尋問 3
佳子が貝のように口を閉ざして黙ったまま、時間が無駄に過ぎるのを待った。
佳子がそんな態度を取るようになってから、一週間ほど過ぎた頃、いつものように取り調べ室に連れて来られて着席すると、既に座っていた布施から今日で取り調べはお終いだと告げられた。
佳子が驚いて布施の顔を見ると、彼は初めて表情を崩して、柔らかい笑みを浮かべていた。「貴女の粘り勝ちですよ、お疲れ様でした」と彼に言われたが、佳子は耳に入ってきた言葉を一瞬理解できなかった。
「終わりって本当ですか?」
「そうですよ。取り調べに与えられた期限が昨日までだったので、それまでに貴女が自白しなければ、貴女の勝ちだったのです」
「そうでしたか……」
布施に佳子が勝ったのだと言われても、何の感動もなかった。ただ、予告もなく唐突に終わったため、実感が全く持てなかった。
佳子の供述通りの調書が用意されていて、それに署名するように要求された。
「これから今回の取り調べの責任者である五月氏に会っていただきます。彼が到着するまで少し待っていてください」
佳子がペンを持ちながら自分の名前を書いていると、布施はそのようなことを話した。そして、布施は調書を持って椅子から立ち上がると、部屋から出て行った。
佳子は何もすることもなく、ぼんやりしながら時間が過ぎるのを待っていた。やがて、春人の義兄の慶三郎がやって来て、久しぶりに対面することとなった。
「体調は大丈夫ですか? 厳しい取り調べになってしまって、貴女には大変申し訳ないと思っています。実は、貴女に対する周囲の疑いの根は深くて、彼らを納得させるために仕方なく、あの布施が貴女の担当になったのです」
会って早々、慶三郎に謝られたことに、佳子は驚いた。
「いえ、疑われるのは当然かと思っていました。でも、すごく精神的にきつかったです」
「本当に悪かったと思っています。布施の取り調べは、その、厳しいと大変有名なので……。でも、そのお陰で、貴女の潔白は無事に証明されたのですよ」
「そうなんですか」
「一上家の処分については、まだ論議が終わっていないのですが、貴女はもう家に帰られて結構ですよ。何か分かりましたら、連絡しますので」
「あの、私は何もお咎めはないんですか?」
「ええ、特にないですよ。ですが、恐らく一上家には監視がつくことになると思うので、定期的な連絡や報告の義務は必要となると思います」
「あの、真吾さんはどうなるんでしょうか? 他にも、殺人に加担していた人は判明したのでしょうか?」
「まだお話しできる段階ではないので、それも後ほどお伝えします」
「……そうでしたか。ところで、実は折り入って相談があるのです」
「相談ですか? 何でしょうか?」
「私の一上家当主の座なんですが、今回の責任をとる形でお役目を退き、土地や屋敷の管理を里にお任せしようと考えているんです」
「貴女がそこまで責任を感じる必要はないと思いますよ。それに、住むところを失っては、貴女の生活はお困りになるでしょう。今後はどうするつもりなんですか?」
「住み込みで働けるような場所を見つけて、そこで住もうかなと思っています。どの道、あの山を含んだ広大な土地と、屋敷の税金や維持費まで手が回らないので、手放したかったんです。結局、亡くなった父は金銭面で分家に頼らざる得ない状況だったので、悪事から抜けられなかったのもあったんです。私は同じ轍は踏みたくないんです」
「お気持ちは分かりました。ですが、それは里で許諾できるものなのか、論議しなくてはならない件です。今、私の一存ではお返事できないので、改めてご連絡します」
「はい、よろしくお願いします」
「あと、帰る前にもう一度病院で診察していただけますか? 取り調べ中に体調を崩されたとのことなので、大事を取っていただきたいのです」
「はい、分かりました。ご丁寧にありがとうございます」
その後、年配の世話人の女性が運転する車で佳子は病院まで連れて行ってもらった。
前回貰った薬が効いているのか、咳の回数が減っているので、引き続き同じ薬を貰って様子を見ることとなった。
とりあえず、医者からは自宅に帰って薬で療養を続ければ問題はないと言われた。
昼食後に再び迎えが来ると言われたので、それまでは帰りの支度をして待っていて欲しいと、佳子はその世話人から言われた。
佳子は再び部屋へと帰ってきて、しばらくベッドで放心していたが、やがてのろのろと私物を一か所にまとめ始めた。
帰る準備をしていると、ようやく長い苦しみが終わったのだと、喜びの感情が湧いてきた。
すると、そこへ大橋が配膳のために佳子のもとを訪ねて来た。気が付いたら、もう昼食の時間になっていた。
何故彼女が昼間に来たのかと佳子は疑問に思ったが、今日は土曜日で学校は休みのはずだった。それにしても、彼女と顔を会わすのも今日でお終いかと思うと、佳子は清々とした気持ちになった。
いつものように里香はお盆を乱暴に置くので、食器が音を立てた。彼女の不躾な振る舞いも、既に見慣れてしまっていたので、気にしなくなっていた。
今日はどんなことを言ってくるのだろうと、興味と恐ろしさが入り混じった気持ちを抱きつつも、「今日で取り調べは終わりなんです。今までありがとうございました」といつものように佳子は礼を述べた。
相手が非常識な人でも、自分までも礼儀を失いたくなかったからだ。
大橋は不機嫌な顔を隠しもせずに、仁王立ちして佳子に向き直っていた。
「とうとう白を切り通して、逃げ切ったみたいね~」
案の定、大橋は佳子に嫌味を言ってきた。しかし、佳子はそんな言葉に反応して不毛なやり取りをする気はなかったので、特に返事をしなかった。
「ホント、あんたってむかつく。あたしが何言っても、お高くとまって、いつも無視してさ! 何様だと思っているの!?」
いつも嫌味を言い捨てて、佳子の返事の有無に関わらず部屋から去って行くのに、最後になっていきなり逆切れを起こすとは思ってもみなかったので、佳子は驚いて唖然として大橋の方を見た。
「あたしの言うこと、全部嘘だと思って相手にしなかったんでしょ? でも、残念ながら全部本当のことなのよ? 今まであんたがハルと付き合っていたかもしれないけど、それももうお終い。ハルはあたしに返してもらうわ!」
佳子は大橋の勘違いや思い込みも甚だしい台詞を受けて、いい加減我慢の限界を超えた。
「一方的に喧嘩を売ってくる人に、何を言っても無駄だと思っていたんですよ。それに春人さんとは別れる予定はありません。そもそも、春人さんは貴女につき纏われて嫌がっていましたよ」
春人は大橋のことを疎んでいた。実際に佳子も彼女の人となりを見て、そう彼が感じるのも無理は無いかと思っていた。ところが、大橋は佳子の返事を聞いて、見下したように鼻で笑っていた。
「そんなの、ただのフリよ。貴女の前ではあたしはただの親戚ってことになっているから」
自分の都合の良いように話を解釈する大橋に嫌気がさして、佳子はため息をつく。
「春人さんは貴女のことをストーカーだと言っていた理由が良く分かりました。彼が貴女を拒絶しているのが分からないんですか?」
「ホント、あんたって話が通じないのね。そもそも、あんたはハルのこと何も分かってないのよ。彼は伯父さんや慶三郎さんには全然逆らえなくて、今回もそれであんたと嫌々付き合っていたのよ?」
大橋は本当に一体何を言い出すのかと佳子は困惑する。話が通じないのは、大橋の方だ。それに、春人のことをここまで馬鹿にするとは、本当に彼のことを好きなのだろうかと疑いたくなった。
「彼はちゃんと私のことを想ってくれていて、それで色々と親身になってくれたんです。貴女の方こそ、彼を」
「捜査のためだったのよ! お見合いから何もかも全部!」
大橋は苛立った様子で、殊更大きな声で話し出して、佳子の話を遮った。
「一上家には前から良くない噂が流れていたの。でも、あの一族は守りが堅過ぎて、なかなか手が出せなかったのよ。そんな時にあんたがハルにお見合いを申し込んだの。それを慶三郎さんが逆に利用して、春人にあんたから情報を引き出すように指示したのよ! 要はスパイだったっていう訳。あんたと付き合ったのだって、情報が欲しかっただけで、本当は好きでも何でもなかったのよ! あたしも仕事のためだと思って、今まで貴女とハルが仲良くしていたのを我慢していたんだからね!」
佳子は里香の叫びを受けて、全身が凍りついたように動かなくなった。