母の囁き
今日は天気が良かったので、佳子は久しぶりに落ち着いた気分で庭を散策していた。
正が手入れをしてくれている庭は、いつも綺麗に整理されている。
いつの間にか、寒椿の花が咲き始めていて、佳子はそれを眺めて心を和ませていた。
その時、車のエンジン音が敷地内に入り込んで、佳子のところまで響いてきた。
どこからか来客が来たようだと思い、佳子は庭から移動して玄関前へと足を運ぶ。
佳子の視界に入ってきたのは、車から降りる佳子の母と見知らぬ男性の姿。
母を見にした途端、前回送られてきた不愉快な写真のことを思い出して、佳子は顔を思わず歪めそうになった。
「あら、お久しぶりね、佳子さん。話があるから、上がらせてもらうわよ」
母は佳子の了解の返事を待たずに、家の玄関へと進んで行き、鍵の掛かっていない戸を開けて入って行った。
男もそれに続いていく。
佳子はこれ見よがしに大げさにため息をつくと、彼らの後を追うように屋敷の中へと戻って行った。
「話と云うのはね、実は私、結婚しようと思うの」
佳子は驚いて母の顔を凝視した。そして、次に母の隣にいる男性へ視線を送る。
母の再婚相手を思われる男性は母よりも若干年齢は上のようだが、釣り合いとしては良い感じだった。
顔つきは平凡で、大人しそうな印象の人だった。和服好きな母とは違い、この男性は年に相応しい落ち着いた洋服を選んで身に着けていた。
「ええと、隣にいる方とですか?」
「そうですよ。正治さんというの。素敵な方でしょ?」
そう言って少女のように目を輝かせて、恥じらいながら男性を紹介する母の姿は、今まで佳子が見て来た悪鬼のような態度が嘘のようであった。
佳子が一人暮らしで好き放題して春人と会っているのにも関わらず、母が実家からこの家に戻ってこなかったのは、佳子が極貧生活に根を上げるのを待っていたからでもなく、優雅な実家暮らしを手放すのが惜しいからではなく、この正治が原因だったのかもしれない。
「それはおめでとうございます。母のこと、よろしくお願いします」
正治がどんな人なのか全然佳子は知らなかったが、母のことを丸ごと引き受けてくれるなら、佳子は諸手を上げて賛成したい気分だった。
これを機に、佳子のことは二の次になって欲しい。
「それでね、入籍の時期なんですけど、娘の貴女より先に幸せになるのはまずいでしょう? 早く高志さんと落ち着いてもらおうと思って、今日は来たんですよ?」
鬼母といえども、母は母だった。やはり母なりに佳子のことが気がかりなのだ。
その心配が佳子にとって、明後日の方向で余計なお世話になっているのが残念でならない。
「私のことを気にされる必要はないですよ? お祝い事はいくらでもあっていいんですから!」
佳子は必死に言い返すが、母には全く通用しない。
母は手提げ鞄から、一通の封筒を差し出して、そこから何か紙を取り出した。
紙と思ったのは、写真だった。何枚かあり、母はそれらを食卓の上に並べるように置いた。
前回と同じで、春人が制服姿で写っていた。ボーリング場にいるようで、他にも同じように制服を来た男女がいて、彼はそこに混じっているようだった。
これも隠し撮りなのか、誰もカメラの方を見ていない。
「またこそこそと彼のことを探っていたんですか? いい加減、止めたらいかがですか!?」
佳子が母を責めたところ、逆に恐ろしげに睨み返されて、思わず二の句が継げなくなった。
「この写真を見て、まだそんなことが言えるの?」
母がそう言って、重なった写真の束の中から提示した一枚には、春人が女の人と抱き合っている姿が写されていた。
女性は春人の胸の中に飛び込むように抱きついていて、両手をしっかりと彼の背中に回している。彼はその彼女の肩に手を置いていた。
胸に突き刺さるような痛みが走るのを、佳子は感じた。
女性の姿を良く見ると、彼女は前回も見た人と同じだった。確か大橋里香と手紙に書いてあった気がした。
(大橋という彼女も一緒に遊んでいたの?)
ただの親戚づきあいでしか、彼女と接していないはずではなかったのだろうか。春人から楽しげに交友するような関係とは佳子は聞いていなかった。
佳子は微かに生まれた猜疑心を消し去ることが出来なかった。しかし、母の手前であったため、それをおくびにも出さないようにしなくてはならない。佳子が隙を見せれば、母はこれ幸いにと攻撃の手を繰り出してくるだろう。
「たまたま遊んでいて、ふざけていただけではないですか? 私は春人さんを信じています。お母様の作戦には引っ掛かりませんよ?」
「まだ写真はあるんですよ?」
次に母が見せた写真では、春人が大橋と腕を組んでいるところだった。彼女の手が春人の腕に掛けられて、誰かと向き合って話しているところだった。それが目に焼き付いて、佳子の心に動揺が走る。
「止めてください。こんな隠し撮り、意味無いです!」
佳子は思わず叫ぶように大声を出してしまった。
「ふふ、流石に慌てだしたわね?」
母の台詞に自分の失態に気付いた佳子だったが、すでに遅かった。
「ねえ、佳子さん、そろそろ目を覚ました方がいいですよ? 彼は始めから貴女を騙しているんです。彼の本命は彼女だって言っていたでしょう? 嫌っているなんて嘘。貴女が分からない所で、こそこそと会っているのが良い証拠じゃないですか」
「彼は彼女に付き纏われているだけなんです。だけど親戚だから、冷たくあしらえないって、彼も困っているんですよ。お母様は私と彼を別れさせたくて、彼を悪くいっているだけだわ!」
必死に言い訳する佳子を、母は薄く笑いながら見つめていた。「ねえ佳子……」と猫撫で声で話し掛けてくるのが、佳子はただ恐ろしかった。
「彼のような男前の男性に優しくされて好きだと言われたら、落ちない女はいないでしょうね。貴女がその気になるのも無理は無いと思うわ。だけど、現実を見て頂戴。この写真の中にもその証拠写真はあるけど、彼は試験期間中、お昼で学校が終わった後、自宅で彼女と連日ずっと会っていたんですよ。試験が終わったと思ったら、彼女とこうしてデートをして、あなたにばれていないと思って、影で堂々と裏切っているんです」
母の言葉が悪魔の囁きのようにじわじわと佳子を蝕んでいくようだった。
それは冷静な気持ちを隅の方へ押しやり、心の中に重苦しい感情を植え付けて行った。
「いずれ、貴女は捨てられるでしょう。でも、母はそんな貴女を見捨てやしませんよ。正気に戻ったならば、いつでも仲直りしていいんですからね?」
母は春人の裏切りを確実なものと思っているのか、余裕のある態度で、優しく情け深い台詞を語っていく。
佳子は反撃の勢いをすっかり殺がれて、ただ黙って聞いているしかできなかった。
「そうそう、もうすぐ年末の集まりがあって、佳子も招待されているんですよ。今日はその招待状も持って来たんです。佳子も来てくれるわよね? 久しぶりに親子水入らずで過ごしたいわ……」
勝ち誇ったように上機嫌な母は、鞄から白い封筒を取り出して、佳子へ向かって食卓の上に差し出すと、正治と仲良さげに帰って行った。
佳子は白い封筒に視線を送る。それから佳子は中身を確認するかどうか迷ったものの、すぐに母の話したことが気になって、封を開けてしまう。そこには写真の束が入っていた。
佳子が一つ一つ写真を手に取って見てみると、それぞれ右下の隅の方に日付が入っていた。五月家を出入りしている大橋里香とそれを玄関で見送る春人が、三日間連日で写っていた。
”自宅で彼女と連日ずっと会っていたんですよ”
母の言葉が佳子の頭の中を駆け巡って、不安でいっぱいにさせる。
「一体、どういうことなの…?」
食卓の上に残された、写真の中の春人は、佳子に何も弁明をしてくれなかった。