犯人
暴力的なシーンがあります。
低い呻き声を佳子は漏らすが、侵入者はそれに構わないどころか、生きていることを拒絶するかのように、次々と止めを刺すために、何度も刃を佳子へと振り下した。
侵入者の機械的な動きは、残酷な行為であるのにも関わらず、まるで作業をしているような感じであった。
布団ごと刺されていたので、身体の状態は上から見ただけでは分からなかったが、佳子の瞳は見開いたままで、呼吸は既に止まっているようだった。
侵入者は手に持っていた得物を一瞬で消すと、そのまま手を佳子の首へと伸ばして、脈を確かめる。
息の根が止まっていることが分かったのだろう、侵入者は鼻で微かに嗤ったようだった。
侵入者は死んだ佳子から離れて、入ってきた窓の方へと歩いて行く。それから何事もなく背中を向けて窓から出て行こうとした。その時、侵入者の背後から荒々しい物音がして、侵入者は即座に後ろを振り向く。
部屋にあった押し入れを突き破って、中から何かが飛び出してきた。細長い棒状のものが、凄まじい勢いで侵入者へ向かって真っ直ぐに飛んで行く。
その者は反射的に避けるように、窓から形振り構わず逃げ出し、勢い余って地面に転がり落ちた。
侵入者はすぐに体勢を直して立ち上がると、走って逃げだしたが、右腕の一部を避けきれずに掠ったようで、反対側の手でその個所を押さえていた。
「待ちなさい!」
侵入者の背後から窓枠を乗り越えながら声を荒らげたのは、殺されたはずの佳子だった。
佳子は裸足のまま、窓から飛び出して後を追いかける。そして、走りながら具現化の能力を使って、紐を何本も作ると、侵入者へ向かって凄まじい勢いで伸ばしていった。
侵入者が一上家の屋敷がある山へと侵入した時点で、見張り役だった妖怪に寝ていた佳子は叩き起こされて、報告を受けていたのだ。
こんな夜中に訪問してくる輩は不審な者だと思い、佳子は身の危険をいち早く察知した。
佳子は慌てて自分の身代りを具現能力で創り出すと、ベッドに寝かせて本物が寝ているように装った。そして、当の本人は押し入れの襖の奥に身を隠して、事の成り行きを見守ったのだった。
案の定、侵入者は佳子を襲撃して、冷酷な所業で命まで奪おうとした。
その侵入者の装いから、父を殺した人物と同一である可能性が高いと感じた佳子は、その者を捕えようと必死だった。初めての対人の戦闘に、佳子の心臓は緊張と興奮で激しく鼓動して、頭に血が完全に上っていた。
逃げていた侵入者の手足を幾重にも佳子の紐が巻きついて捕えようとしていた。
佳子は身柄を押さえるが出来たと喜んだが、侵入者は手元に紙を持っていて、何かを創り出していた。
父を殺したのと同じ、虎に似た化け物が現れた。
佳子はそれを見て、目の前にいる男こそ父を殺した犯人に違いないと確信した。
次々と繰り広げられる展開に佳子は思わず身震いしたが、余計な事に気を取られて、それに対応するための動作が遅すぎたため、佳子のもとへと無情にも化け物が襲い掛かってくる。
「きゃあ!」
化け物に攻撃されようとした矢先、足元から翔影が「アブナイ!」と現れて佳子を黒い膜で包み込んで隠してしまった。
外側からの攻撃は無効となり、虎の化け物は爪や鋭い牙で襲っているが、翔影はびくともしない。
身の安全を確保できた佳子だったが、視界までも遮断されてしまったため、外の様子が全く掴めなくなってしまう。
佳子は虎の化け物に応戦できるような龍の化け物を翔影の内部に創り出すと、「翔影、防御を解除して!」と叫んだ。防御が解けた瞬間に、龍が虎に突進してゆき、目の前で壮絶な戦いを始め出した。
佳子は辺りを見回して、自分を襲った犯人を捜したが、すでに時遅かったのか、完全に見失ってしまった。
その間にも龍が虎の首を噛み切って、長い胴体で身体を締めあげたところ、損傷により具現の能力を維持できなくなったらしく、敵は白い煙となって目の前から消えた。
佳子の身に迫る脅威は無くなったが、肝心の犯人をみすみす逃してしまった。
佳子は悔しさのあまりに、顔を歪めた。佳子の口から吐き出される息が白い。未明の外気は酷く冷え込んでいるはずなのに、佳子の感覚が麻痺してしまっているのか、興奮のためなのか、全く寒さを感じなかった。
気が付くと、佳子の握り締めた手の平に自分の爪が喰い込んでいた。
翌朝、正の運転する車に乗って、佳子は里へと向かっていた。
佳子の格好は、久しぶりに和装だった。淡い白緑色に染めた生地に、優雅に咲き誇る花々が華やかに描かれた訪問着を着ていた。その上に黒の着物用のコートを羽織っている。
佳子がこの着物を選んだのには、理由があった。
呉服屋に仕立ててもらう時に、生地選びで佳子と母との意見が割れてしまったことがあった。いつものように母の主張が通りそうな時に、父の協力でお陰で佳子の主張を通すことが出来たもののだ。
しかし、母が良い顔をしないので、この着物に袖を通す機会は今までほとんど無かった。
些細な事だが、これを着ることで佳子は自分なりの覚悟を示したつもりだった。
長い髪を一つにまとめて、自分のお気に入りの髪留めを飾り、顔には化粧を丁寧に施していた。古い眼鏡は止めて、やっと購入した使い捨てコンタクトを使用している。
同じように同乗していた正の妻の美智子と一人息子の正太郎は、久しぶりの帰省ということもあり、楽しそうに会話をしていた。
佳子は車窓を眺めながら、それを上の空で聞き流していた。考えていたのは、昨日の襲撃者についてだった。
あの者は佳子を明確な殺意でもって始末しようとしていた。何故、佳子を殺さなくてはならなかったのか。佳子が死ぬと、犯人はどんな利益を得るのか。
佳子は今までの出来事を思い浮かべて、情報を整理していく。
佳子の中で一つの結論が導かれていくが、自分自身はそれを信じることができなかった。自分の理性が、その事実を拒絶している。深い霧が視界を覆うように遮り、目の前にあるはずの景色が見えないようだった。
はっきりと答えを出せないまま、佳子を乗せた車は復讐の舞台である里へと近づいてゆく。
襲撃された後、再び寝られる精神状態ではなかったため、睡眠時間はほとんど取れなかった。それでも、一度興奮状態になった脳内は冷め止まず、佳子は息をつく余裕もなかった。
途中、目撃者のきのこの妖怪のところへ寄り道をしてもらい、佳子は再びあの妖怪と対面することとなった。
佳子の手で地面から引き離されたきのこは、佳子の袖の下の袂に入れられた。意外に居心地が良いらしく、微かにきのこの鼻歌が聞こえてきていた。
午前中のうちに里へ無事に着いて、佳子は五月家の敷地の前で正の車から降ろしてもらった。
正たちはこれから美智子の実家の二木家へ向かう予定だったため、佳子は車が走り去って行くのを見送った。
佳子の荷物は手提げかばんのみであった。後ほど、二木家で正と合流する予定だったので、着替えが入った佳子の旅行鞄は、車の中に預けたままだった。
佳子は春人の実家を訪ねるのは初めてだったため、緊張しながら辺りを見回して様子を窺う。
私道を挟んで左手に住居用の二階建ての家が建っていて、右手には道場らしき平屋の長方形型の建物があった。 雑木林がそれらの建物の裏手に生えていて、鬱蒼と茂っていた。辺りは人気がなく、静かだった。
佳子は誰にも会わないまま、家へと向かって歩いて行く。五月家と書かれた表札を見て、佳子は玄関の軒下で立ち止まった。そして、佳子が呼び鈴を鳴らそうとした時に、前触れもなくいきなり玄関の戸が開いたので、非常に驚いた。
戸を開けた人物も同様に驚いた顔をしていた。
目の前にいるのは、三十代くらいの短髪の男性で、紺色の道着を着用していた。
佳子は細く切れ長の目をしたこの男性に見覚えがあり、ここが五月家ということで、すぐに思い出した。
今年の夏に里で集まりが会った時に、自分を当主として紹介したいからと、分家の主と共に挨拶をした際に、顔を合わせたことがあったのだ。下の名前までは知らなかったが、この男こそ五月家の現当主だった。
つまり、春人の義理の兄のはずだ。
「あの、」
佳子は挨拶を口にしようとしたが、それよりも早く春人の兄は愛想の良い表情を浮かべると、「貴女は、一上佳子さんですよね」と無駄に良い声が彼の口から聞こえて来た。
耳に残る低くて艶のある声に、佳子は一瞬意識を奪われた。




