第三話
「鳴森、なるもりぃ。車内にお忘れ物ないよう……」
軽妙なアナウンスが響くホームへ降り立ち、感じた熱気に顔をしかめる。
「あつーって、もしや降りたのあたし達だけ? なんか寂しいね」
電車の走り去った線路を眺めて、望がぽつりと呟く。
ひっそりと静まり返った駅舎に、近くを流れる川のせせらぎが聞こえていた。
建物を見回して吐息が漏れる。鳴森駅に来たのは小学生の頃、電車を乗り継ぎ一人で帰省して以来か。
どうかした、と望に訊かれて、懐かしいのだと説明する。
「あたしも実は、ここで降りるの久し振りなんだ。学校行く時は毎回通過しちゃうし。お寺とかに用があれば大体、家の車で行くから」
「そっか。望は学校まで電車、痛っ」
急に頭痛がして、頭の奥が、じんと痺れた。
「ユ――だ――」
咄嗟に頭を押さえて呻く。焦ったような望の声が不自然に途切れた。
なに、何て言って……。
口パクで喋る相手を見た途端、耳に音が反響する。
「ユーナ!」
「――ッ、大丈夫だか、ら。少し静かにしてて、お願い」
困惑した表情で固まった望に謝る。
深く息を吐くと、頭痛はやがて引き、耳も普通に聞こえはじめた。
「……はぁー、吃驚した」
「吃驚したのはこっちだよ。平気なの?」
「うん。もう、大丈夫。ちょっと頭痛がしただけ」
どうにか笑って答える。
「電車と外の温度差にやられた? あたしも、たまに立ち眩みとかなったりするよ」
それ程、繊細な体では……と思ったけれど、原因はそれくらいしか思いつかない。
若干気にはなったが心配ないと言い、改札を出てバス停を探す。……と、すぐ近くに商店街のアーケードが見えた。
レトロな風情を漂わせるそこは所々、記憶の光景と一致する部分もある。しかし、入口のお店からして、すでにシャッターを下ろしていて、通りにいる人影もまばらだ。
「あんたの台詞じゃないけど、なんか寂しいね。前からこんな感じだった?」
「まあ、この辺は鳴森と、お寺しかないから。住んでるのも、お年寄りが多いし」
他愛無い会話を交えつつ、着いたバス停にも人影はなかった。
がらんとした待合室は、気温とは関係なく、何か寒々しいものを感じる。
「縁宗寺の方だから、次は、んー……四時半か」
時刻表と携帯を見ていた望の声に、自分も腕時計を確認する。現在、四時十八分。
「あたし、さっきの商店街で、お花とか線香買ってくるね」
「私も行く」
反射的に言葉が出て、望が首を傾げた。
「いいって、ユーナは休んでなよ。すぐ戻るからー」
言うが早いか、止める間もなく駆け出して行ってしまう。
気遣ってくれている以上、追うのも躊躇われ、所在無げに周りを見渡すが、何もない。ベンチには西日が直接当たっていて、あまり座る気にもなれず。軽く息を吐き、駅の反対側へ足を向けた。
水の音が徐々に大きくなり、道の先に、踏み切りと長い鉄橋が見えてきた。
途中、小さな子犬連れのお婆さんとすれ違い、お互い自然に挨拶を交わす。見ず知らずの人でも、一声かけ合うだけで、不思議と親しみを感じるものだ。
目の前に広がった川を挟む土手に、桜の木が並ぶ。
その近くに霧重川と書かれた看板が立ち、風に揺れる深緑の葉が影を落としていた。
これは春になったら、かなり見応えありそうな……いや、見たことなかったっけ。
踏切の前で、頭を悩ませていると、設置された警報機が鳴りだした。
明滅する赤い灯火。続けて下がる、遮断機の動きを追っていた視界の隅に、奇妙なものが映った。
――あれは、犬?
遮断機が下りた、反対側の車道。その真ん中に、一匹の白い犬が座り込んでいた。かなり大型で所謂、待ての姿勢からじっとして動かない。
何であんなところに? 電車が来たら危ないな。
車は止まるとして、それに驚いて線路に入ったりしたら、大変なことになる。
飼い主の姿を探したが、見当たらない。首輪もなさそうで野良犬かも知れない。
自分の横で、一台の車が停まった。けれど、中の運転手に気づいた様子はない。もう一度、犬を見ると不意に目が合った気がした。
変わらずその場で、何かを……。
――っ、私を見てる?
そう思った瞬間、甲高い警笛が響いた。
列車の音と振動が迫ってくる。
騒音に動じることもなく、犬の目……琥珀色の瞳が瞬き、口から鋭い歯が覗く。
(近づくな)
「……え」
眼前を車両が通過した。
時間にすれば、僅かに数秒の出来事。
警報が鳴り止んだ踏切で、ゆっくりと遮断機が上がって、目を見開いた。
嘘でしょ……。
反対側の車道から、幻のように、犬の姿が忽然と消えていた。
電車が通ってる間に移動したの? でも、それでどこへ。
陰になる車や人などはいない。犬どころか、猫が隠れられそうな場所もなく……。さらに目を凝らした時、後ろからクラクションが聞こえた。
見ると停止していた車の運転手が、手を横に振り、除けるようなジェスチャーをする。車道に入っていることに気づき、慌てて後ろへ下がった。
――小さくなる車を見つめて、軽く自分の頬を両手で打つ。
まさか、今のが白昼夢? しっかりして、私。変な頭痛といい、どうしたのよ。
寝不足で疲れているならともかく、最近は普通に眠れている。トラウマの夢だって見ていないのに、気合いが足りないのか……。
そんなことを思い、深呼吸してから、一度解いた髪紐をきつく結び直す。
バス停に取って返すと、望の呼ぶ声が聞こえて、何故か無性に安堵を覚えたが……。
さっきの体験を話そうか、一瞬でもそう思った自分に呆れる。犬の幻を見て、しかも声が聞こえたなんて、笑い話にもならないだろう。
駅からバスに揺られること、約二十分――。
古い民家の脇にある、小さな停留所で降車する。もう遠目にも、お寺の建物は見えていて、数分も歩かないうち、縁宗寺と記された山門に到着した。
本堂まで続く緩やかな坂道を、花束を片手に登っていく。
道幅が狭いので、車が来ていないか確認した時、前を行く望が半身で振り返った。
「今のお寺の住職さん。ユーナのおじいちゃんの、お弟子さんなんだよね?」
「そうよ、戒道さんっていう人」
続けてどんな人なの? と問われて、答えに迷う。
名前以上のことを、どこまで喋っていいものか。
祖父は長い間、お寺の後継者のことで悩んでいた。縁宗寺は代々、世襲制で住職を継いできたが、祖父の子供は母と叔母さんのみで、継いでくれる男の人がいなかった。
母達の結婚相手である、父か叔父さんに頼もうとした話もあったけれど、これもまとまらず。その後、結局お弟子さんを取ることになり、三年程前、お寺にやってきた人が戒道さんだった。
赤野家にとって戒道さんは、縁宗寺をしっかり継いでくれた恩人だ。あの人がいなければ、お祖父ちゃんが亡くなった時、お寺もどうなっていたかわからない。
「……どんなって言われても、物静かで優しい性格のお兄さん、かな」
感じている印象を素直に言うと、望が前へ向き直った。
「ふーん。この前うちの法事でお世話になったんだけど、何だか婆っちゃが褒めてたよ。まだ若いのに、しっかりしたお坊さんだって」
何か含みのある言葉に、そうなんだ、と短く返して複雑な感情を抱く。
望の家は檀家さんだから、色々事情にも詳しいのだろう。何か訊きたいことがあるのかも知れない。けれど今、戒道さんのことはあまり話したくなかった。
さらに突っ込んだ質問がこないよう祈っていると、急に立ち止まった望が、どこか前方を指差す。
「あれさー、前から不思議だったんだ。ここお寺なのに、何で鳥居があるの?」
意外な質問に、指の先。石段の上に立つ、色褪せた黒い木の鳥居を見つめた。
「ああ、縁宗寺は昔、修験系のお寺だったからよ」
答えに、望が首を傾げる。
「……えと、神社とお寺って、今はどちらも別のものになってるけど、昔は割と区別が曖昧でね。神社の境内に神宮寺っていうお寺が建ってたり、逆にお寺の中に、鎮守神っていう神様を祀ったりすることが普通にされてたの。だから、お寺に鳥居があるのも、珍しくなかったのよ」
所謂、神仏習合という考え方だ。修験道はそこに山への信仰を取り入れた宗教で、縁宗寺もかつては修験者と呼ばれる人達で、賑わっていたらしいと伝える。
「過去形ってことは、今は違うの?」
頷いて明治時代に、と言いかけた瞬間、望が閃いたように手を打った。
「あっ、前になんか習った。新聞分別がどうとかだ」
「神仏分離ね」
頭をかいた相手へ話を続ける。
長年続いた、神仏の区別なき曖昧な時代に、終わりを告げる政策。この通達をきっかけに、各地で廃仏運動が発生し、修験関連の寺院も、大きな影響を受けたという。
「――その時、ここも一度は廃寺になったらしいわ。当時の被害が、どれくらいだったかは知らないけど、今の寺院として復興するまで、結構時間がかかったそうよ」
同じような経緯で、鳥居があるお寺は、現在も全国に多数あると付け加えた。
「ほー。じゃ、あの鳥居はお寺の歴史を見てきた、いわば生き証人って訳か。でもユーナ、昔のことよく知ってるね」
「ほとんど、お祖父ちゃんから聞いた話だから、大したことじゃないわ」
そう言うと、また何か思い出したのか、望が目を輝かせた。
「修験道ってあれだ、山伏! 山で修行した人が、悪霊と闘ったりしてたんだよね?」
かなり間違っている気もしたが、取り敢えず曖昧に頷く。
「う、うん、信仰する山。ここだと、八城岳が、確かそう」
「八城岳! やっぱり、あそこ凄いんだ……」
感嘆のような声を上げた望に、何が凄いのか訊くと、最近パワースポットとしてテレビなどで紹介され、俄かに注目が集まっているらしい、との答えがあった。
「前から穴場的な観光地で、密かに人気はあったんだけど、あれから一気にきたね。大神神社なんか、お客さんの数、右肩上がりだって聞くし」
「大神神社って、八城岳の山奥にある神社でしょ? 私は行ったことないけど、道が結構大変なんじゃなかった?」
覚えのある記憶の場所を尋ねると、横に並んだ望が、遠くを見るような目をした。
「うん。昔は山道をへとへとになって登らなきゃ、着かないような場所だったの。それが今じゃ目の前まで車で行けて、駐車場完備だもん。あの様子だと初詣の時なんか、えらいことになりそう……」
(かつての霊山も、今やただの観光地だ。これも時代の流れかな)
お寺の歴史を話してくれた時、祖父の口にした言葉が、ふと頭に浮かんだ。近頃、観光客が増えていると言った、叔父さんの話もそこへ重なり、何となく押し黙る。
やがて高台の上に、赤野家の墓石が見えてきた。
鼻を線香の匂いが掠め、閉じていた目を開ける。
――皆、またきます。そう心の中で告げて、合わせた掌を下げた。
置いた水桶を持って、残った中身を辺りの草木に撒いていく。
お盆の時に掃除をしたばかりで、墓地の一画には、雑草一つ生えていない。夕焼けを照り返す、水に濡れた墓石の輝きに、少しだけ瞳を細めた。
誰かが鳴らした、鐘の音が響く。
三つ、四つ、五つ。遠く、高く、山々の向こうまで……。
余韻が消えた空に、セミ達の鳴き声が勢いを盛り返すと、随分長く手を合わせていた望が、立ち上がって私を見た。
「ユーナはさ、強いよね。あたし、もし自分が同じ立場だったらって考えたら、怖くなった。あたしの家、まだみんな元気で、婆っちゃなんか死にそうにない。けど、それはとっても幸せなことで。あれ? あたし……なに言ってんだろ。ゴメン、ゴメン……」
涙を浮かべて、それでも笑顔を見せようとする。
「無理しないでよ。それに私は……」
私は、強くなんてない。
咽喉まで出かけた言葉をのみ込んで、望の頭をそっと撫でた。
前に叔母さんがしてくれたように。優しく、何度も、何度も……。
「ありがとう。私には、こんなにいい友達がいるんだって。皆もきっと、本当に……安心してる。望がいてくれて、よかったよ」
顔を上げた望、その頬を涙が流れた。
小さく名前を呼ばれた声が、たちまち嗚咽に変わる。
その肩を抱いて、震えが治まるのを、静かに待ち続けた。
本堂の傍、日陰の石段に座り、顔を洗いに行った望を待つ。
勢いとはいえ、さっきは我ながら、恥ずかしい台詞を言ったかな。
少し熱くなった頬を手で扇ぐ。
微風に視線を上げると、大きな杉の木が、高台からこちらを見下ろしていた。
――鳴森の入口。
これまで気にしていなかった、自然と避けていた場所。
それを意識した途端、妙に落ち着かない気分になった。息をついて目を閉じると、一瞬、瞼の裏に踏切で見た、白い犬の姿が浮かぶ。
何よ……。あれこそ、気の所為に決まってる。
頭を振って、取り出した携帯へ視線を向けた時。本堂から慌てたような声が聞こえた。
何事かと立ち上がり、曇りガラスの引き戸を開けて、そっと中を覗き込む。すると、正面に見えた御本尊の横で、座布団を両手に抱えた剃髪の男性と目が合い、体が硬直した。
「これは、夕那さん。来ていたんですか?」
「……ど、どうも。お久し振りです、戒道さん」
答えつつ、勝手知ったる場所とはいえ、不用意だった行動を悔やむ。
さっきの鐘、鳴らしていたの、戒道さんしかいないじゃない。
そんなことに今更気づいても、時既に遅し。
「ああ、すみません。これを片づけたら、すぐにっ」
「いえっ、お構いなくって、私も手伝います」
靴を脱いで畳の床に上がると、物置の襖が開いていて、その周りに座布団が散乱していた。
今までもよく見た光景……何があったかは、一目でわかる。
「すし詰め状態になってましたか?」
「ええ。開けた途端、雪崩のように崩れてしまって」
拾い集めて渡した座布団を、戒道さんが整理しながら、一つずつ物置に入れていく。
間違いなく、以前片づけた際、誰かが無理やり押し込んでしまったのだろう。入れようと思えば、一カ所だけでも収まるが、そのまま閉めて、えらいことなった結果がこれだ。
戒道さん、こういうのまで、自分で片さなきゃいけないんだ。
境内の掃除から、雑用をあげればキリがない。私や父も帰省する度、手伝いをしてきたので、その苦労もよくわかる。畳を踏み締めながら、しばし黙々と手を動かした。
整理された物置の襖を閉めて、改めてお礼を言われる。
作務衣を着こなし、にこやかな笑顔を浮かべた戒道さん。
年齢は叔父さんより、四つか五つ下だと聞いているので、三十代前半のはず。長身で痩せている印象は、初めて会った時から変わっていない。
「お元気そうで何よりです。本日は……お墓参りに?」
「はい。来週から学校もはじまって、忙しくなりそうなので。その前に友達と。今は用があって、いないんですが……」
向き合って笑おうとしたが、上手くいかない。
――こんなの、本当に失礼だ。
祖父の事故が起きて、戒道さんが喜んでいる……。
父の新盆で、祖父の一周忌でもあった法事の席で偶然、耳にした噂。
手伝いをしていて、ゴミ捨てに行ったお寺の裏で、名前と顔も一致しない遠い親戚の人達が、小声で言い合っていた。
弟子になって、三年足らずで住職になれたから……。父の事故さえ、口出しされる関係者がいなくなったと言った際には耳を疑った。
祖父にとって、戒道さんは待ち望んでいたお弟子さんで、父とも仲が良かった。何も知らないのに、もっともらしい馬鹿げた話を勝手に作るなんて。許せなかったが、あんな人達を怒ること自体、間違っている気がして、唇を噛んだことを思い出した。
「――そうですか、とても良いことだと思います。大神町の生活には慣れましたか?」
「……はい、おかげ様で。といっても、まだまだわからない場所だらけです」
気にするなと思う程、噂の声が頭に蘇って顔が引きつりそうになる。それを誤魔化すように笑うと、戒道さんが厳かに眼を閉じた。
「焦らずとも、いずれ慣れますよ。昔住んでいた土地、それも生まれ故郷ともなれば、頭では忘れていても、心が覚えているものです」
「心が覚えている……」
呟いて真っ先に思い浮かんだのは、迷子の記憶だった。
どうしてだろう、この町で過ごした時間の中で、他に良い思い出も、たくさんあったのに。やっぱり夢の影響が大きいのかな。
考え込んだ時、ふと壁の一画に視線が止まった。
「あの掛軸。まだ、出してあるんですね」
「えっ? ああ、地獄極楽絵図のことですか」
気づいた戒道さんが、壁の方へ歩み寄る。
昔から、これを見るのが苦手だった……。
毎年、お盆の時期になると、本堂に掲げられる、幾つかの古い掛軸。
自分はずっと地獄絵と呼んでいたが、地獄極楽絵図というのが正しい名前らしい。その名の通り、地獄や極楽の様子を伝え、生きている間の善悪を説いたものだ。
「もうしまわなければ、いけないのですが。参拝の方々に好評なので」
特に小さなお子さんのいる、家族連れには……と言われて納得する。
地獄に堕ちた罪人の苦しみを、生々しく描いたそれは、今見てもかなり恐ろしい。
三途の川からはじまって、奪衣婆に衣服をはがれ、閻魔様の裁判を受ける。地獄行きとなれば、鬼達が待つ血の池、釜茹で、針の山などへ。
自分もこれを見た後は、必ず良い子になろうと思ったけれど……。
「夕那さんは、鬼って、実在したと思いますか?」
「……は?」
絵に集中していて、すぐには意味がわからなかった。
「お、鬼ですか? えと、昔話とかでなら、よく聞きましたが……」
本気とも冗談とも取れない質問に戸惑う。
「実は以前、師匠と蔵の中を整理していたら、奇妙な古書を見つけまして」
戒道さんが掛軸に描かれた、一匹の鬼を指差した。
「内容は昔話によくある、鬼退治の伝承といった類のものです。ただ、元号に貞観とありましたから、事実とすれば、平安時代初期の物語になりますね」
「平安時代? そんな大昔のものなんですか?」
それは、大発見じゃないのか。
驚きに声を上げたが、戒道さんは笑って首を横に振る。
「書物自体は木版刷りの和本で然程、古いものではありません。それでも貴重な品ではありますが、夕那さん。鳴森に昔、鬼が住んでいたと言ったら驚きますか?」
「……鳴森の、鬼」
呟いた瞬間、じわりと胸に何かが押し寄せた。
頭に入ってきた言葉を理解して、最初に感じた思い。
――懐かしい?
私はこれを知っている。そう直感して違和感に鳥肌が立った。
待ってよ、鳴森の鬼? 知ってるって、そんな話、何時聞いたの……?。
「どうかしましたか?」
はっとして、戒道さんの顔を見た。
「……いえ、本当に驚いちゃって。あそこに鬼が住んでたって、どういうことです?」
動揺を抑えて返事をする。
無意識に伸ばした右手が髪紐に触れた。
「まずは、昔話だと思って聞いて下さい」
改まった戒道さんが、一つ咳払いして口を開いた。
――平安時代の昔。
神が鎮座すると言われた鳴森に、何時の頃からか、一匹の鬼が住むようになった。
どこかの都で悪事を働き、討伐隊に追われた末、鳴森に逃げ込んだらしいが、その詳しい素性は不明。姿は時々によって異なり、全身に剛毛の生えた巨漢の男や、天女の如き絶世の美女に化けては人々の前に現れたそうだ。
森に身を潜めた鬼は、腹が減っては通りすがる者を襲って食らい、近寄る者がいなくなると、近くの村に出て人をさらった。その暴れる様に、村人達は大いに恐怖したという。
「人の頭と胴を特に好み、細い手足などは、千切って捨ててしまったそうです」
「……う」
掛軸の絵。磔にされて、鬼に腕をもがれる人の姿が目に入り思わず呻く。
少し笑った戒道さんが、再び口を開いた。
――長く悪行を続けた鬼だが、その噂はやがて、行方を追っていた討伐隊の知るところとなる。
ある日、森を通りかかった一人の娘を、何時ものように襲った鬼だが、これは女装した兵であり、隙をつかれた鬼は太刀によって大怪我を負う。森の隠れ家へ逃げ込むも、血の跡を辿ってきた大勢の兵に囲まれ、ついに討ち取られることになった。
「しかし、この後、死体から妖しげな黒煙が立ち昇り、触れた森の木々を枯らし、流れる川の水を腐らせ、一帯にさらなる禍をもたらしたそうです」
「鬼の、怨念……?」
呟いた言葉に、戒道さんが頷いた。
「死してなお、災厄を残す。似た話は他でもあります。九尾の狐が変化したという、殺生石などもそうでしょう。いずれにせよ、余程の恨みだったに、違いありません。この禍に、最早打つ手なしと人々が諦めかけた……そんな時です」
――一人の名も無き僧が、偶然この地を訪れた。
彼は救いを求める人々の願いを聞き、数人の兵を供につけると、渦巻く黒煙を験力で退け、鬼の怨霊と対峙した。呪術と祈祷を駆使した死闘の末、これを鎮めることに成功したという。
「……以上が見つかった書物に書かれていた、大まかな内容です」
語り終えた戒道さんが、軽く息をついた。
「終わり、ですか……」
何か物足りない、腑に落ちない結末に小声で呟くと、戒道さんが苦笑した。
「確かに悪い鬼が退治されて、その後どうなったのか、この話だけではわかりませんね。蔵の中に、まだ続きがあるかも知れないのですが……。まぁ、昔話ではよくある展開です。悪事を働いた末に追われる身となった。兵士の変装に気づかず手痛い深手を負った。死してなお禍となったのも、似たような類話は枚挙にいとまがありません。ただ……」
言葉を切った戒道さんが、眉を寄せる。
「奇妙だと言ったのは、この周辺にそういった伝承が、一切伝わっていないからです」
訊こうとした疑問の答えを言われて、息を飲む。
「これが土地に伝わる有名な話なら、書物の話も類話か或いは原典かもと考えられます。しかし、少なくとも僕は知りませんし、師匠も同様でした。夕那さんは、何か心当たりがありますか?」
「……私も、知りません」
口をついた言葉に、嘘はない。
どこかで聞いた覚えがある。それを、状況が有り得ないと否定していた。
「そうですよね。あの書物は、一体どういうものなのか。単純に誰かの手によって創作されたもの、と考えるのが普通かも知れませんが。それを、何故……」
言葉を遮って口を開いた。
「すみません。その書物、具体的に何時頃見つけたものなんですか?」
怪訝そうな表情になった戒道さんが、少し間を置いて答える。
「はじめに発見したのは師匠で、かれこれ、二年程前のことでしょうか」
二年前……それ以前は、祖父も知らない話だった。
呆然として考え込む。
やっぱり、私が知っているはずがない。何か別のことを勘違いしてるの?
意識せず指先に髪紐が触れて、はっと思い出す。
――母の形見、そういえば、これが見つかったのも確か、蔵の中から。
お祖父ちゃんと戒道さんが、蔵を整理した理由ってなに? あそこ、暮れの大掃除でも、滅多に開けないような場所なのに……。
横目で戒道さんを伺うと、じっと掛軸を見つめて、こちらも何かを考え込んでいる様子。そこへ、声をかけようとして――。
突然、周囲に和太鼓と尺八の音が鳴り響いた。
少し離れた場所で、話をしていた戒道さんが、作務衣の懐に携帯をしまった。
「本堂内では、携帯はマナーモードにって、注意書きがありましたよ?」
渋い着信音を思い出して、笑いを堪えながら言う。
「いや、お恥ずかしい。以後、気をつけます」
頭をかいた戒道さんにつられ、自分も素直に笑ってしまった。
同時に、なにか忘れている気がして、望のことを思い出す。
しまった……。いい加減、戻っている頃だ。
本堂を出たところで、戒道さんと別れの挨拶を交わす。
聞きたいことがまだあったけれど、これ以上邪魔をする訳にもいかない。
「忙しいところに突然、すみませんでした」
「とんでもない。こちらこそお茶も出さず、すみません。今度またいらして下さい。気をつけて帰るよう、お友達にもお伝えを」
「はい、失礼します」
もう一度、会釈をして踵を返す。
多少真面に会話出来たが、きっかけとなった鬼の話は心に蟠るものがある。
「あっ、いた!」
思案しながら鳥居をくぐると、石段の途中で騒いだ望が、こちらに駆けてきた。
「もうユーナ、ふらふらどっか行かないでよ」
頬を膨らませた、望に謝る。
「もしかして、連絡くれてた?」
ポケットにしまった携帯を取り出す。まだ確認していなかった。
「こういう場所じゃ、携帯の電源切れって、婆っちゃに言われてんの」
当然のように言われて、上には上がいたことに驚く。
足元を見て、一歩ずつ石段を降りながら、望が口を開いた。
「んで、どこ行ってたの? あたし、ずいぶん探したんだぞ」
「ごめん。少し本堂に寄ってて……」
偶然、戒道さんと会い、世間話をしていたと伝える。……と、何を思ったか少し冷やかしてきた相手が言葉を続けた。
「でも、なんだよ。本堂の中なら、近くにいたんじゃん。呼んでればすぐ気づいたのか。あたし、森の方まで行ってみたのに、くたびれ儲けでしたなー」
「鳴森に行った? な、何もなかった?」
「へ? うん、入口までだけど。何かあんの?」
言いかけた鬼の話を飲み込んで、首を振る。好奇心の塊みたいな子だ。ちょっと探検なんて流れになったら困る。そろそろバスだってなくなるし……。
――今、鳴森に近づいてはいけない。
何か妙な考えがよぎった瞬間。後ろ手になった望が、悪戯っぽい笑顔を見せた。
「あっははは。あの杉の下で、遭難した時のユーナが寝てたりしたら、面白いよね。神隠しで飛ばされてきた、過去の自分と対面するっていう展開」
「……面白くないわよ、SFかホラーじゃない」
そう言って、額に軽くデコピンをおみまいしてやる。
うずくまった望を尻目に、長い影を伸ばす山門を後にした。






