最後の曲がり角
人は時として、自分の意識とは全く反対の事をする時がある。
それは無意識の中にある本当の気持ちであったり、抑圧されたストレスから抜け出したいと思う気持ちであったり……その時のサラリーマン氏も、そんな理由だったのかもしれない。
「は〜」
と、30代と思われるサラリーマン氏は、何とも無しにため息をついた。
サラリーマン氏の名前は北田と言う。
北田は都内の商社に勤める営業の係長で、仕事が出来ると評判の男だった。
何せ20代の半ばで係長に昇進し、その後も順調に成績を伸ばしては、社の業績をドンドンと上げてきたからだ。
誰もが、次の課長になるのは北田だと思うのが当然と言うくらい、北田は有望な存在であった……しかし現実には、北田は既に30代も後半になろうとしていたのだが、未だに課長の椅子には座れずにいた。
何か仕事で大きな失敗でもしたのだろうか?
いや違う。小さな失敗はあったとしても、彼の業績は課長の椅子に座るには十分過ぎる程の働きを見せ、営業部の中で彼に列ぶ者はいなかった。
ではどうして未だに昇進が出来なかったのだろうか?
話は簡単である―――そう、前が詰まっていたからだった。
北田の直属の上司である課長は、バリバリのやり手でも無ければ優秀な管理能力がある訳でもなかった。
しかし、北田が勤める商社は、現社長が一代で築き上げ、その周囲を親族で固めていると言う親族経営の見本の様な会社で、課長は遠縁とは言え社長の親類だったのだ。
そして不幸な事に、その課長の年齢は北田とほぼ同じ。
つまりは、何か突発的な事故や病気にでもならない限り、その席が空くことは望めないと言う状況だったのである。
「仕事も給料も良いが、先が見えない……」
北田がため息をついたのはその為だった。
北田は、勤め先から1時間30分の電車を乗り継ぎ、やっと購入した我が家のある駅を降り立つと、吹き付ける風の冷たさに顔をしかめた。
「寒いなチクショウ」
季節は晩秋を過ぎて初冬の時期になり、このところの寒さは本格的な冬の訪れを告げる様になって、夜になると一層寒さが増して身に堪えた。
この辺は未だ周囲に多くの自然が残っていて、都心の様にビル風はないものの、冷え込むのが激しい田舎街。電車から降りた北田が顔をしかめるのも当然だった。
どうしてこんな所に家を買っちまったんだろう―――北田はこの駅に降り立つと、いつも後悔の念にさいなまされる。
しかしどうしようもなかったのだ、アイツもあの頃は可愛かったんだ……北田は、今からは想像も出来ないほどに可愛かった、結婚当時の妻の姿を思い出していた。
結婚するときの条件として、妻の実家に近い所に家を建てると言う条件があった ―――だからこんな所に家を建てたのに……今では後悔の方が大きい。
それでも当初は、順次開発が進んで大型のショッピングモールなどもでき、バスなどの交通機関も良くなると言う触れ込みだったので安心していたのだ。
ところがである、開発していた企業が倒産してしまい、『順次』と言う言葉が形骸化すると、駅周辺はまだしも北田の家の周辺は未だに少し寂しさが残っている様な状態で、いつになっても開発される見通しがなかった。
北田がバスの時刻表を見るまでも無く―――とっくの昔に終バスは終わっているのだ―――タクシーにでも乗って帰ろうかと乗り場の方を見るが、そこには、同じ様な考えの人達で行列が出来ていた。
「これでは何分待つか解らないな」
北田はこの寒さの中でタクシーを待つよりは、歩いていた方が幾分かは良いだろうと思い、12分と言う道のりを歩いて帰る事にした。
「タクシー代も馬鹿にならないしな」
そうつぶやくと、もう一つため息をしてから歩き出すのだった。
「君をこのままにはしておかないよ」
30になった頃から言われていた言葉であったが、果たして40になるまでにその言葉が現実になるのか―――北田には解らなかった。
「ったく、いつまでこのままでいなくちゃならないんだ!」
と、愚痴って見たところで、この年になって自分が他の会社へ移る事も考えられず、給料は良いから―――と、随分昔から自分を納得させる事にしていた。
もっとも、最近は給料の方もあまり良くは無かったのだが……
そしてため息である。
「はあ……」
変わらぬ自分の役職の事を思うと、自然、ため息がでてしまうのである。
北田はふと顔をあげると、いつもと変わらぬ100mほど直線が続く道まで来ていた。
そう、いつもココでため息をつき、顔をあげると直線が見えるんだ……後はこのまま100mほど真っ直ぐすすみ、突き当たりを右に曲がって2分も歩けば自分の家に帰り着く。
北田はいつも、この道の手前でこの事を考えていた。
100mも続く直線が自分の昇進の道の様に思えていた頃は、この道のりも軽いものであったのだが、昇進が絶望的になると、見通しの良い道が何とも長く、そして昇進できない自分を皮肉っているかの様に感じられて嫌気がさす。
その日も北田は、見通しの良いその道を重い足取りで突き当たりまで歩いた。
「この道を右に……この道を右に……ね」
毎日の様にこの道を通っているのだから、何も考えなくとも右に曲がる事は分かっていたのだが、北田は無意識のうちに頭の中で繰り返しながら、T道路へとさしかかった。
しかしこの時、どうしたものか、北田は自分でも全く訳の分からない行動にでた。北田の足が自分の意識とは全く逆の、まるで自らの運命にささやかな抵抗を試みたいかのように『左の方向』へと向かって歩き出したのだった。
何をやっているんだ俺は?―――北田は自分の取った行動に自らが混乱していた。
自分の家に帰るには、反対側に曲がらなくてはならない―――そうだよ、なんで好きこのんで遠回りなんかしなきゃいけないんだ。それに俺はこっちの方向なんか来たこともないんだ。迷子にでもなったら笑い者になっちまう。
そう、北田は家を買ってからと言うもの、ゆっくりと自分の家の周囲などを歩いたことは無かったのである。
早出残業などは当たり前。
接待の付き合いで遅くなれば、ビジネスホテルに泊まることもしばしば。それにしたってホテルに泊まれればそれでも良いが、最近はそのホテル代も会社が負担してくれない事もあって、会社の仮眠室―――とは言ってもソファーがあるだけの所で眠る事も多くなってきた。
しかも、家にいれば女房からは「どこか遊びにでも行ったら?」などと言われる始末。
今日も家に帰ったところで晩飯が用意されている訳もなく、女房なんかは絶対に先に寝ているに違い無い―――北田はいつにも無く怒りがこみ上げてきた。
「何が経費削減だ! 俺は知ってるんだ、課長が家を買う時に社内の住宅融資限度額を大幅に超えて借り、それに金利だってほとんど払っていないって事ぐらい」
冬の寒さがそう思わせるのか、今日の北田の愚痴はいつもより尾を引いた。
「そうさ、あの課長さえいなければ、俺が課長になってるんだ。会社にだってその方が良いに決まってるじゃないか!たかが社長の親類ってだけで課長になりやがって……」
と、今までずっと思っていたことを、改めて口に出しては見たものの
「はぁ〜」
最後にはため息に変わるばかりである。
そう、やはりこの状況から抜け出せる可能性が、ほぼ無いことを知っているあきらめのため息だった。
「はぁ〜」
北田がもう一度ため息を付き、自分がだいぶ家とは反対の方向へと歩いてきてしまった事を思い出した。
どうして俺はこんな方へ歩いてきちまったんだろう……
「もどるか」
帰りの道のりを考えてさらに気が重くなったが、明日も早い。
せめて熱い風呂にでも入って体を休めたい―――北田はそう思うと、踵を返そうとした。
すると「お待ち」と、古い一軒家の中から低い声が聞こえてきた。
北田は驚いてその声の方へ目を向けると、そこには一軒の古ぼけた骨董屋らしい店が開いていた。
―――なんでこんな夜中に開いてるんだ?
北田は不思議とそんな事を思うよりも、何故か解らないがこの古ぼけた骨董屋に強烈に興味を惹かれていた。そう、熱い風呂の事なども忘れてしまうくらいに。
そして北田は、店の中へ入る事を選んでいたのであった。
北田が店内に入ると、古本屋の様なむっとした埃臭さを感じたが、直ぐに慣れると、カウンターの向こう側にいる一人の老婆に気が付いた。
「おばあさん、俺のこと呼んだかい?」
北田は恐る恐る声を掛けていた。
「ああ、呼んだよ。あんたがあんまりにも愚痴ばかりつぶやいてるんでね」
その老婆は北田の事を見つめると、さらに
「どうやら仕事に付いての悩みらしいけど、どうしたんだい」
と聞いてきた。
―――なんだこの婆さんは?
北田は一瞬この老婆の事をうさんくさい目で眺めた。
「お前さんがうさんくさく思うのはもっともだよ。だけど、それで昇進の事が解決する訳じゃ無いだろう」
北田の考えを読みとったかのように老婆は言う。
「ど、どうして俺が昇進の事で悩んでるって解ったんだい?」
「そんな事はどうでも良いよ。ただね、お前さんの悩みを解決出来るモノがここにはある。どうだね、話を聞いてみるかい」
北田はその老婆の言葉を信じてはいなかった。
結局、宗教か何かで高いモノでも買わされるんだろう。世間にはそんな商売をしているヤツがたくさん居るんだ―――北田はそう思い、黙ってこの店から出ようと考えた。
しかし、そんな考えの北田の口からは「そのモノって言うのは?」と、聞いていたのであった。
「ありがとよ」
北田は老婆の声を背に店を出ると、三枚のお札の様な紙切れを手にしていた。
「この紙に自分の周りから遠ざけて欲しい人間の名前を書くと、本当にその人間がお前さんの前から消えるんだよ」老婆はそう言いながら、鈍く笑った。
「これにお前さんの昇進に邪魔になっている人間の名前を書けば、お前さんの前から遠ざかり、昇進の可能性を手に入れる事が出きるんだよ」
そんな馬鹿な……北田はそう思いながらも、まるで催眠術にかかったかの様に老婆のこの言葉が頭から離れなかった。
でも、もし本当なら?
そうだよ、あの課長さえ俺の前から消えてくれたら、俺の昇進は間違いないんだ ……だけど、相手を呪い殺すとでも言うのか?
北田は別に信心深い訳ではなかったが、ふと心配になった。
すると、またもや北田の心を見透かしたように老婆は語る。
「別に相手が死ぬ訳じゃないさ。ただ、きっかけを与えるだけの話だよ」
「きっかけ?」
「そうさ、いつかはそうなるハズだった……そんな事を、少しだけ早くするだけさ。これは呪いとかって言うもんじゃないのさ」
「ほ、本当かい?」
「ああ、だけど、その人が自分から遠ざかったからって、昇進できるって保証はどこにもないがね」
「そ、それは大丈夫だ! 俺は部長になったって可笑しくないんだ!」
北田は思わず声が高くなった。
「じゃあ買ってみるかい」
老婆は北田の目を見つめながら聞いてきた。
まるで、今までの不満を全て見透かすような不思議な視線で、北田は目をそらせずに、ただただうなずくだっけだったのだ。
「ただいま……」
北田は鍵を開けると、つぶやくような小さい声で言った。
別に女房が起きている訳でもなし、大きな声で起こしでもしたら嫌な顔をするのに決まっている―――それでも北田がただいまと言うのは、自分の家に帰ってきたと言う実感を確かめる為に出しているだけだった。
そしていつもは、熱い風呂へ入るために背広を脱ぎ、浴室へと向かうハズだったのだが、今日の北田の行動は少し違うものになった。
北田は急いで自分の書斎―――田舎に家を購入したので、書斎だけはなんとしても造りたいと思った―――に入り、鍵をしめたのだ。
この前この書斎に入ったのはいつだったのか、北田自身にも解らない程に仕事の方が忙しかったのだが、以外と埃の無い椅子に座ると鞄の中から三枚の紙切れをとりだした。
馬鹿なものを買ってしまったものだ―――北田は書斎の椅子に腰を掛けると、少し冷静になったのか、手にした紙切れを身ながらつぶやいた。
普段の自分ならば絶対に購入しないであろう―――あの場では考えもしなかった思いがこみ上げてくる。
しかし、北田は分かっていた……そう、きっと自分がこの紙切れに、ある人物の名前を書き込む事を。
「俺はどうしても昇進したいんだ!!」
北田の胸に渦巻く思いは、今置かれている自分の環境が重く、そして大きくさせている。決して安くないこのお札を老婆から買ったのは、そんな決意のものだった。
北田は普段はあまり使わない高級な万年筆―――係長昇進の記念に購入したもの ―――を机の引き出しから取り出すと、インクの出を確かめてからペンを進めるのだった……
北田が通う会社へは地下鉄で行くのだが、駅からは5分ほどの所にある。
駅の地下道を抜け、地上へ出てからまっすぐ30Mほどすすみ、一つ目の角を曲がると右手に会社のビルが現れる。
北田はいつもの様にその道のりを進みながら、昨日の事を考えていた。
―――馬鹿なものを
結局、あの紙に課長の名前を書いては見たものの、時間が経つと馬鹿馬鹿しいという思いが強くなり、北田は本格的に後悔するようになっていた。
「あんなおとぎ話が実際にあるわけないじゃないか」
北田は会社に近づくにつれ、その足取りが重くなる。ふと見上げれば、いつもと変わらない会社のドアが待ちかまえていた。
「なんですって?」
北田は思わず声が大きくなっていた。
「本当なんですか部長?」
「ああ本当だ。何でも田舎に引っ込んだ両親の面倒を見るために、支社への転勤を望み、それが受理されたらしい」
北田は部長から聞かされた話に、狂喜したい気持ちを抑えるのに苦労しながら
「そうですか、ご両親の面倒を見なければならないのは大変でしょうね」
と、もっともらしい顔を作った。
―――なんて事だ!! 俺の、俺の昇進の道が開けたんだ!!!
外回りに出ると、北田はまるで足に羽が着いたかのような軽やかな気持ちだった。
そう、北田の上司であった課長が、実家に残してきた両親が年を取り、もうそろそろ面倒を見なければならないと言う理由から、実家の近くの支社へと転勤を希望して受理されたのだった。
そして―――
「翌日付けで、正式な辞令が出るだろう。君の実力なら当然だ」
ついぞ長く待ち望んだ言葉を聞き、北田は本当に狂喜乱舞しそうになった。
「やったぞ!! 俺はやっと昇進できるんだ!!」
何度この言葉を叫びそうになったか解らなかった。
いつものあの重い足取りが嘘のように、軽やかに家路に付くことも出来た。
「おい、やったぞ!」
……この日、自分の女房と久しぶりに顔を合わせた北田は、まるで係長に成り立ての頃のようにはしゃいで、妻から「大丈夫かしら、このひと」と思われたのは、本人には気が付くはずも無かった。
一ヶ月後―――
昇進が現実のモノとなり、北田の方も課長と言うポジションに慣れてきた。
「いや、実質的に、俺は課長と代わらなかったんだ」
実際今までにも、北田は前の無能だった課長の代わりを随分やってきていたので違和感無く仕事にとけ込めていた。
「本来、俺の能力なら部長の椅子を狙ったって可笑しくない!」
北田は課長になってからも順調に成績を伸ばしており、自分自身もその結果に満足が行くモノだった。
すると、もう一つ先のモノが欲しくなる。
そう、部長の椅子を狙いたくなっていたのだ。
もちろん、まだ年齢的には若いと思われるかも知れないが、北田の実力からしてみれば、部長と言うポストを狙うのに十分だったのだから当然と言えば当然の欲望である。
―――少し早いが、あの紙をもう一度使ってみようか?
一ヶ月前に課長になったばかりで直ぐに部長職に昇進できるか不安だったが、なまじ道が開けた事によって、どうしてももう一つ上のポジションが欲しくなる。
そうだよ、俺の実力ならば絶対に大丈夫に決まってる―――北田は飲みかけの珈琲を一気にあけると、既にその決意は固まっていた。
北田は期待と不安の相半ばする感情に支配されながら、いつもの角を曲がって会社へと急いでいた。
本当にあの部長が職を退くのだろうか?―――北田は、昨日あんなにも自信を持ってお札に部長の名前を書いたのだが、よくよく考えてみると、今回ばかりは無理な様な気がしてきた。
部長の家は会社から30分もしない所にあって両親とも同居だし、それに無能だった課長と違い、部長は仕事に関しては出来る方である。
もっとも、部長になるくらいだから、出来て当然ではあるのだが。
あれこれと考えているうちに、不安の方が勝ってきそうだったが、結論が出る前に会社へとたどり着き、その手で扉を……開けた。
「部長はまだ来て無いのかい?」
北田は部長がまだ出社していない事に気が付いた―――いつもならば必ず俺の前には出社していたのに……まさか、やはり!
北田がお札の効力だ!と思ったその時
「北田君、ちょっと来てくれないか」と、声がかかった。
北田が振り返ると、そこには
「しゃ、社長」
声の主は、社長だった。
「それでは使い込みがそんな額に?」
社の主立った重役が集まった席に北田も呼ばれて、そこで聞かされたのは衝撃的なものだった。
「うむ、調査しただけでもこれだけ出てきた。女を囲っていたらしくてな、実際にはもっと女の方に金が流れていると言うことだ……」
北田の上司だった部長は、会社の金を流用して愛人を囲い、その額は2000万を越えるモノになっていたのだが、それが昨日の夜に発覚したのだった。
結局、会社のイメージを保つために告訴までは行かなかったモノの、部長は解雇され、全額返済のローンを組む事で決着が付いたらしい。
「そうさ、いつかはそうなるハズだった……そんな事を、少しだけ早くするだけさ」―――北田の頭の中に、あの老婆の言葉が浮かんだ。
確かにそうだ、別に俺がどうこうする必要も無く、いつかはこうなるハズだった事が早まっただけなんだ……これで俺は部長になれるんだ!
「それでだ、営業部の部長の件だが……」
北田はココまで来ると、自分の昇進の事を信じて疑わなかった。社長のこの言葉をどれ程待ちわびたか解らなかった。
「北田君は課長になって間もない事もあり、今回は人事部の部長を営業部へ回し、人事課長を部長に昇進させようと思う。まあ、確かに人事から営業などと回る事は珍しいかも知れないが、課長の北田君は出来る人間だ。色々とフォローしてくれるだろう」
―――!!!
北田は耳を疑った。
何故だ!この俺以外のヤツがなんで部長の椅子に座るんだ!!
後頭部をハンマーで殴られたかの様な感覚に、一瞬目の前が暗くなる。
しかし、ココで取り乱しては次の機会が無いかも知れないと思うと、最後の希望だけを頼りに何とか最後まで理性を保つことが出来た。
「北田君、色々とフォローを頼むよ」
人事部長だった男が手を握り、にこやかに笑うのを見て―――そうだ、こいつも親類だったんだ……と、北田は気が付いた。
「なんだって言うんだ!!」―――帰り道、何度北田がこの言葉を吐いたか解らなかった。
なんで人事部から営業へと回ってくるんだ!また俺は新しい部長の尻拭いばかりやらされて、それで終わるのか!!
やりきれない思いばかりが、胸に、大きく広がっていた。
営業も人事部にしても、先がだいぶ詰まっている状態である事は知っていた。
人事部は社長の親族で固められた部署である。だから、人事部の部長を営業部へと転属させて、人事部の下の人間を一つずつ昇進させたかったのだろう。
北田の心の中は、またもややりきれない感情で支配されかけた……が、しかし
「あのお札で今度の部長を」
だが、また他の部署から新しい部長が来たら?―――もう、残りのお札は一枚しかない。今度失敗したら次は無いかも知れない……
北田はそう思うとどうしても踏み切れなかった。
「そうだ! あの老婆から、また新しいお札を買えば良いんだ。そうすれば、何度でも俺の昇進の邪魔者を排除する事が出来る」
北田が単純な解決策に気が付くと、あの直線の突き当たりを、今度は自分の意志で左へと曲がっていた。
「無いよ」
その言葉に北田は愕然とした。
「無いって……頼むよ婆さん。俺はどうしてもアレが必要なんだよ」
「無いモノは無いんだ、しょうがないだろう」
「だって、後一人だけじゃ確実じゃないんだ。俺の昇進に邪魔なヤツはもっともっと隠れているに違いないんだ!!」
北田は悲痛な面もちで老婆へと迫っていた。
「そうかい、それは大変だね……それなら良いことを教えてやるよ。本当ならこんな使い方はいけないんだけどねえ」
そう言うと老婆は、ジロリと北田の事を見つめながら話を続けた。
「お札には名前を書くのが本来の使い方だけど、それだけじゃなく、条件を指定する事でもその願いが叶うんだよ。例えば……お前さんが望んでいる様に『自分の昇進の邪魔になる者全て』と言う条件でもね……」
その言葉を聞いた北田は、一気に目の前の霧が晴れた気がして
「本当かい婆さん!」と、声を上げていた。
「ああ、本当だよ……ただ、『よく考えて』使うことだね」
喜びの表情を浮かべる北田を見て老婆はつぶやくように言うのだが、喜びの方が大きい今の北田には聞こえない。
「ありがとう婆さん」
喜々とした面もちで、北田は帰っていったのだった。
やったぞ!俺にはまだ運が残ってたんだ!!―――北田は興奮する気持ちを抑えようともせず、家に帰る途中、『俺の昇進に邪魔になる者』と言う言葉を繰り返す。
翌朝、いつもならば布団から起き出すのにだいぶ労力を要するのに、今日の北田に取っては待ち遠しいものとなっていた。
「俺の昇進が確実になるんだ!!」
結局お札に書いた文面は『俺の昇進に邪魔になる者全て』だった。
親族経営の会社では、どこから横やりを入れられるか判らないから、この様な文面になった。
いつ昇進できるのか?と言う、ヤキモキした思いで過ごすのも今日が最後だと思うと、北田の疲れはどこかに吹っ飛んでしまう。
そんな北田は、普段と変わらない時刻の電車だったが、家を出るのが早かったのかホームで少し待つと言う余裕も味わっていた。
「昇進するのがこんなにも俺の力になるのか!これからはもっと業績を上げてやるぞ!!」
昇進を信じて疑わない、いや確実のものと思っている北田は、いつもの道のりを軽やかな足取りで進んでいくのだった。
前述の通り、北田の会社は電車を降り、地下道を抜けて地上に出てから30mほど直進して、一つ目の角を右に曲がると右手に見えてくる。
つい最近まで、この角を曲がるのが億劫だった俺が嘘のようだ―――北田は重い足取りでこの道を歩いていた時を思い出してた。
親類だかなんだか知らないが、実力も無いヤツが上に居るなんておかしかったんだ。俺が部長の席に座るのだって、本来座るべき所に座るだけなんだよ……『当然だ』そうは思っていても、北田の顔からは笑顔が消えて無くなることは無かった。
「さて、この角を右に曲がったら直ぐだ。直ぐそこに俺の部長への道が待っているんだ……」
会社へ向かう最後の曲がり角が見えると、だんだんと興奮の度合いが増して足取りも速くなり、競うように角を曲がる。
「ん?」
すると何やら、会社の前で人だかりが出来ているのが目に入った。
「何をやっているんだ?」
北田は、今度は訳が分からずに足取りが速くなった。
「どうしたんだ?」
北田は自分の部下の顔を見つけて声を掛けた。
「あっ、北田課長!!」
心なしか表情が青ざめている。そんな表情に不安になった北田が
「一体何だ? どうして扉が開いてない?」と質問した。
そんな北田の質問が耳に入ってはいたのだろう、しかし、部下であるその男は自らもどうして良いか判らないと言った風に、ドアに張り付けてある一枚の紙切れを指さすのがだけが精一杯だった。
「あの紙がどうした?」
北田は部下が指さした一枚の紙を見るために、多くのうなだれている社員の中をかき分けていった。
そして会社のドアに貼ってある紙を見た。
当社は倒産しました。なおこの建物は債権者の断りも無く……
そう、北田の昇進の邪魔になる者「全て」とは、親族経営の多い会社のほとんどの重役の事をさす。しかも、他の社員にしても邪魔にならない可能性は0%とは言えない。
つまり、北田の邪魔者が全ていなくなるのは、会社が無くなるしか無かったのである。