雨の日の再会
お見合いの三日前、佳子が如月と再会したのは、雨降りの薄暮だった。
(――雨の日は嫌いじゃない。雨音が周りの余計な騒音を遮ってくれて、傘の中だけ自分の世界のような気がするから。)
日が沈んでゆく街中、一上佳子は傘を差して、綺麗に舗装された歩道を歩いていた。傘に手を添える左手首には、スーパーの袋がぶら下がっている。
佳子はレジのパート勤めを終えて、通い慣れた帰路の途中である。
あいにくの天気のせいか、行き交う歩行者の数は少ない。ガードレール越しの車道を次々と通り過ぎる車は、前照灯を点けて走っていた。その照明によって空間が明るく照らされるので、車が通り過ぎる一瞬だけ、地面に向けて降り注ぐ雨の姿を捉えることができる。
雨の勢いは比較的強く、排水溝に雨水が流れ込んでいる。窪んだアスファルトの表面には、所々水溜まりが出来ていた。
(――雨の日は嫌いじゃない。でも、歩道の脇を傍若無人に走る車は嫌い。)
路肩側にあった大きな水溜まりの上を、減速もせずに一台の車が佳子の脇を通り抜けていく。車輪によって飛び散る大量の水しぶき。それは運悪く側にいた佳子の方へと飛んできた。
ぼんやりと歩いていた佳子が気付いた時には、着ていた服に泥水がかけられて、主に下半身のスカート部分が酷いことになっていた。
服を汚した犯人である車の後ろ姿を睨みつけるが、そんな佳子に気付かずに走り去ってゆく。
小さくなって遠ざかってゆく尾灯を唖然としてしばらく見つめていた。
「あー、もう!」
苛立ちを隠さずに声を上げると、それに対して応えてくれるモノがいた。
「ダイジョウブ?」
低く籠ったような、その声は佳子の足元から聞こえてきた。正確には佳子の足の下の地面から。
佳子の黒い影が、光の加減を無視して流動的にモゾモゾと動いた。
「もう家に帰るだけだから、大丈夫よ」
佳子は返事をして、再び歩き始めた。
佳子がイライラとして不機嫌なままでいると、側にいるモノたちが不安になる。そのため、意識して気分を持ち直そうとした。
家に帰ってすぐに服を着替えれば、布が素肌に張り付く気持ち悪い感じともおさらばできる。それまでの辛抱だ。
スカートの汚れがきちんと落ちるか気になったが、彼らに何とかしてもらおうと前向きに考える。
佳子の頭の中には、家事を手伝ってくれるモノたちの姿が浮かんでいた。
現世の理を外れた、普通なら存在しないものとして目に映らない彼ら。
妖怪、物の怪、妖。
様々な呼び名が彼らにはあるが、それらが見える自分は一体何者なのだろうと思う時がある。
佳子の家は小さな山の中腹にあり、他人の住宅はない。公道から続く山道は、配達員以外通らず、身内専用となっている。
アスファルト舗装された道から、砂利が敷き詰められたものへと変わってゆく。
佳子が黙って歩いていると、後ろから急に「おい」と声を掛けられた。
佳子が立ち止まって後ろを振り向くと、彼女と同じように傘を差した男が一人立っている。
紺色の傘は、その男の首から上を隠していた。
「誰ですか?」
突然現れた男に警戒をしつつ、佳子が尋ねる。
男は傘を持ち上げて、自分の顔を佳子の方へと見せた。
「お久しぶり」
何か含みのある楽しげな表情を浮かべながら、眼差しを佳子へ向けて、若い男は挨拶をした。
暗い中でも分かる程、彼の肌の色は白く、自分を見つめる涼しげな奥二重の目元。そして恐ろしいほど整った顔をしている。
適当に伸ばした艶のある髪は後ろで一つに束ねられているが、顎まで伸びた前髪が頬にかかっている。
長袖のTシャツにジーパンと云うラフな格好は、どこにでもいる人間と変わりはない。
彼の本性もまた、人ではないけれども。
「如月だったの」
見知った顔に佳子は驚いた声を上げて、男の名前を呼んだ。
そして、まじまじと“如月”と呼んだ男の姿を見つめる。
「久しぶり。相変わらず、神出鬼没ね」
佳子は苦笑を浮かべながら、如月に話しかける。
如月は破顔して佳子に近づいてきた。
端正な顔は表情を崩しても見応えがある。
久しぶりに会ったこともあって思わず彼の姿に佳子が見とれると、それに気付いた如月が片手を佳子の頬へ伸ばした。
頬に触れた彼の手は、一瞬ドキリとするくらい冷たかった。
「そんなに見つめられると困るな。俺に会えたのがそんなに嬉しかった?」
フェロモン垂れ流しの、艶やかな笑みを浮かべて佳子の顔を覗き見る。
それでなくても心臓に悪い美貌なのに、意図的に色気まで付けられると、恋愛経験の無い佳子には太刀打ちできない。
言われた科白も、佳子を慌てさせるには十分だった。
「な、何言ってるの? 人をからかうのは止めて!」
思わず頬に触られた手を払いのけると、赤面しているのがばれないように佳子は如月から顔を背けた。
「まったく、顔の良い男は自意識過剰なんだから」
ぶつぶつと文句を言うと、クスリと笑う声が聞こえる。
「お褒めに預かり光栄だね」
彼が可笑しそうに佳子へ切り返す。
如月は人をからかうのが大好きなのだ。
彼に会うのは久しぶりだったから、うっかりしていた。
佳子は落ち着かない気持ちを上手く誤魔化しつつ、後ろを振り返る。
「とりあえず、立ち話もなんだから、家に来ない?」
「親御さん、いるんじゃないの?」
「大丈夫、実家へ帰ったから」
「ん?」
「喧嘩したら出て行ったの」
「そうなんだ」
佳子と如月は、並んで歩き始めた。
現在、佳子は広い平屋の屋敷に一人暮らしだ。
以前は母親と女中との三人暮らしだったが、今回のお見合いの件で激怒した母親と喧嘩したら、女中を引き連れて実家へ帰ってしまったのだ。
人ではない如月を家へ招いても、咎める者は誰もいない。
佳子たちが自宅に着いた時は、すっかり辺りは暗くなっていた。
佳子しか住んでいない屋敷の中は無人のはずだが、屋敷の中に明かりが灯っていた。
軒先で二人とも傘を畳み、佳子が玄関の鍵を開けて、引き戸を開ける。
「おかえりなさいませ~」
甲高い声が屋敷の奥から聞こえてくる。
声のした方からペタペタと足音を立てて、玄関に向かってくる存在があった。
佳子たちのいる玄関先に現れたそれは、ボロボロの薄汚れた大きな布を頭から足元まで被ったモノ。
人のように手足が生えていて、二本足で立っている。大きさは子供くらいだった。顔と思われる部分には丸い二つの穴が空いている。
隙間から不気味に光る瞳がたまに見え、その右手には料理で使うおたまが握られていた。
「ただいま、シロ」
佳子は“シロ”と呼んだ妖怪に挨拶をする。土間にある傘立てに使っていた傘を置くと靴を脱いで屋敷に上がった。
そんな佳子の姿を下駄箱のわずかな隙間――真っ暗な空間から覗いている幾つもの瞳。
玄関から真っ直ぐ廊下が続いており、先に進むと台所がある。
廊下の左手にはガラスの引き戸があり、居間となっていて、その逆の右手には仏間の部屋とトイレがあった。
台所でシロが何か作っているのか、ここまで食べ物の匂いが漂っている。
佳子はシロにスーパーの袋を渡した。
「お邪魔するね」
如月も挨拶して佳子に続く。
シロは廊下の先にある台所へ消えていった。
佳子は歩いて居間に入ると、後ろにいる如月に「ここで適当に寛いでいて」と声を掛けて、隣にある自分の部屋へ移動した。居間の両側に部屋があり、その一つを自室として使っていた。
部屋の戸を閉めて、自分の服を見下ろす。
汚れたのはスカートだけかと思いきや、上着の裾の部分にも汚れがついていた。
佳子はすぐに着ていた衣類を脱ぎ始める。
上下共に脱ぎ捨てて下着のみになってタンスから新しい服を取り出していると、さっき閉めたはずの部屋の戸が開いた。
「冷蔵庫に飲み物とか……」
声もかけずに戸を開け放ったのは、如月だ。
下着姿の佳子の格好を見て、言いかけた科白を飲み込んだ。
予想もしない出来ごとに思わず佳子は頭が真っ白になり、固まる。
「あー、ごめんね」
如月は居心地の悪そうな表情を浮かべて視線を佳子から外すと、すぐに戸を閉めて姿を消した。
佳子は顔から火が出るくらい恥ずかしい。混乱のあまり、声も出ない。
(とんでもない姿を見られた! しかも、今日に限って適当な下着のチョイス。色気のかけらもない、地味なものだ。上下もお揃いじゃないし。胸だって貧層だし……。)
慌てた佳子の脳内は、パニックになっていたが、慎ましい自分の胸を見下ろしたところで、急に冷静になった。
(そもそも、なんで私がそんなことを気にしなくてはならないの!? もとはと云えば、非常識な彼のせいで恥ずかしい目にあってしまったのに……)
そう思うと、佳子の頭にむくむくと怒りの感情が芽生えてくる。
「ノックぐらいしてよ!」
若干のブランクの後に正気に戻った佳子が如月へ文句を言ったが、戸の向こうに消えた彼に聞こえていたのかは定かではない。