夜も問わず、それこそ一年中。どの時間にも圭介との記憶があった。
……これからもずっと、あるものだと思っていた。
「圭介」
棺に向かって一度だけ、名前を呼んだ。
返事はなかった。
そしてやっと僕は分かったんだ。
もう二度と話せないし、もう二度と後ろについて歩けない。
気付いてやっと……涙が出た。
――あれから六年。
圭介が亡くなった時から、ずっと気になっている言葉がある。
蛍を見たあの日の別れ際、圭介が言った「ごめんな」という言葉。
後で聞こうと思って、先延ばしにしてしまった。なにか意味があった様に感じる、今の僕を救ってくれるかもしれない言葉。
その言葉の意味を、未だに僕は知らない。
今となっては、確認するすべもない。