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神人鬼  作者: 名残雪
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第一話

 何かの振動を感じて、ぼやけていた視界が、徐々にはっきりとしてくる。


 ――車の中? あれ、森に入った、わたしは……私?


 目に入った眩しい西日に瞳を細め、私は呻きながら体を伸ばす。

 枕代わりにしていたらしい隣の座席のボストンバッグを見て、ようやく頭が回りはじめた。


 さっきまでのは、夢か。私、また昔のことを……。


 おぼろげな記憶を思い返して、小さく欠伸をした。

 目尻をポケットから出したハンカチで拭き、ふと気づいた車窓の外に広がる田園風景を眺める。そこには夕日に影を伸ばした、奇妙な格好の案山子が、幾つも道沿いの田んぼに並んでいた。


「夕那ちゃん、目が覚めたかい?」


 しばらく呆けながら見ていると、前の運転席から声がした。

 バックミラー越しに、こちらを窺う男性と目が合い、慌てて姿勢を正す。

「すみません、良平(りょうへい)叔父さん。私、眠っちゃったみたいで」

「気にしなくていいさ。もうじき到着するからっと、ここから少し揺れるよ」

 舗装された道が砂利道になって、叔父さんが手元のギアを操作した。

 小型ジープのエンジンが唸り、林の中の道をつき進んでいく。大き目の石や枝を乗り越える度に、車内が小刻みに揺れた。


「ごめんね、舌噛まないよう気をつけて。やっぱり石畳か何か敷いた方がいいかな。でも、(さき)さんは自然のままがいいって言うし。うーん……」

 言われた通り気をつけて、叔父さんの言葉に反応する。

「咲おばさ……咲姉さん。もう家に帰ってるんですか?」

「明日の買物して戻るって言ってたから、どうかな。そう遅くはならない筈だけど」

 言い直した様子が可笑しかったのか。何か含みのある声で叔父さんが笑う。


 叔母さんは亡くなった私の母の妹で、叔父さんの奥さんだ。

 そして、私の新しい家族。母親になるんだよね。ううん、養子の手続きはもう済んでるから、すでにお母さんで、叔父さんも……父親。

 事実を確認しても、実感なんてまだ沸かない。

 良いのか悪いのかは別として、それが今の正直な気持だ。


 小学校に入るまで住んでいた、私の生まれ故郷。

 母の実家で長期休暇または、お正月の帰省先。

 親戚の中で唯一、親交の深い叔母夫婦が暮らす町。それから、それから……。

 自分とこの町……引越して来た大神町(おおがみちょう)の関わりを思い、不意に記憶が混乱する。


 少し前まで、私は遠い県外の街にいた。

 住んでいたマンションに近い、第一志望の高校に受かり、今年の春から通ってもいて。春休み中、無事に合格出来たことを去年亡くなった祖父、ずっと昔に亡くなった母と祖母に報告したばかり。

 そこで父と二人、助け合って暮らしていくので、これからも見守っていてほしい……そう願った。

 

 ――何か特別なことを望んだ訳じゃない。


 普通に、またお盆の時、二人できますと心の中で約束した、その二ヵ月後。

 約束は、永遠に果たせなくなってしまった。


 学校で事故の連絡を受けて、病院で再開した父は、眠るように亡くなっていた。

 祖父もまた事故で、その死から一年も経っていなかったのに。

 手は尽くした、そう告げる医者の姿、台詞も祖父の時と同様で。まるで現実感が無く、性質の悪い冗談にすら思えた……。


 車が大きく揺れて、ハンドルを握った叔父さんが謝る。

 私は平気と答えて、無精ひげの混じる相手の温厚な横顔を見つめた。

 叔母夫婦とは帰省すれば、必ず顔を合わせる間柄。何時もは物静かな父も、二人とお酒を飲んでいる時などは珍しく冗談なんて言ったりして、とても楽しそうだった。


 私にとっても二人……特に叔母さんは、特別な存在。父の仕事の関係で、大神町から引っ越した私達。それと同時期に、どこかの街から、離れていた故郷へ戻ってきたそうだ。

 初めて会ったのは、小学一年生の夏休みだったらしいけど、その頃の記憶なんてほとんどない。

 ただ自分とよく似た赤毛の女性に、写真でしか知らない母の面影を重ねたのか。すぐに懐いたことだけは、何となく覚えがある。


「夕那ちゃんが住んでた都会と違って、バスとかなくなるのも早いんだ。何かあって遅くなりそうな時は、遠慮なく連絡してね。特に最近、少し物騒だから……」

 怪訝に思い、言葉を濁した叔父さんへ続きを促す。

「この辺りは全然だけど、近頃、町の中心部とかに観光のお客さんが増えているんだ。別に、事件とかがあった訳じゃない。でも、人が集まると、どうしてもね。念の為さ」

 言葉に頷いたが、外には見ている限り事件など起きそうにない、静かな風景が流れていく。

 気を遣ってくれた相手に、本当に遠慮しませんよ、と冗談を言って笑った。


「咲姉さん、勤めてる小学校まで、自転車で通ってるんですよね? そっちの方は大丈夫なんですか?」

 訊いてから、思い浮かべた叔母さんの姿は、昔から変わっていない。

 女の自分から見ても、文句無しの美人。雑誌のモデル並と言っても過言じゃない。まして、あれで三十代の後半なんて、言わなきゃ誰もわからないだろう。

「咲さんは、もう十年近くここに住んでるから、僕なんかが心配したって気休めにもならないよ。例え、何かあっても……」

 腕っ節は自分より強い。そう言った叔父さんに、また笑ってしまう。


 不安なことは山ほどあって、何一つ変わっていない。

 それでも、私が今、笑顔でいられるのは、この人達がいたからだ。

 ――あの日。病院で途方に暮れていた私を見つけて、叔母さんは何も言わず抱きしめてくれた。

 優しくて、温かくて、涙が止まらなかった。どうして、父なのか? 答えなんてあるはずのない疑問をぶつけ、泣き続ける私の頭を、何時までもそっと撫でてくれた。


「さて、到着だ。この家……夕那ちゃんは、あまり来たこと、ないんじゃないかい?」

 エンジンを切った叔父さんの声に頷き、車のドアを開ける。

 途端に、クーラーで冷えた全身が、むっとした熱気に包まれた。

 車庫らしき場所の後ろにある、広い庭の木々からは、力強いセミの鳴き声が響く。もう八月も終わりだというのに、秋の気配はまだ遠そうだ。

「小さい頃、何度か来て以来だと思います。帰省した時は、ずっとお寺にいましたから」

「何度か泊まってもらおうか、考えはしたんだけど。前はちょっと散らかっててね」

 今は違うと手を振った叔父さんに、掃除は得意です、と声をかけて建物を見た。


 大神町は昔からの日本家屋が、今も多く残っている。

 そんな中、視線の先にある洋風の一軒家は、ある種風変りな存在だ。

 元々、亡くなった祖母が管理していた別邸で。長い間、無人で放置されていた建物を、町に戻った叔母さんが相続し、しばらくは一人暮らしを続けていたらしい。

 その後。画家である叔父さんとの結婚を機に、住みやすいよう改修を加えて、現在の姿に至るという話だが……。


 谷本(たにもと)と記された叔父さんの苗字。そして自分の新しい苗字となる表札を見つめ、俄かに焦る。

 そうだよね、私はもう、赤野(あかの) 夕那じゃないんだ。これからは、谷本 夕那か。

 今のところ全く慣れないけど、時間が経てば何とかなるのかな?


 頭に馴染ませるよう、苗字を呟いていると、表札の前に立った叔父さんが、改まった咳払いをした。

「夕那ちゃん。色々なことがあって、本当に大変だったね。けれど安心してほしい、今日からここが夕那ちゃんの家だよ。至らない部分は多々あるかも知れないが、僕も咲さんも、これから君を精一杯支えていく。だから……、お帰りなさい」

 言葉が胸の奥に広がって、一つの実感が沸く。


 ――私には、まだ家族がいるんだ。


 どれだけ感謝すればいいのか。何を言えばいいのか、わからない。それでも……。

「はい、ただいまっ!」

 今の自分に出来る精一杯の笑顔で、力強く答えた。


 日も暮れた夜――。

 台所で夕食の準備をする叔父さんを手伝いつつ、私はテーブルに並んだ料理の数々……見事に揚げられた天ぷらや、手の込んだ煮物などをじっと見る。

 漬けた野菜も家庭菜園で取れたお手製だという、糠床(ぬかどこ)まで見せられた際には笑うしかなかった。私も家の料理を担当してかなり長いので、黙っていても相手の技量はわかってしまう。


 この腕、感じるプレッシャー、只者ではない。


 料理が出来るところを見せたかったが、悔しいけれど出る幕はなさそうだ。

 今は格上と認めて、大人しく食器などを並べていた時、玄関の辺りから物音がした。

 炒め物を仕上げた、叔父さんに視線をやると、茶目っ気のある笑顔を見せる。

「どうやら咲さん、帰ってきたみたいだね。ちょっと手が離せないから、悪いけど夕那ちゃん。出迎えてあげてくれるかな?」

「了解ですっ」

 答えながら布巾で手を拭き、リビングを横切って、古い木張りの廊下を進んでいく。

 曲がり角の先、靴などを入れる棚の前に立つと、同時に玄関の戸が開いた。


「お帰りなさい、咲姉さん。お仕事、お疲れ様でした」

「――夕那。きて、たのか」

 聞き慣れたハスキーな声が玄関に響くも、ぽかんとした反応で戸惑う。

 もしかして、知らなかったの……?

 驚いた様子の叔母さんだったが、それもすぐに消え、よく知る不敵な表情に変わった。

 大きな荷物を床へ置いて、正面に立たれると、背の高さがはっきりわかる。少し見上げた私の頭に手をやって、言葉使い同様、少し乱暴に撫で回してきた。

「お盆以来だな。元気にしていたか?」

「はい。咲姉さんも、お変わりなく」

 笑顔の相手を見つめて、改めて思う。


 ――この人、本当に何歳だ?

 母と四つ程しか離れていないから、やはり三十代後半なのは間違いない。最近、名前を呼ばずにうっかり、おばさんとか言うと、若干笑顔が黒くなったりもする。

 それにしても肌にシワとかは、全然見えない。腰まで伸びた髪も艶々で、美容室帰りですか? お化粧すら、薄いファンデと口紅くらいでほとんどしてない。面倒なのか、する必要がないのか。見た限り後者だけど、これで小学校の先生……。


「お帰り、咲さん。ははっ、驚いたみたいだね」

 あらゆる意味で複雑な気持ちになっていると、後ろから、してやったりという顔の叔父さんが現れた。

 どうやら、サプライズだったらしい。

「ただいま、良平君。まったく、予定じゃ明日のはずだろう? 心臓が飛び出るかと思ったよ……」

 真顔で冗談を返し、叔母さんが羽織っていた白衣を渡す。

 受け取った叔父さんが、手慣れた様子で折り畳み、床に置かれた大きなエコバッグらしき袋を持ち上げ……ようとした。


「中身は酒だ。気をつけてくれ」

「こ、これを商店街の酒屋から自転車で? 相変わらず無茶な……」

 袋の中を覗いた叔父さんが嘆息する。

「危険な運転の類は一切してないぞ。良平君も少し体を鍛えるといい」

 お世辞にもガッチリしてるとは言い難い中肉中背な叔父さんの体格だけど。鍛えているかは別として、大人の男性には違いない。その二の腕がブルブル震えているのだから、かなりな重量らしい。

 手伝おうとしたけれど、何か叔父さんの男としてのプライドが試されているような気がして、半笑いでやめた。危なっかしい足取りで、リビングへ運ぶ様子を涼しげな顔で叔母さんが見送る。

 腕っ節の話、例えじゃなかったのか。

 新しき家の正真正銘のパワーバランスみたいなものを、少し垣間見た一幕だった。


 豪華な夕食を終えた後……。

 食後の会話も一段落してから、私は自室として使っていいという八畳ほどの部屋に案内された。

 白を基調とした、落ち着いた色合いの室内には、前のマンションで荷造りしたダンボールの箱が数個。ベッドやタンス。机といった家具が置いてある。それでも部屋のスペースには、まだ余裕があった。


「荷物は本当に、これだけかい? もっとあるかと思ってたけど……」

 そう言った叔父さんが、意外そうな顔をする。

 父と二人だけの暮らしでは無駄な物などあまり無く、荷造りは拍子抜けするほど、あっさり終わった。残った父の私物は、僅かに箱一つへ収まるくらいで、物悲しい気持ちになったことを思い出す。

「――はい。これで、全部です」

 声が沈まないよう意識して答えたつもりだったが、聞いていた叔母さんに、また頭を撫でられた。

「なに、失くした分、新しく得るモノだって必ずあるさ。ん、これは?」

 お酒のせいか。幾分、饒舌(じょうぜつ)で語る叔母さんが、アルバム類とマジックで書かれた箱に目を止めた。

 開けてもいいか視線で問われて、頷くと丁寧にガムテープを剥がし、納まっていた数冊の写真入れを取り出す。その中から、(夕那 五歳)とタイトルされた一冊を手に取り、そっとページをめくりはじめた。


「へえ、夕那ちゃん。昔はこんなに小さかったんだ」

「ああ、本当だ。しかしそれ程、顔は変わってないな。可愛いじゃないか」

 何かの、記念写真らしい。フリルのついたドレスを着て、椅子に座った子供の私。緊張しているのか……表情は硬く見える。

 今の自分の身長は、叔母さんには及ばないものの、それでも平均よりは高めだ。伸び始めたのは、小学生の高学年くらい。言われた通り、写真の自分はかなり体が小さい。これより前は、ずっと病院にいたから、その所為もあるのかも……。


「髪の色、夕那ちゃんと咲さん、そっくりだよね。お義姉さんもそうだけど、お義母さんは違ったから、赤野家の遺伝なのは間違いないな。でも、お義父さんは……」

「お坊さんだったからな。私が物心ついた時から覚えている限り、ずっと丸刈りだ。写真なども全てそうだが、恐らく赤毛……だったのだろう」

 会話から、髪を伸ばした祖父の姿を想像してみる。

 赤い長髪に黒い袈裟。木魚をドラム代わりに、お経がロックになりそう。


 バカなことを思いつつ、私は口を開く。

「咲姉さんや母さんって、子供の頃、髪のことで悪口とか言われませんでしたか?」

「よく言われた。さらに学校じゃ頭髪検査の常連だったよ。何度ヤンキー扱いされたことか。一度証明に姉さんを連れて行ったら、姉妹で不良に見られてな。困ったものさ」

 叔母さんが豪快に笑う。聞きたかった話と違ったけれど、色々苦労はあったみたいだ。

 写真を眺めていて、ふともういない、皆の笑顔を思い浮かべた。


 ――私、この町に来て、この家の子になって良かったんだよね?


「そう言えば、これくらいの歳だったのかい? 夕那ちゃんが鳴森で迷子になったの」

 叔父さんが何気なく言って、写真から私に視線を向けた。

「私はお義兄さんから、よく聞かされたが。そうか、良平君は詳しく知らないのか。あれは迷子というか、な。本人に訊いてみたらどうだ?」

 素知らぬ顔の叔母さんに促され、顔が引きつったが、諦めて答える。

「あー、えと、ですね。とある日の夕方、幼い私が鳴森に一人で入って、そのまま迷子になりまして。その……」

「――夜になっても、夕那が家へ帰ってこないっていうから、お義兄さんに父さん。それと近所の人や地元の青年団まで駆けつけて、一晩中探し回ったそうだ。結局、その夜は見つからず、発見されたのは翌日の朝だったか」

 歯切れの悪い私に代わって、笑った叔母さんが、ざっくりと真実を語った。


 子供の時に衝撃的な体験をして、それが成長してからも、トラウマとして記憶に残る。

 

 誰にでもありそうなことで、私の場合、話に出ている迷子、神隠し、プチ遭難などと呼ばれる事件がそれだった。

 その時の出来事を、以前から度々、夢で見ることがある。しかも忘れた頃にやってくるという、嫌がらせのような悪夢が、何故か近頃頻繁で……少し困っていた。


「大変じゃないか。でも、なんだって森に一人で入ったりしたんだい? お寺の裏って言っても、あそこは暗くなったら大人だって近づかないのに」

 子供の頃のことで忘れた、そう言えたら楽なのだが、生憎この時の記憶だけは鮮烈に覚えてしまっている。ただ、叔父さんの質問に答えるには、友人の名誉が関わってくるので抵抗が……まあいいか。とっくに時効だ。


「昔、保育園でカブトムシとかの昆虫を飼ってたんです。自然と触れ合う教材か何かだったんですけど。それをかわいそうだって言って、全部逃がした問題児がいまして……」

 数日後に会う約束をしている、自分の幼馴染の顔が頭をよぎった。

「当然、先生に怒られました。特に男の子からは、散々文句が出て。自分は愛と正義の使者で正しいことをしたって、意地張ってたその子も結局……泣いちゃったんです」

 当時そんな感じのアニメが流行っていたから、きっと影響されたのだろう。

「……で、その子の友達だった私がですね。見かねたのか、よく考えもせず、新しい虫を取ってこようと思い立った訳です」

 正直、今思えば本末転倒な心意気だ。色々な出来事が重なって、あのタイミングでしか行くチャンスがないと思い込んだのもマズかった。


「じゃあ、夕那ちゃんはその子の為に?」

 叔父さんの質問に、曖昧に頷く。

 大義名分なんて、大袈裟な言葉を使えば、そうなるのか。ただ当時の自分に、そんな思いがあったのかは疑問だ。単なる功名心(こうみょうしん)や好奇心に、任せただけの行動だったかも知れない。

 その結果が、迷子になった挙句の一連の騒動なんだから、みっともない……。


 話しを区切ると、聞いていた二人が感慨深げに溜息をついた。

「森で一晩過ごしたって、怪我とかは無かったんだよね?」

 頭をかきながら、叔父さんに今度はしっかりと頷く。

「多分、一生忘れられない思い出です。鳴森も懐かしいな。あの後、出入り禁止になってからは、ずっと行ってないので」

 そう言って、私は右手で後ろ髪を纏めた、髪紐に触れる。

「……ん、そうなのか?」

「えっ? は、はい。父さん、そう言ってませんでしたか?」

 嘘をついたと思われたのか。眉を寄せた叔母さんが思案顔になった後、ニヤリと笑う。


「まぁ、この頃といえば、腕白の盛りか。ダメと言われて、大人しく聞く方が珍しいな。わかったよ、夕那。そういうことにしておこう」

 勝手に納得してしまった叔母さん。普段は冷静な人だけど、お酒が入ってしまうと多少やっかいな性格になる。徒労(とろう)と知りつつ、私は抗議しようとして……。

「くぁ……。す、しゅみませんっ!」

 大きな欠伸が、出てしまった。

 口を押さえて謝っても上手く喋れなくて、恥ずかしいだけだと今はじめてわかった。一斉に吹き出した、叔母さん達を見て、穴があったら入りたいと、かなり真剣に思った。

「いや、夕那。こっちこそッ、済まなかった。つ、疲れてるのに長話をさせたな」

「ごめん、すぐに出ていくからね。き、今日はゆっくり休んで」

 笑いを堪えながら、言わないで下さい……。


 二人が去った、部屋の中。

 私は一人、ベッドに寝転がったまま、見知らぬ天井を見上げていた。カーテンの隙間から差し込んだ月明かりが、暗い部屋の様子を浮かび上がらせる。

 何度か寝返りを打ってみても、さすがにすぐは寝つけない。間違いなく疲れてはいるけれど、これが気疲れであることも自覚していた。

 この環境で爆睡できたら、それはそれで問題な気がする。ただ、まんじりともせず、明日寝不足になるって事態だけは避けたい。

 どうにか、まどろむよう目を閉じていると、窓の方からスズムシの鳴き声が聞こえた。

 虫、秋のムシだ。でも明日は、また暑くて、きっと、セミがうるさい……。


 一歩、また一歩――。

 わたしは森の中の、薄暗い道を進んでいく。

 ちっとも鳴り止まないセミ達の声に、耳を塞ぎたくなった。

 わたしの足音さえ、ほとんど聞こえない。別に喋らなくてもいいことが、口に出てしまう。鼻歌を歌おうとしても、音楽が浮かんでこない。

「もう、うるさいなー。これじゃ何かいてもわからないよ」

 自分で言って、一度、周りを見渡した。

 草の絡まった木、苔の生えた岩、大きな切り株。その陰の見えないところに、何かがいて、こっちを見てる。そんな気がして、胸がどきどきした。

 何時かお祖父ちゃんが言ってたな。鳴森には昔、たくさんオオカミが住んでたんだって――。


「わっ」

 すぐ後ろで、大きな音が聞こえて振り返る。

 あちこちに目を凝らしても、何も見えない。ゆっくり足をどけるとサンダルの下で、太い木の枝が一本、二つに折れて転がっていた。

 さっきから怖がってばかりで、バカみたいだ。

 オオカミなんて、いるはずない。だから怖くない、怖くない、怖くない……。

 そう同じ言葉を繰り返して、わたしは薄暗い木のトンネルをくぐっていく。


 保育園にお休みはないけれど、小学校は夏休みっていう、とても長いお休みがある。

 朝から夜まで、ずっと外で遊んでいられるんだって、友達のお兄ちゃんが言ってた。

 その人が、前に連れて行ってくれた、森にある秘密の場所。虫の集まる木が何本もあって、昼間なのにカブトムシもクワガタも、たくさんいた。今の時間なら、あそこなら、絶対に一匹はいるはずだ……。


 入口から続いていた道は、段々細くなって、もう見えなくなっていた。

 迷ってなんかいないけれど、黒くて湿った地面はつるつる滑って、どうにも歩きにくい。

 でも、行かなくちゃ。望ちゃんと約束したんだもん。

「――ん、あれ? えと、ここって……」

 立ち止まって、また声を出していた。


(まずは森に入ってすぐ、低い枝のどれかに赤いテープが結んである木を探すんだ。その枝の先に進めば、別のテープの結んである木が見つかる。それを繰り返して五本目の木の先、最後は……)


 お兄ちゃんが教えてくれた、秘密の場所への行き方を思い出したけど。目印を追って、もうだいぶ歩いた。言われた通り進んでるのに、何度も同じところへきている気がする。

 立ち止まって、見つけた目印を思い出し、指で数えてみると……。

「四つ、五つ、六つ。……六つ? あっ!」

 一つ多い。そう、五つ目は引っかけ。目印と逆に進まないと最初の方に戻るんだった。

 大事なことを思い出して、慌てながら振り返る。


 ――その時、ぞっと体が震えた。


 自分の周り全部が、木に囲まれている。

 当たり前だけど、それがとても怖く見えた。

 大きさはどれも似ていて、右も左も、前も後ろも全部、同じ場所に見えた。自分が歩いて来た方もわからなくて、急に頭がこんがらがる。

 テープを探して見上げた木の上の空に、欠けたお月様がうっすらと浮かんでいた。


 今、何時だろう。ううん、まだ大丈夫。ちょっと暗いだけ。でも、急がなきゃ……。


 落ち着くように息を吸って、目を閉じた時。

 うるさかったセミの鳴き声が、一つもしないことに気づいた。

「む、六つ。だからっ。今は、はじめの目印だ。次は、えと……ひッ!」

 木の上から、いきなり聞こえたカラスの声が、森中に広がっていく。


 わからないけど、はやく出ていけって、きっと怒ってる――。


 がさがさ揺れる葉っぱと枝を見ながら、後ろに下がった足が、何かを踏む。

 あっ、と漏れた声に何かが割れる、乾いた音が重なった。

 同時に、カラスが一斉に飛び立つ。

 襲われる、それだけしか考えられなくて、気づいた時には、もう走り出していた。


 ――胸の音、息をする音、土を蹴る音。

 静かな森の中に、自分の音だけが、うるさく響く。

「はぁ、はっ。……んく。えっ、きゃあッ!」

 突然、足首を何かに引っ掛け、思いっきり転んだ。


 痛い、苦い……。


 口の中にじゃりじゃりとした、土の味が広がる。

 吐き出そうとしたけど、もう喉がカラカラだった。そのままむせて、目の前が涙でぼやける。

 服の裾で顔を拭いて、サンダルを履いた足を見た。

「血、だ……」

 擦ったりぶったりした跡から、幾つも赤い血が滲んでいる。我慢して立ち上がろうと、上手く動かない右足に力を込めて、頭が真っ白になった。


「あぁっ! ぐぅう。いッ。あぅ」

 感じたことのない痛みに、膝を抱えてうずくまる。

 ――痛い。わたし、足どうなって。……骨? ほ、骨が折れてたら……。

 どんどん悪い考えが浮かんで、汗が止まらなくなる。こぼれそうになった涙を、また裾で拭いて顔を上げた。もう暗い空に欠けたお月様が、さっきよりも輝いて見えた。

 ――痛い、怖い。でも泣くもんか。大丈夫、病気とは違う。こんなのすぐ治るんだから。そうしたら、そうしたら? どこへ行けば、いいんだっけ……?

 誰も答えてくれない森の中で、声の出ない咽喉を震わせた。


 木から木へ体を支えて、わたしは痛む足をひきずりながら歩いていく。

 なにか、頭が熱くて変だった。さっきまで止まらなかった汗も、今は全然出ない。

「……あれ? カゴ、どこ?」

 首を曲げて肩を見ると、吊るしていた虫カゴが無くなっていた。

 転んだ時に落としたのか、後ろを振り返った時。急に体から力が抜けて、手をついた木の下へそのまま座り込んだ。


 疲れて、眠くて、両膝を抱えながら顔を伏せる。

 わたしは、悪いことをした。これは、その罰なんだ。

「ごめんなさい……」

 だから、謝ろう。今言わないと、もう言えない気がするから。

「約束、守らなくて、ごめんなさい。良い子じゃなくて、ごめんなさい。病気で生まれて、ごめんなさい。お母さんを……」

 最後に何かを呟いて、そっと、わたしは目を閉じた。


 ――これは、夢の続き。

 夢を見ながら、それを夢と認識すること。確か明晰夢とか言ったっけ……。

 そう思った瞬間、わたしの体から私の意識が離れた。


 ひどい有様で木の根元にしゃがんでしまった、子供のわたし。

 映画館のスクリーンのような画面に映る、その様子を呆然と眺めた。

 ここは夢の中だから、意識はあれど体の感覚が存在せず。映像の映る画面がふわふわ宙へ浮いているのも、なんらおかしくない。

 そこから漏れる明かりに照らされた、自分の周囲以外は闇に包まれていた。


 またか……。今と同じ状況で、トラウマの夢を見るのは何度目だろう。もっとも夕方、車の中で見て、久々に話もしたから、出るんじゃないかと思ってはいた。

 しかし、今度のわたしは、随分ボロボロだ。状況は同じでも、映像の展開が毎回微妙に違っている。それが、この夢の妙なところ。変わり始めたのが何時からか、はっきりしないけど、最近は少し脚色(きゃくしょく)が多い。


 わたしの感じている不安などの感情は本物で、当時はとても恐ろしかった覚えがある。

 だが、この足の怪我と痛みは偽りだ。実際、こんな大事にはなっていない。その証拠に、ここから夢らしい展開がはじまるはず。現実の展開に戻るといった方が正しいのか。


 ――だから安心して、子供のわたし。全て、もうすぐ終わるよ。


 思いに応じるよう、一瞬だけ映像が乱れる。

 すると、ビデオの早送りかスキップのように、夜空に輝いていた月が消えた。

 森に朝霧が漂ったところで、俯いていたわたしが顔を上げ、寝起きのような顔のまま、何事もなく立ち上がる。

 引きずっていた右足の怪我は、すでに消えてしまっていた。寝癖のついた髪を一度縛り直し、何処かへ向かってふらふらと歩き出す。


 ――ほら。怪我なんて掠り傷程度で、骨折どころか、捻挫もなかった。

 やがてわたしの進む先に、木々の切れ目が現れた。

 ――出口だってすぐ近く、と言うより、ちょっと奥まで入ったところを、ぐるぐる回っていただけ。寝てさえいなければ、探していた誰かの声とかにも気づいただろう。

 ようやく森を出て、すでに白みはじめた東の空を眺める。お寺の建物が見えて、安堵したのか。傍の杉の下で、すやすや眠り込んでしまった。

 ――気持ちはわかるけど、我ながら間抜けね。

 再び映像が乱れ、また再開する。場面は朝日が昇った、同日の早朝。


 呑気に寝こけていた子供のわたしが、騒がしさで目を覚ます。

 目の前には、自分を抱きかかえている父と、祖父の顔があった。それを囲んだ大人達が皆、ぼろぼろ涙を流しながら、互いに抱き合って喜びに沸いていた。


 ――その後。無事保護されたわたしは、一生分くらいの大目玉と、鳴森への出入り禁止を言い渡され、事件は一件落着となる。虫は取ってこれなかったけれど、友人への悪口は、この騒ぎの話でうやむやになって消えたそうだ。


 心の中で後日談を呟き、古いファミリー映画を見終えたような、感傷にひたる。

 大団円……、そう言えなくもない締めくくり。

 やはり、以前見た夢と迷うまでの過程や、怪我の程度は微妙に異なっている。しかし、眠り込んでから結末に至るまでの展開は変化がなく、正直に言えば、もう飽きていた。

 それが現実だから……かも知れないけど。わざわざ夢で見てるんだから、せめて楽しい方向に変わってほしい。

 でなければ、ただの安眠妨害だが、自己責任だから仕方ないと思わず溜息をつく。

 それも感覚が存在しないので、あくまで意識のみ。すると三度、映像が乱れた。


 笑顔で泣いている皆の顔が、所々で固まる。

 それはパソコンで読み込みの遅い、動画を見る時に似ていた。

 カクカクとした動きはぎこちなく、聞こえていた音声さえぶつ切りで、ついには停止した状態から、完全に動かなくなってしまう。

 前にもあったことだけど、こうなると、最早打つ手無しだ。明晰夢とは言え、私は何も出来ないので、起きるまで強制的にこの画を見続けるしかない。


 ――参ったな。こういう時って朝、疲れとかほとんど取れな……えっ?

 突如、フリーズ状態の映像に変化が表れた。

 無秩序に入り乱れる、保護されるまでのシーン。墓地を隠れて進むところから、一気に森で転んだ瞬間へ。顔を上げたわたしが、今度は石段を駆け上がる。


 何かもう、メチャクチャだ。

 夢を全部覚えてなんかいないけど、こんな異常な展開は今まで無かった。

 呆気にとられて、私は流れるままの映像を見つめる。激しい早送りと巻き戻し、脈絡もなくつぎはぎで構成される画に音が重なって、台詞も聞き取れない。

 不協和音に近いそれらが一段と激しくなり、突然、映像が消えた。


 画面に広がったのは、真っ暗な闇――。

 電源でも落ちたのかと、夢で有り得ないことを思っている間に、それも周囲の闇へと同化してしまった。

 先ほどまでの騒ぎが嘘のように、しんと夢の世界が静まり返る。

 何も見えないし……聞こえない。嫌な焦燥感を覚えた一瞬、頭に針で刺すような痛みを感じ、手を当てて、はっとした。


 体の感覚が、何時の間にか存在している。

 額に触れる手の質感や、足元の感覚まで、はっきりとわかる。固く冷たい石のような床の上に、今の自分は立っているらしい。それも、間違いなく素足だ。

 足ばかりではなく、およそ体のどこにも服を着ていなかった。

 夢とはいえ、さすがに焦ってしゃがみ込む。特に寒くはないけれど、問題なのはそこじゃない。なんなのよ、と恥ずかしさに内心呻いて……。


 私は背後に、何かの気配を感じた。

 耳のすぐ傍でくぐもった息遣いが、確かに聞こえている。

 短い悲鳴が漏れそうになり、必死で口を押さえた。

 振り返れない。振り返っても、この闇では見えないだろう。


 ――怖がるな。これは夢だ。醒めて、醒めろっ。


 自身に何度も言い聞かせた時、背中から強い衝撃を受けた。

 前のめりになった体を、咄嗟に両手で支える。そこへ上から、さらに衝撃が加わった。

 突っ張っていた腕が耐えきれず、俯せのまま固い床に倒れ伏す。こすれた胸に痛みと、冷たい感覚が伝わる。抗おうとしたが、立てない。背中を押さえる何かの力に、肺から空気が絞り出された。


 起きている事態を理解して、全身が総毛立つ。

 苦痛に喘ぐその間も、力はどんどん強まり、背骨が軋むようだった。

 ――誰なの? なんで、こんなことをっ?

 叫んでも答えはない。それでも背後を探ろうと、意識を集中した耳に、唸るような声が聞こえた。人では、ない。動物、大きな、獣……?

 思い至った、刹那。何かが弾ける音がした。


 周囲の暗闇へ、幾つもの白い亀裂が走る。

 驚きに見開いた視界の果てまで、連鎖した裂け目が広がった途端、俄かに背後の力が緩む。伸ばした手で床を這い、どうにか膝立ちなると、ガラスの割れるような音が響いて、闇が一斉に砕け散った。


 数え切れない程の黒い欠片が、所構わず落下する。

 その隙間から、次々と白光が差し込んだ。見渡す限り広がる幻想的な光景に、痛みも忘れて見入っていた時、ふと自分の真上を見上げた。そこに、巨大な欠片が迫っていた。

 逃げられない――。

 時間の流れが不意に、緩慢になった中、腕を掲げて身を守る。

 最早、夢だからなんて考える余裕すらなく、私はぐっと目を閉じた……。

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