【09.】風
まず目に入ったのは『風』の籠――とでも表現すればよいだろうか。
籠が目に見えるわけではないが、まるで手に取るように杏にはその形がわかった。
半円球型のソレ。
形作っているのは『風』の力――。
そしてその中にいる幾人もの人々。
そして――それを籠の外から眺める、一人の少年――。
「あんた…誰?」
まだ声変わりもしていない幼い声がぶっきらぼうに杏へと投げかけられる。
「誘拐した犯人はあんた?」
「ふふふ…だから?」
杏は少年の一挙手一投足に集中する。
何故なら、彼の周りを風が包み込んでいるから…。
年齢などたいした問題ではない。
少年が――≪理解者≫――であるという事実以外には…。
普通は難しいことでも、理解者であれば難なく遣り遂げるだろう。
特に年齢が幼いと、無邪気に、――そして残酷に…。
「…止めてもらいに来た」
「止められるもんなら止めてみなよ、ね~ちゃんっ!」
少年の身体がフワリと舞い上がる。
風の助けを借りて。
(ガキってコレだから嫌い。短気過ぎ)
予想していたことでは在るが、予想通りに事が運ぶことに杏は苛立ちを覚える。
ファラスとシンラはそれぞれ少年の死角に入る。
陽動は杏の役目であり、そして頭脳≪ブレイン≫となるのも杏だ。
(――風の弱点…)
「――杏っ!」
弱点を見極めようとした瞬間に、シンラの声を受けて反射的に身体を右へとずらす。
その瞬間、今まで立っていた床に鋭い刃で切り裂かれたような亀裂が走った。
「…≪かまいたち≫」
「ふふ、正解☆次は避けられるかな?」
少年は楽しそうに力を振るう。
まるで何かのゲームを楽しんでいるかのように…。
その姿は、覚醒させられた当時の自分を見ているかのようで、気付くと無意識のうちに言葉が付いて出ていた。
「お前…影か…?」
と。
その言葉を聞いた瞬間、少年の顔が複雑そうに一瞬歪められたのを、杏は見逃さなかった。
――≪影≫――
それは一般的に理解者の副作用的に出来た人格のことを指す。
副作用的に出来た人格とは、双方の中でより精神力の強い人格のこと。
――なんと理不尽である事か。
力を持っているが為に≪影≫と呼ばれる心理を、誰が理解することが出来るだろう?
≪影≫以外に――。
「…俺は――俺だ」
その目が向けられているのは杏ではなく、少年自身の影…。
それは、自分に言い聞かせるように呟いた言葉。
それは自分を保つ言葉。
それは自分を補う言葉。
そしてそれは『自分』を疑う言葉。
そして…自分を貶める言葉――。
由姫に救われなければ、自分は今もあのまま生きていただろう。
全ての物を憎んだまま、力の限りの破壊を――。
風が起こる。
少年の手刀を包むかのように。
その姿は不安定になった感情を、破壊することで沈めようとするかのよう。
凝固した風の威力は先ほどの比ではないだろう。
けれど、杏は今その事を考えてはいなかった。
多分、この少年がこうなった理由を。
この少年が行動を起こすことに至った発端が何処にあるかを理解したから。
責める気は…ない。
何故なら少年の気持ちがよくわかるから…。
けれど――止めなきゃいけない。
誰の為でもない。
彼自身の為に…。
そして、知っておきたい唯一の事――。
「――お前の…名は?」
宙に浮かぶ少年の目をしっかりと見つめる。
その瞬間、その言葉に動揺したらしく、少年の手刀に集まった風達が霧散する。
「――…な…ま……え…?」
「そう。お前の名だ。なんと言う?」
少年は杏の質問など予期していなかったかのように、視線をキョロキョロと彷徨わす。
言いたそうに顔を上げては、俯いて、また顔を上げてを繰り返す。
≪影≫には名前が付けられる。
しかし、その名を呼ぶのは≪表≫のみの場合が殆どだ。
普通は≪表≫の影としか呼ばれることはない。
だからこその戸惑い。
幾許の時が過ぎただろう。
自身の中の迷いと葛藤にケリを付けたらしく、少年はその顔をあげる。
その整った顔立ちの中で一際目を引く強い意志を込めた瞳。
それが真っ直ぐに杏を見る。
そして、一言。
「…風…司」
と呟くように言った。
彼の力なのか自然の現象なのか、シーンと静まり返った部屋の中で、聞き取ることは容易かった。
「風司――風を司る――か…。いい名だな」
「…うん」
少年――風司から狂気的な気配が消える。
同時に風の籠も消滅し、風司もゆっくりと地上へと降り立つ。
もとは大人しい性格なのだろう。
ファラルとシンラが人々の傍へと近寄っていく。
これでこの誘拐劇も終わりを迎えるだろう。
「…姉さんも…影なの?」
杏を見上げる幼い瞳。
悲しげな光があるのは自分と重ねているのだろうか…?
そんな瞳をするなと言いたくても…言えない。
それは言葉で伝えるものではないから。
「…姉さん?」
「…あぁ、そうだ」
そう、影…なんだ。
皆に名前を呼ばれるからあまりそう感じる機会はないけれど…。
けれど…そんなことは関係ないとも思う自分がいる。
だって自分は、こうやって考えることが出来るということですら、奇跡に近いことなのだから。
「――姉さんの名前は…?」
「杏」
それは私が付けた名前。
物心付いて一番最初に委ねられた決断。
「――杏…姉さんって呼んでもいい?」
拒絶を恐れているようなその瞳。
断る理由が何処にあるだろうか。
「構わない」
そう、微笑みかけ――それで終わるはずだった。
不意に現れた侵入者さえいなければ…。
「相変わらず凛々しいな、杏」
身体が反応する。
忘れるはずもない。
同じ声を聞いて…。