【08.】気配
廃ビルらしい廃ビル…と言うのは少しおかしいだろうか。
それほどに乗り込んだ廃ビルは廃ビル以上でも以下でもなかった。
一歩踏み出すたびに積もりに積もった埃が舞い上がる。
人が踏み行った後もなければ、誰かがいる気配もない。
「…間違ってはいないようだな」
シンラの呟きに杏は同意を示す。
――『何も感じない』――それこそが逆にこの場所が正解である事を示す。
何故なら何もいないはずがないからだ。
猫であれ、犬であれ、虫であれ。
これほど長く放置されたビルなら住み着いていて当然――。
それがないと言うことは――、彼らよりも強い何者かがここにいることを示す。
それも、気配を消すことの出来る何者かが…。
角を曲がり、階段を上がり、廊下を抜け、また角を曲がる。
一体何度同じ事を繰り返しただろう。
その緊張感とプレッシャーが3人(1人と2頭)の体力を削ぐ。
そして杏の額に玉の汗が出現した頃、杏が動く。
――…――
それは音にならない音。
それは仲間には伝わる音。
それは同じ能力者でない限りは決して聞くことの出来ない音。
――犬笛――
仲間の気配が動かなくなった事を確認して視界を閉ざす。
視力から取得するさまざまな情報をシャットダウンする為に。
より自分の感覚を感じ取れるようにする為に。
杏は視覚以外の五感を使い、辺りの状況を探る。
先ほど――何かが引っかかったのだ。
杏の鋭い感覚の中に少しだけだが混じりけのある気配が――。
感覚を広げてみても別段何か変わった気配はない。
聴覚に微かに届く風の音ぐらいしか…。
(――…風の音――?)
流してしまいそうになったその微かな疑問符はすぐさま確信へと変わる。
(ここはビルの中――風が発生するはずはない)
そしてすぐさま頭の中である仮説を立て――、その途端今までの事が一本の糸で結ばれる。
生まれ持った感覚を最大限に研ぎ澄ますと、位置の特定が出来る。
そこまでしてから杏はゆっくりと閉じた瞼を開く。
その瞳に映るのは強い意志。
それを感じ取ったかのように、ファラオが進行方向を変更する。
目指すは…上の階。
この廃ビルの最上階――。
足音を忍ばせながら階段を上がると、そこは元は社長室か何かだったのだろう。
今まではフロアにいくつもの部屋があったのだが、このフロアの部屋は目の前の扉一つだけ。
扉一枚を隔てた今なら、感覚を研ぎ澄ませることなくはっきりと感じ取れる。
沢山の――『風』――。
杏は頭と身体に合図を送るかのように、体内に残っている空気を吐き出し、そして新しく空気を吸い込むと、扉のドアノブを押し開けた――。