プロローグ
駆けてきた道を一度、わたしは振り返る。
遠くの山の影に重なって、丸かったお日様が少し欠けて見えた。
空には一枚の絨毯を敷いたように、そっくりな模様の雲がどこまでも広がっている。
その全部が、赤とオレンジを混ぜた色に塗られていた。
前に、お絵かきの時間で、わたしも夕日の絵を描いたことがある。使った色は同じはずなのに、本物は全然違う。それが不思議で、きらきら輝く光をじっと見つめていた。
「きれー。でも、遠くは真っ赤……」
(赤毛の夕那、赤鬼の夕那)
空の色から、よく言われる悪口が思い浮かんで、口を閉じる。
わたしの髪は何もしていない。これで普通なのに……。
汗でおでこに張りついた前髪を、数本つまみ上げる。
目の前のそれは、光の当たり方で変わるけれど、友達みたいに黒くはなかった。もっとよく見たいと思って、鏡のようなものが無いか周りを見回す。
その時、聞こえた大きな鐘の音に、体が飛び跳ねそうになった。
口から出かけた声を空気と一緒に飲み込んで、低く頭を下げると、急いで近くの木の後ろへ隠れる。
今は髪のことなんて、どうでもいい。
そっと顔だけ出して音のした方、自分がいる高台の下にある、鐘つき堂に目を向けた。
思った通り、そこにいたのは、黒い着物を着たお祖父ちゃん。ちょうど、丸太みたいな棒を一杯に引いたところで、つかれた鐘から耳の痺れる音が、お寺中に響き渡った。
静かに息を吐いて、白い石の敷かれた通路を歩く。
なるべく体を低く、出来るだけ速く。
家のお寺……縁宗寺の後ろにある、高台のお墓の中は、まるで迷路みたいに道がややこしい。階段と行き止まり。分かれ道に回り道だらけで、行きたい場所は見えているのに、ちっとも真っ直ぐ進めない。
ただ、そんなところも、道さえ覚えてしまえば少し楽しい。
近くの公園で友達と鬼ごっことかをした時なんか、お墓に逃げてしまえば絶対に捕まらないし、先回りだってやりたい放題。
友達の中には、お墓が嫌だと怖がる子もいた……。
もちろん、遊んじゃいけない場所だっていうのはわかってる。だから、入ったのはよっぽど困った時だけだ。それでも見つかれば、お祖父ちゃんにすごく叱られた。
怒ったお祖父ちゃんは、本堂にある地獄の鬼の絵みたいにとても怖い。今、もし見つかったらって思うと、赤くなった顔が浮かんで、どくんどくんと体中から音がした。
「あっ、と。あぶなかった……」
つま先が石に引っ掛かって、ちょっと転びそうになる。
手をばたつかせて何とか堪えた時、お寺の方から、また鐘の音がした。
(いいかい、夕那。日が落ちて鐘が鳴ったら、家の中へ入ること。お祖父ちゃんや、他の大人の言うことをよく聞くこと。この二つの約束を、ちゃんと守るんだよ)
急に頭へ浮かんだのは、前にわたしがお父さんとした大事な約束だ……。
守ると答えて指切りした時の小指を見てから、手をぐっと握り、お墓の石や木の影に隠れながら歩いていく。さらに進んで、ゴミは持ち帰って下さい、と書かれた立て看板の後ろから、一番上の高台へ続く石段を見る。
そこで大きく息を吸い込んだ後、一気に走って階段に足をかけた。
お墓の並ぶ高台の後ろには、とても広い森がある。
名前は、鳴森。
その入口にある高い一本杉の下で、わたしは息をついた。
「――えと、ばれてない。よーし、大丈夫、大丈夫」
小声で確かめて辺りを見回す。お盆が過ぎたばかりだから、まだあちこちに人の姿があったけど、わたしには誰も気づいてないみたい。
そう思った時、わたしの頬から汗が一粒、地面に落ちた。
顔を拭こうとして、ポケットのハンカチを探したけれど、見つからない。
仕方なく服の裾で拭い、肩から吊るした虫カゴを確認する。
お父さんの約束は大事。けど、どうしても全部は守れない。わたしは良い子じゃないから、死んだらきっと地獄行きだ。それだと……お母さんに会えないのかな?
考えていると、森の方から涼しい風が吹いた。
目を閉じて、細く息を吐く。
どくんどくんと聞こえていた音の代わりに、セミの鳴き声が少し大きくなった。
ゆっくり目を開くと、鐘つき堂から出たお祖父ちゃんが、鳥居をくぐって階段を降りていくのが見えた。手に持っていたのは箒とちり取り。これから前にも手伝ったことがある、山門前の掃除をするのだろう。
あれで今日のお仕事はおしまいのはず。家のお手伝いさんは、今日はお休みの日で、お父さんが帰るのはもっと夜遅くだ。
ここまで来て引き返せない、と思ったけれど、やっぱり約束のことが気になって、一度空を見上げた。
少しだけオレンジ色が濃くなったそこは、まだまだ明るい。
わたしが、家にいないってわかったら、どうなるんだろう? 皆、急いで捜しにくるのかな。ご飯までには帰るはずだって、待っているのかも。約束を破るような子は、知らないってなったら……困る。
たくさんの、もし……を考えて、胸が苦しくなった。
右手を伸ばして、首の後ろで結んだ髪紐を、ぎゅっと握りしめる。
お母さんの形見だという、キレイな白い紐。触っているだけで元気が出る、わたしの大切なお守り。
大丈夫、そんなに遠くじゃないから。暗くなるまでには、絶対戻ってこれる。
不安な気持ちを押さえ込んで、髪紐をきつく結び直す。
「一人でも平気、怖くないよ。わたしは病気にだって負けなかった、強い子なんだ……」
そう呟いてから薄暗い森の入口へ、一歩足を踏み出した――。




