第四話
――月明かりに照らされた、薄暗い森の中。
足を引きずった子供のわたしが、木から木へ、体を支えて歩いていく……。まるで途中から再生したビデオの如く、突然はじまった映像に戸惑う。
これは、私の夢……? けど、なによ。えらく中途半端な場面から。
寝ているのに、夢の中で目が覚めてしまうのだから、考えてみれば厄介な話だ。
そこに文句を言ったところで、仕方ないけれど。毎回、強制的に見せられる方の立場にもなってほしい。呆れるほど、繰り返した夢なら尚更……。
身も蓋もない感想を抱きながら周囲に意識を向けると、何時もと同じ真っ暗な空間が、どこまでも広がっていた。見えるモノは、映像を映すスクリーンのみ。
宙に浮かび上がったそれを眺めながら、溜息をつく。何気なく伸ばした手が、頭から髪紐に触れて驚いた。今回も体の感覚が存在している。ということは……。
ちょっと私、また裸なの?
腕で体を隠し自分の状態を認識した途端、前と変わらない石のような床に足が着いた。ひんやりとした感触が伝わり、思わず身震いする。
画がメチャクチャになるとかはいいけど。本当に夢から醒めるまで、消えるのだけはやめてよ。いくら夢でも、あんな体験は二度と御免だわ。
以前、闇の中で起きた出来事を思い、祈りながら映像を見つめる。
暗転しなければ大丈夫なんて保障はないが、それでも信じるしかない。
改めて、映像のわたしの様子を確認すると、やはりひどい有様だ。
何度も転んだ跡があり、着ているシャツや、ズボンなどは泥まみれ。引きずる右の足首は、赤黒く腫れあがっていた。
見てるだけで、痛々しいっていうか。また、変化してる?
どう控え目に見ても、足の怪我はこれまでより重症になっていた。
その歩みがピタリと止まって、一体どうしたのかと思った時。子供のわたしの背中を通り越して見た先に、朽ち果てた黒い鳥居が佇んでいた。
――これは、なに?
「……これ、なあに?」
今まで見たことの無い夢の続きに、わたしと同じ台詞が頭へ浮かんだ。
異質な存在感を放つ、黒い木の鳥居。お寺の鳥居と似ていたが、柱の高さは半分ほど。普通の大人だと屈まなければ、くぐれない大きさだ。
そこへ吸い寄せられるように、わたしが歩いていく。
腫れた足を引きずりながら、微かに聞こえる苦痛の声は、痛みによるものだろう。それでも止まらず、ゆっくりと、一歩、また一歩と近づく。
――えと、待ってよ。そっちは……。
映像のわたしに呼びかける。
――待って。そっちは駄目っ。
理由なんてわからないまま大声で叫ぶ。
――嫌っ、行かないでっ!
声を枯らしつつ、映像が浮かぶ方向へ、駆け出そうと脚を上げた。だが、見えない何かに押さえつけられたよう、二、三歩進んだところで動けなくなる。
もがく私を置いて、わたしが鳥居の正面に立つ。その瞬間、柱と柱の間に虹色の輝きを見せる、薄い膜のようなモノが出現した。
なに、あれ? もう脚色ってレベルじゃ……。
こんな場所、私は知らない。子供のわたしも、事態の異常さに気づいたのか立ち竦む。掲げた手が恐々膜に触れると、水面の如く波紋が広がった。その後ろ姿、正確には後頭部へ目を凝らす。
か、髪が光ってる? いや、違う。光ってるのは、髪紐……?
赤毛に月の明かりが、反射しているのではない。髪を纏めた白い髪紐から、淡く揺らめくような赤い光が放たれていた。
次々と起こる不可思議な現象に困惑する。
その時、わたしが一歩足を踏み出し、よろめいた。
あっ、という声が響いて、支えもない体が膜の内へと倒れ込む。全身が虹色の輝きに包まれ、膜の面が波打った、直後。映像から、目の眩むような閃光が迸った……。
――全てが、真っ白だった。
辺り一面、何もない空間で、映像もどこかへ消えている。
目の前にかざした手を握り、感触を確かめた。体の感覚は、存在している。けれど足はどこにも着かず、水中を漂うように白い世界を呆然と眺めた。
「……あ。わた、し」
「あら、起きたようね。良かった……」
どこからか声が聞こえた。
「ふぇ……お姉ちゃん、だあれ?」
「わたし? わたしは――。あなたの名前は?」
「わたしは、ゆうな。赤野 夕那」
子供のわたしと、誰か女の子が喋っている。
言葉に雑音が重なって、名前が聞き取れなかった。
「夕那。あなた、……随分と、懐かしいものを持っているのね。こうしてまた、その元結を目にするなんて、思ってもみなかった」
「どう、したの? お姉ちゃん、泣いてる」
「本当だわ。ふふっ、涙なんて、とうの昔に涸れ果てたのに……」
響く声に耳を傾け、周囲の状態を探っていく。
ここは、まだ夢の中だ。それは間違いないけど……。途切れた会話を追って、余韻に耳を澄ませる。すると、今度は別の方向から、また声が響いた。
「さて、夕那。次は何をして遊びましょう?」
「ごめんなさい、――ちゃん。鐘が鳴ったから、今日はもう家に帰らなきゃ……」
「あら、もうそんな刻? はぁ、残念」
「えっ、えと。もう少しだけならっ」
「くふっ、冗談よ。わたしの所為で、あなたが叱られるのは嫌だもの。でも、明日は会えるのかしら?」
「うん。明日も、明後日も一緒に遊ぼう。そうだ、今度はお菓子とかも持ってくるね」
「……嬉しいけれど、無理はしないでね。わたしは、夕那が来てくれるだけで十分よ」
余韻を残して、再び会話が途切れる。
わたしと話している誰かは、きっと年上の友達だ。
しかし、過去の記憶に思い当たる人物はない。何もわからないもどかしさに、苛立ちを覚えはじめた時、遠くから、泣き声が聞こえてきた。
「うぅ、……やだよ。わたし、引越しなんてしたくない。――ちゃんと離れたくないっ」
「……聞き分けなさいな。あなたとわたしは、何時までも一緒にはいられないのよ。そうね、ちょうど好い機会かも知れない」
「――ちゃん?」
「夕那。そろそろ、わたし達、お別れをしましょう。あなたはこの鳴森で、わたしと出会わなかった」
「どうしてっ、そんな意地悪を言うの?」
「それが、あなたの為だから……」
わたしが女の子……少女の声を否定して、ついに大声で泣きじゃくる。
信じられなかった。
泣いているのは確かに自分だが、どれだけ考えても、全く心当たりがない。
いや、そもそもこれが、現実にあったことだとは……。
不意に襲ってきた違和感は、つい最近感じたもの。知っているのに覚えがない、忘れている話。鳴森で別れた友達?
泣かないで、と繰り返す少女の声に、わたしの嗚咽が重なって次第に遠退いていく。
「……何もかも、忘れる」
「それでも、わたしは……」
かろうじて聞こえた会話の残滓に、胸が締めつけられた、次の瞬間。
「――絶対に、ホタルちゃんを忘れないっ!」
ほた、る?
最後に聞こえた、わたしの悲痛な叫び。それが消えて見えていた白い空間に、一点の黒い染みが生じる。目を凝らした途端、点を中心に広がった暗闇が瞬く間に視界を覆った。
白かった世界に、黒が満ちる。
浮遊感が消失し、漂っていた体が下方に引かれて落ちた。
抵抗空しく、丸めた手足が硬い何かにぶつかり鈍痛に呻く。這いつくばったそこが床だと気づいて、周囲に目を向けたが、最早見えるものは一つもない。
静寂に包まれた、完全な暗闇の中。緊張で心臓が早鐘のように脈打つ。
突然、何かの鳴き声が響いた。甲高く、朗々としたそれは犬の遠吠えにそっくりで。余韻が消える間もなく、呼応するよう次々と声が上がる。
――獣っ、い、犬? どこに、痛ぅ!
またしても襲ってきた頭痛に、片膝立ちで体が硬直した。痛みは一瞬で引いたが、四方から響く遠吠えは鳴り止まない。
顔をしかめつつ何かの気配を感じて、意識を闇の中へ向ける。そこに輝く、一対の光るものがあった。反射する光源なんてないはず、と思った時。唸り声がして光が二、三度瞬いた。
あれは、目? う、そ。
暗闇に無数の光が浮かぶ。その全てが、何かの目だった。自分を取り囲み蠢くそれらが、少しずつ距離を狭めてきて……。恐怖で膝が小刻みに震える。
ゆ、夢だ。これは夢なんだから、大丈夫……。
そう言い聞かせるも湿った吐息が耳に触れ、結んだ髪の毛先を揺らす。
生理的な嫌悪が僅かに恐怖心を上回り、堪らず振り向こうとして、肩に衝撃が走った。
肌に押しつけられた鋭いモノが、皮膚を突き破り硬い何かとぶつかり合う。
激痛が焼けつくような熱さに変わり、生暖かい飛沫が頬へ飛んだ。視界が朱に染まって、急速に暗くなる。瞼が落ちる寸前、首をよじった肩口に琥珀色の光が見えた……。
――目を見開き、息苦しさに思い切り息を吸った。
続けて激しく咳き込み、はっと肩を手で押さえる。
薄いシャツ越しのそこに、異変がないことを確かめて、部屋の天井へ焦点が合った。
「あ、はは、はっ。なんて夢……」
かすれた笑い声が出て、今度は安堵に深く息を吐く。
涙を拭い、寝汗か冷や汗か、恐らく両方で額に張りついた前髪を払う。呻きながら体を起こすと、背中に鈍い痛みを感じた。自分の状態を確認して、何とも情けなくなる。
「ベッドから落ちた、ね。子供か私は。そうだ、子供……」
また、わたしの夢を見ていたんだ。かなりぶっ飛んだ展開で起きた瞬間は鮮明だったそれも、すでに断片的な部分しか思い返せない。それでも……。
「わたしは絶対に、ホタルちゃんを忘れない。ホタル?」
夢の中で聞こえた言葉を呟くと、覚束ない記憶に何かが浮かび、ぼやけて消えた。
駄目だ、わからない――。
しばらく放心した後、見上げた部屋の時計の針は、午前五時ちょうどを示していた。
月も九月になったばかり。今日から学校は二学期がはじまり、自分にとっては、転校初日となる。
その朝だってのに、早めに起きようとはしたけど、これはないわ。
眠気など、とっくに失せている。あったとしても二度寝する気にはなれなかった。
「はぁ……。軽くランニングでも、行ってくるかな」
ぽつりと呟いてから立ち上がり、枕元の髪紐を掴んだ。凝視したそれは何時もと変わらない。当然か。髪紐が光るなんてあるはずがない。
紐を手にしたまま、鳥の囀りが聞こえた窓へ近づきカーテンを開ける。
見つめた先には雲一つない、青い空が広がっていた。
谷本 夕那。
名前を黒板に書いてから、教壇の前で正面を向く。
教室内にいる、三十人前後の男女の視線が集まり、若干緊張した。
女子はブラウスに紺のスカート。男子はワイシャツにズボン。ありふれた夏服も、見知らぬ人達が着ていると、新鮮に感じるものだ。そんなことを思いながら、続けて簡単な自己紹介をはじめる。
この度他県から引越して来たが、子供の頃は、大神町に住んでいたこと。
趣味はスポーツ全般で、中学では陸上部に所属していたこと。
最後に、これからの抱負などを伝え一礼すると、拍手で迎えられた。
――市立大神高等学校……通称、神高。
小高い丘の上に建つ、創立百年を超えるという伝統校が、今日から私の学び舎だ。
その一年C組で転校の挨拶を済ませ、ようやく一息つく。
クラスメイトでは一名除いて、私を知っている人もいないようで……。所々から漏れ聞こえる囁きは、自分の外見に関することが、大半を占めていた。
自分で自分の容姿を評価しても、あまり意味がないと私は思う。
客観的事実だけ言えば、身長は平均より高い。体重は普通。胸もまあ普通。手足が長いとよく言われ、体型としては引き締まっている方だろう。
髪は肩の下辺りまで伸ばしたものを、首の後ろで一纏めにしている。白い髪紐が目立つ赤毛は、誓って生まれつきの地毛だ。
写真でしか知らないけど、美人だった母親似らしいから。将来的にどうなるかは、まだ未知数……。
そんな思いを巡らせつつ、先程から座席が決まるのを、ずっと待っている。
しかし、工藤という男性教師の話がくどい。自己紹介で、敢えて流した家庭の事情を仄めかせ、さも苦労してきたように、浪花節で補足されては気が引ける。
こんなタイミングで転校してきた時点で、何かあることくらい、誰でもわかるのに。担任だから、配慮していることはわかるが、少々行き過ぎの感がある。
他意は無いにしても……。いや、あったら困るのよ。かなり真面目に……。
『実は前にあたし、担任の工藤って先生から、転校してくるユーナと知り合いかって訊かれてるの』
「ええっ。その先生、なんでそんなこと知ってたの?」
『こっちが聞きたいってか訊いたのさ。でも、なんかはぐらかされてね。あたしも変だなーって思ったから、そん時は適当に保育園からの幼馴染で、引越してからもちょくちょく会ってる友達、くらいしか喋らなかったんだけど、後でぴんときたの』
「いや、色々バラしてるじゃない。……まあいいけど、ぴんときたって何が?」
『んーと、ユーナのおばさん。ああっ、谷本 咲さんって、小学校の先生だよね?』
「そう、だけど。なんでいきなり、咲姉さんが出てくるの?」
『工藤先生、どうも、その咲先生の熱心なファンみたいなんだ。先生同士の研修会で、知り合ったらしいんだけど。それ以降、機会がある度に食事とか誘ってるって噂が……』
「はい? 咲姉さんは、もう結婚してるわよ」
『だから、それでもせめて、お近づきになりたいって気持ちがあったとするじゃん。将を射んと欲すれば、なんたらって諺と同じで、まずユーナを懐柔してさ』
「つまり、C組になったら、それは偶然じゃなくて。工藤って先生が何かを仕組んだ結果だと、そう言いたいの? ……あんた、怪しいドラマの見すぎよ」
『じゃあ、なんであたしにユーナのこと訊いてきたの? 単なる噂だけなら、あたしも気にしないよ』
「それは……それこそ、偶然自分のクラスに入ることが決まって。事情を調べた結果、望のことがわかったから、話を訊いただけかも知れないじゃない。あんたのところ、一学年五クラスだから、確率的には全然低くないし。一応……だけど、その噂、誰でも知ってるようなものじゃないわよね?」
『当然、元新聞部である、あたしだからキャッチしていた極秘情報だけど。うーむ、そうか、考えすぎか。まあ、どっちにしろ同じクラスになれたら、あたしはそれでい……いやっ、ゴメン。今の無し。もしもしユーナ? 黙るのやめてっ』
昨日の夜……。どうしてもクラスの件が気になり、携帯で話した望との会話が、脳内に再生された。そして実際、登校してから集合場所に行って、担任だという先生が工藤と名乗った瞬間、何とも複雑な心境になっている。
見るからに体育会系な、スポーツ刈りの若い男性教師。がっしりしたと体格には、おろしたてっぽいスーツより、ジャージの方が似合いそうだった。
そのとてもいい笑顔で、気合いの入った握手を求められた相手から、教室の一席へ目を向けると……。自分と同じ制服姿の望が、開き直った表情で手を振っていた。
「いよーし。谷本の席は畑中の隣だ。お互い知り合いのようだが、他の皆とも仲良くしろよ。もちろん、先生も大歓迎だぞ! あー、ではホームルームを始める。犬飼!」
「はい、起立。気をつけ」
顔だけは澄まして指定された場所へ行き、かけ声に従ってから席につく。
「あははっ……。今後ともよろしくね、ユーナさん」
「――ええ。よろしく、望さん」
教室の後方。窓際にある席の隣で、眉を八の字にしながらピースサインを出した望に小声で呟き、ひとまず話を聞くことに集中する。
夏休み中に、問題の見られた生徒の行為。月半ばに文化祭が迫る、二学期の行事予定。その他、緊急の連絡事項などを告げて、この日は早々と放課後になった。
運命だなんだと息巻いた望が先生に呼ばれ、もう一人……号令をかけたらしい女生徒を交えて話をしている。釈然としないまま、それを遠目に溜息をつくと、数人の生徒に声をかけられた。
前の学校や部活のお誘いなどの話に、四苦八苦しながら答える。ただ、何故か皆、望から聞いたという枕詞をつけ、時に吃驚するようなことも知っていて――。
私、なんか成績良くてスポーツ万能の、優等生みたいに思われてる?
少し迂闊だった。
家の噂や学校の雰囲気ばかりでなく、自分をどんな人間だと伝えていたのか、望に確認すべきだったかも。今更、遅いかと思ったところへ問題の幼馴染が戻ってきた。
しかし、何か様子がおかしい。
「ゴメン、皆。ユーナさんに用がってあれ? なんかご機嫌斜め?」
伺うような相手に、なによ、と低い声で返す。
愛想笑いが固まり、振り向くと、後ろからきていた女生徒を呼んだ。
「り、涼子。こちらが友達の谷本 夕那。今なんか声怖かったけど、普段はとっても優しい、菩薩かってくらい広い心を持った子なの」
「……わかりました。すみません、谷本さん。少しいいですか?」
意識全てが望に促され、前に出た人物へ集中した。
一目で姿勢の良さがわかる凛とした立ち姿に、整った目鼻立ち。
肩口で切り揃えた青味を帯びた黒髪が、清楚な印象を強めている。背丈は私と同じくらいか、僅かに低い。すっきりとした目元には、小さな泣き黒子が一つ見えて……。
どこか張り詰めた糸を思わせる、女生徒の雰囲気に居住まいを正した。
「あの、谷本さん?」
「あっ、はい。大丈夫です。えと」
容姿に相応しい、よく通る声に、慌てて返事をする。
「……始めまして。私は、犬飼 涼子といいます。ここのクラス委員長を務めているので、困ったことがあれば、何でも相談して下さいね」
丁寧な挨拶に加えてこの後、校内の案内をしたいと言った犬飼さんが、控え目な微笑を浮かべた。
――望が言ってた同級生って、この子か。
聞いていた記憶の中の人物と、実物が一致して得心がいく。
急ぎこちらも挨拶をして、遠慮がちに言葉を続けた。
「でも案内なんて、お願いしたら悪い……」
「そんなことありません」
はっきりとした一言に、思わず驚く。
「ああ、いえ。先生からも頼まれましたし、気にしないで下さい」
僅かに躊躇うような態度を見せた犬飼さんへ、望が口を開く。
「や、やっぱあたしも一緒に行くよ。その方が、ユーナだって気兼ねしないと思うから」
「すみません、望さん。ここは、私一人に任せてもらえませんか?」
静かだが譲る気配の無い言葉。
ぎこちなくそれに頷いた望が、私を見た。
「じゃ、じゃあ、お願いするね。ユーナ、一通り回ったら必ず教室で待っててよ」
そう言われて自分も頷く。
ただ、視線は犬飼さん向けたまま……。不可解とまではいかないけれど、相手から感じる普通ではない様子に、内心首を傾げた瞬間。
「本当にすみません。恋人同士だという、お二人の邪魔をする気はないので……。今度是非、馴れ初めの話など――」
「ちょ、ストップ涼子っ!」
おもむろに口を開いた、犬飼さんと望の言葉で確かに一瞬、色々なものが停止した。
それは声をかけてきた周りの子だったり、私の思考だったり……。
犬飼さんは、空気の変化にも気づいていないのか。ただ慌てる望を見て、きょとんとしている。天然なのか? それより、だ。
さっきまでの質問といい、望。あんた、何を適当に言いふらしてくれてるの? 菩薩だろうが仏だろうが、仕舞いには怒るわよ。
「……犬飼さん、案内お願いします。さあ行きましょう、すぐ行きましょう」
素早く席を立ち、背中を押すようにして教室の出入り口に向かう。
一瞬振り向いた時、慌てて何か言おうとした望の姿が見えた。
しかし、代わりとばかりに人に囲まれ、小柄な体があっという間に見えなくなる。
この場を取り繕ってくれたら、全部許すわ。後は、もう知るもんか。
「んなっ、丸投げしないでよ。ユーナ、涼子ってばあっ!」
廊下まで響いた声に、心の中で合掌した。