はじまりは川にて
世界戦争。それは、セルマ・エクダルにとっては救いだった。
かの戦争がラクテア王国の地に残した傷跡は大きい。巻き込まれただけといえばそうだが、この国は戦場の一つであったし、南に隣接するビア王国も似たような惨状だった。
この戦争はほとんどの人にとって悲劇をもたらしたが、セルマにとっては命の恩人でもあった。
生まれつき魔力が多すぎたセルマは、よく魔術を使って暴走させていた。年齢を重ねてコントロールはできるようになったが、多すぎる魔力が彼女の体を蝕んでいたのだ。
そしてそれが限界に来ていた時、戦争は起こった。彼女の住んでいた街は国境沿いで、真っ先に戦場になったのだ。
おしよせる騎馬と、上から降る炎。それをたった一つの魔術構築で一掃したのがセルマだった。
そしてそれがたまたま、南に隣接するビア王国も救うことになり、それがきっかけで紛争の絶えなかったビアとラクテアは同盟を結び、世界戦争のみならず、まだ続いているギロアークからの侵略戦争においても共同戦線を張り、両国はかろうじてまだ王国の名を保っている。
そうしてセルマの名は二国の救世主として知れ渡ったのだ。
『炎の華』という異名をつけたのが誰かは知らない。セルマの得意とする魔術が炎だからなのか、返り血(実際はそんな近距離戦になったことはない)を浴びて染まった服が原因なのか、はたまた彼女の瞳が赤いからなのかはわからない。
華というのは美しいの意味ではなく、女という皮肉なのだとセルマは理解していた。
女にして軍の上層部に登りつめたセルマは、ビア王国からは素直に賞賛されたか、故国ラクテアの人間、とりわけ軍の人間には煙たがられていた。
「セルマ大佐」
「何?」
話しかけてきたのは、二つ年上の部下だった。この男は僻むことなくセルマを上司として認めてくれており、セルマはかなり心を許している。
「あちらの森で何かの気配が」
「奇襲?」
この場所はギロアークとの戦いの主戦場からすこし離れた場所にある森の中である。
セルマの部隊は休息のためにこの場所まで下がってきていた。
「分かりません」
「調べにいくわ」
「私も行きます」
みな武器は携帯しているが、食事も取り、寝ているものもいる状態で襲われるのは不味い。しかし、無為に兵をたたきおこせば、彼らによけいな疲れを与えることになるのだ。
二人は慎重に野営地から離れて森の中を歩いた。明かりを持っては狙われるため、暗がりの中を半分手探りであるかなければならない。
しかし目が奪われれば耳は鋭くなる。自分が踏んだ枝が折れる音にさえ驚きながら、ゆっくりと歩く。
人の気配はしない。たまに動物がいるのが分かるが、彼らはすぐに遠ざかって行く。
「気のせいね」
「あれは……? 光のようなものがチラつきませんでしたか?」
「え?」
言われてそちらを見るが、分からない。セルマは言われた方向に進んでいき、次の瞬間、体のバランスが崩れ、右足のふくらはぎまで水に浸かった。
「つめた……」
どうやら遠くに集中しすぎていて、目の前の大きな川を見落としていたようだ。
「あ。まったく、ドジよね、私」
見られていたことが恥ずかしく、そんな風に言い訳をしながら振り返った時だった。
両肩に何かが触れて、体が川のほうに倒れこんだ。
暗い中にかがやく瞳がこちらを見つめていた。
その一瞬は永遠のように長かった。
信頼していた部下は、口元に弧を描いて言ったのだ。「さようなら」と。
裏切られたその衝撃で、得意の魔術をねる時間もなかった。そもそもセルマは泳げないのだ。足の付かぬ川に投げこまれれば、流れに逆らって岸にたどり着くなど無理な芸当だ。
口から水が入ってきて苦しい。苦しいがために口を開けるが、それが仇になる。
軍服は重く、腰に下げている剣が無駄な渦を生み出している気がした。
精いっぱいもがいてみるが、顔を水面に出すのがどうにかできるくらいだ。
そうして次の瞬間、ふわりと体が浮いた。体は回転し、自分が滝から落ちたのだと理解した時には、セルマは気を失っていたのだった。
「いった……」
体が重く、手足が痛かった。目が覚めた瞬間は状況を把握できなかったが、どうやら流されて川岸に打ち上げられたのだと気付いた。
「どこ、ここ」
つぶやいてから、状況を整理しようと起き上がる。体中にできた傷と痣が、セルマが確かに川を流されてきたのだと実感させた。
顔にへばりつく黒髪には、木のクズや葉など様々なものが絡まっている。髪を結っていた紐は切れたらしい。肩より長い髪が体にべっとりとまとわりついている。
「国境から流されてきて……ん?」
あの森を流れていた川は、ラクテアからビアへ注ぐものだったはずだ。
「それは、不味い」
今でこそ共同戦線を張っているが、もともとは紛争の絶えなかった二国である。未だに人の出入りは厳しく統制されており、無断進入したことがバレれば大きな問題になるのは目に見えていた。
「隠れないと」
事の重大さに気付いて立ち上がったときだった。
「大丈夫ですか?」
「ひゃっ」
急に話しかけられて、思わず声を上げてしまう。
話しかけてきたのは、背の高い男だった。否、男の背が高いのではなく、おそらくセルマの背が低すぎるのだ。
顔立ちは優しげで、こういう時代でなければ女性に人気がありそうな男だ。
「大丈夫です」
そう反射的に答えてから、セルマはこのやりとりに違和感を感じた。それは男も同じだったようだ。何故かとても驚いたような顔になり、そして次の瞬間、緑色の目をキラキラと輝かせて言った。
「ベルシュ語を話せるのですね!」
「え、ええ」
男の話す言葉は、ビア語でもラクテア語でもなく、その二つの言語の元になったベルシュ語である。
本来は今では文語としてか残っていないこの古い言語を話せるのは非常にめずらしい。
見た所男は軍人ではないようなので、学者か何かだろう。必要に迫られた人間以外は、習得しようとも思わぬ言語だ。
「魔術師ですか?」
「ええ。まあ」
目の前の男はほぼ間違いなくビア人であるのに、何故かセルマはこの男を警戒できなかった。男もまったくセルマを警戒していないからだ。
男はしばしセルマの服を見つめると、全く表情を変えずに聞いてきた。
「見たところ、事故で流されてきてしまったのでしょうか?」
むしろ表情は好奇心いっぱいの、どこか嬉しそうなものにすらなった。
「いいえ。裏切られたんです。突き落とされたの」
言葉にすると、胸が痛んだ。信用していた人に裏切られた。セルマは突出した能力ゆえに、ずっと妬まれていたのだ。
あの男はそれを巧妙に隠していただけだった。
「裏切られた?」
「ええ。私のことはもういいんです。あなたは、研究者?」
自分の傷と向き合うにはまだ早すぎる。それに、不思議と目の前のビア人に興味を持ち始めている自分に気付いていた。
「あ、オルヴァー・アッペルグレーンと申します。ご推察の通り軍の研究所に所属しています」
「なるほど。兵器の開発をしてるんですね」
何気なく言った言葉だったが、それは言ってはいけない言葉だったようだ。オルヴァーの顔が分かりやすく歪んだ。
「ごめんなさい。軍の研究員も、色んな研究がありますよね」
慌ててそう訂正すると、オルヴァーは首を横に振った。
「間違ってはいません。このご時世では、何を研究しても軍用される。結果的に兵器を開発しているようなものです」
自嘲的に笑うと、彼はおもむろに自分の上着を脱いで、セルマの肩にかけた。
軍に入ってからは、こういった女性としての扱いを受けていなかったので、無性に恥ずかしくなって、お礼の言葉も出てこない。
「私の研究が成功すれば、それは兵器ともなり得ます。下手をすれば私は殺戮者になりえる」
「殺戮者……」
その言葉は耳が痛い。セルマは常に罪悪感と戦っていた。
魔力を抑え込むのはとても体に負担がかかる。しかしそれを解放して魔術を使えば、多くの命を奪う狂気になる。戦争はそれを正当化してくれたが、これが終わればセルマは他人を巻き込み殺戮者になるか、ひたすらに自分を滅し続けるかしかない。
「軍の方に言うには失言でしたね」
「そうね……私は殺戮者なんだわ。セルマ・エクダルといえばきっとご存知でしょう?」
どうにでもなれ、そんな気分で名を名乗ると、思った通り彼はとても驚いていた。しかしその驚きの中に嫌悪感はない。それがなんだか不思議で、セルマは語るまいと思った経緯を語り始めてしまった。
「軍の人間は、私が邪魔だったんです。世界戦争やギロアークとの戦争が苛烈だったときには重宝されましたけど、今はもうだいぶ落ち着いて来ています。私が必要ない程度には。そうなると女が上に立つのは目障りでしょう? 信頼していた部下は二つ年上で……きっと我慢ならなかったのでしょうね。でもまさか突き落とされるなんて」
淡々と語っていくと、自分の居場所だと思っていた場所が実は幻だったことに気が付いた。どれだけ努力しても、いつも孤独だった。
ありあまる魔力は人に害を及ぼすだけで何も救えはしないのだ。そう、自分すらも。
「……わかりました」
「何が、ですか?」
「あなたがベルシュ語を話せる理由です」
「……はい?」
論理の飛躍についていけず、セルマが目を瞬いていると、オルヴァーは笑ってタオルを差し出した。
「使ってください。上着の前に差し出すべきでしたが、気が利かなくてすみません」
「ありがとう、でも、その……」
「遠慮はいりませんよ。濡れても洗って乾かせばいい」
そういうと、彼はタオルをセルマの頭の上に置き、無造作にふきはじめた。
「じ、自分でやります」
「そうですか」
慌ててそういえば、その言葉を待っていたとばかりにばっと手を離す。
「私の話を聞いて、わかったことが、私がベルシュ語を話せる理由だというのは?」
「魔術師でも、ベルシュ語で会話が出来る人はまずいません。しかし、必要に迫られていれば可能性はあります。たとえば強大な魔力ゆえに、それを抑えることができる魔術構成にはどうしてもベルシュ語が必要になるでしょう。それも、音声として発話して効力を高めなければならないものが」
その考え方は、まさにセルマがオルヴァーに対して行ったものと同じだった。
そう、必要に迫られているのだ。
「ベルシュ語における既存魔術の多くは、現代人の魔力では起動できないものばかりです。しかし、あなたは違うんですね」
「ええ。むしろ私は既存魔術だけでは足らず、自分で構築もしました。複数の言語を混ぜると魔力消費量が多いことに気付いたときから、三言語混ぜるようにしています」
「三言語……? あなたはもしかして……」
「ビア語も話せる。これは実用特化だから、言い回しは偏るけれど」
「すごい! ビア人の中に混ざってもきっとばれないよ」
「ありがとう」
礼を言ってから、ふと、ビア語に切り替えた彼の口調も敬語でなくなったことに気付いた。ベルシュ語は敬語しか知らなかったからなのか、それともセルマに合わせたからなのか。
「ねえ、セルマ」
「何?」
ふいに名前を呼ばれて、不自然に鼓動が跳ねる。
「ラクテアに戻りたい?」
「それは……」
戻りたくはない。あの地に帰る場所はない。家族さえもこの大きな魔力を恐れ、腫物のように扱っていたのだから。
しかしながら、戻らなければ生きれないだろう、そう思った。
この魔力の消費どころを失えば、セルマは肉体を維持してはいけない。これはいつか壊れてしまう。それはひどく苦しいはずだ。
「もし、魔力の消費だけが、セルマの戦う理由なら……協力してくれないかな?」
「協力?」
「僕の研究は、魔力を結晶化することなんだ。その結晶を“魔石”と呼んでる。その生成に魔力が必要なんだ。できれば、大量に」
その提案は、セルマを驚愕させるに足るものだった。頭を覆っていたタオルがずり落ち顔をかくして初めて、自分が髪をふく手を止めていたことに気づく。
「それはつまり……」
「ここに残らない? セルマ・エクダルの名前はあまりにも有名だから、名前は変えないといけないかもしれないけれど」
伸ばされた手は、すぐ目の前にあった。その手を今すぐにでも取りたい気持ちに駆られたが、そうしては自分が傷つくとセルマは知っていた。
「どうして? 今あったばかりのラクテア人を信用する? 魔力が多い人は他にもいるでしょう? それに、私の魔力は誤れば研究所が吹き飛んでしまうようなものなのよ」
まくしたてるように言って、セルマは顔を伏せた。
諦めて立ち去ってほしいと思った。オルヴァーは気の良い青年だけれども、セルマの魔力を目の前で見れば、気が変わるに違いない。
期待してから裏切られるのは、もう嫌だった。肉体よりも先に精神が綻びるような真似を自らしたくはないのた。
「じゃあ。協力しなくていい。だから、一緒に来ないか?」
しかし、そんなセルマの期待を裏切って、オルヴァーは距離を詰めてきた。気がついたら抱きしめられていたのだ。
「セルマに興味がある。これを理由にしたらいけない?」
「興味が無くなったら捨てるんでしょう? そんな不毛なこと、嫌なの!」
おもわずラクテア語で叫んで、セルマは彼の腕を振りほどこうと足掻いた。しかし彼はまったく腕を緩めることなく、更に言葉を重ねた。
「捨てない。すてないよ。単語しか拾えなかったけど、たぶんそういうことだよね?」
「ええ! そう! 何を根拠に捨てないと言うの?」
今度こそビア語でそういえば、オルヴァーは優しく穏やかな声で言った。
「じゃあ、こうしよう。とりあえずセルマは着替えたほうがいいし、風呂で体を温めるべきだとも思う。とりあえず、僕の家に来ないかい? これからのことはその後でも遅くない。僕の家と言っても、口うるさい母と頑固な父がいるから、あまり気は休まらないかもしれないが」
オルヴァーはゆっくりと体を離してセルマの顔を覗き込んできた。
彼の穏やかな瞳に見つめられていると、この提案を断るのは申し訳ない、そんな気分になってきていた。
彼はあくまで一時的に間借りさせてくれると言っているだけだ。
それに、ラクテアに帰るにしても、ビア人の助けは必要不可欠である。
「……お願いします」
そう言って頷けば、オルヴァーはにっこりと笑って、ありがとう、そう言った。