【10.遭遇】
牙を剥く――ファラス。
それを補佐する――シンラ。
けれど。
「――…」
背に走る予感――悪寒。
それが、杏に声を出させる。
「――待てっ!!」
――ピタリ――と2頭の気配が止まる。
それはまるで写真で切り取ったかのように、なんの呼び動作もブレもなく、時が止まったかのかと錯覚するほど急な停止だった。
身体を止めた彼らのその目は従順に従ったという目ではない。
特にファラスの目は杏を睨んでさえいる。
普段は使うことのない、杏と由姫の力――意思に関係なく身体を操る力――。
「――後ろへ」
彼らを自分の背後に下がらせ、現れた男と対峙する。
杏とてこの男を守る理由などない。
けれど、ファラスとシンラを守る理由はある。
――由姫の為に。
「――くっくっくっ…少しは利口になったんだな、杏」
男に向かっていった2頭を止めた事を指すのだろう。
何処が愉快なのかは全くわからないが、さぞかし愉快そうに男は笑う。
狂人。
その言葉がよく似合うだろう。
「お前に名前を呼ばれる筋合いなどない」
「関係ない。お前は杏であり――、由姫なのだから」
男はその鋭い目を細めて妖艶に笑う。
自分の思い通りにならないことなどないと確信しているかのように。
「ここ何年も探し回ったんだ。さぁ、行こうか」
黒いスーツを来て手を差し出す様は、まるでダンスに誘う紳士のようにも見える――しかし…。
杏は動かない。
いや、動けない。
杏は自分の力が、≪理解者≫という枠組みの中では決して強くないことを自覚しているから。
けれどだからこそ知りたい。
何十年も経った今、どうしてまたこの男がここにいるのか。
そして、何故何年も探し回る必要があったか。
「何故私を付け狙う?」
幸せな家族を壊し、日常を奪ってまで。
その目が抱くのは強い嫌悪。
それを知ってか知らずか。
「狙う?ははっ、そうか。うちの姫君は勘違いをしているのか」
ようやく合点が言ったというように何度も自身で頷くと『勘違い』と繰り返す。
何処かほっとしたかのような顔は愛嬌さえ漂う。
(あの人…姉さんと似てる…)
成り行きも人物もわからない風司だけが、2人のそれに気付く。
墨でも染み込ませたかのような漆黒の髪に、線の細いしなやかな身体。
目の色の違いだけが両者を隔ててはいるが…似ている。
血のつながりがあると言われても信じてしまうぐらいに…。
「――勘違いだと?」
「そうだ。俺は狙っているんじゃない。迎えに来たんだ、我が妹よ」
「――そんなはずはない」
杏は表情を崩さない。
それに引き換えファラスとシンラの表情は硬く、杏を見上げる目にも不信感が過ぎる。
「わかっているはずだ。黒のカラーコンタクトをしているんだろう?海のように深い碧眼を隠す為に」
「…」
誰もが否定するものだと思った。
けれど…杏は何を言うこともしなかった。
「おぃ、杏」
痺れを切らしたファラスが急かす――が、杏は男を見たまま一言も何も言わない。
「――まさか…杏…?」
シンラが杏の行動に不安を覚える。
杏はチラリと後ろを振り返り、ファラスとシンラを確認する。
その口が、「由姫、ごめん」という形に動いたことに何人が気付いただろうか。
杏はゆっくりと…それを――取り外した。
「――嘘…だろ…」
ファラスの声がやけに大きく杏の耳に届く。
そこには、碧眼の少女が――いた。