来訪者たち 1
土曜日の午前中は、春人は自宅に隣接する道場で鍛錬をしたり、経験の浅い門下生に対して指導の手伝いをしていたりしていた。
ちょうど昼の休憩時間になったので、春人は一足早く一人で自宅へ戻り、玄関から上がって廊下を歩いていると、居間で大橋里香が義父と座りながら何やら話している姿が目に留まった。
以前なら自宅に大橋がいるだけで、春人は憂鬱な気分になっていたしかし、昨晩義父への説得が成功して、自分の気持ちを理解してもらえたので、今日はそこまで気分は沈まなかった。
大橋は春人の姿を発見するや否や、急いで立ち上がり、廊下にいた春人の元へとやってくる。
「ハル、お疲れ! ちょっと試験勉強していて分からないところがあったから、教えてくれない?」
彼女にそう言われて、来週には期末試験が始まることを春人は思い出した。
春人には普段から学習の習慣があったため、教科書から出題される学校の試験のために、直前になって必死に勉強するような状況には陥っていなかった。
「昼食の後なら、少し時間は取れますが」
あれから大橋は宣言通り、春人の気を無理に引くような言動はせず、節度を持って友達のような接し方をしてきていた。
他の女性なら関わるのが面倒くさくて、拒絶する様な態度を取るのだが、大橋はもともと親戚ということもあり、恋愛が絡まないなら彼女との友誼を無下には出来なかった。
そのため、勉強が目的なら少しくらい時間を割いても構わないと思うようになっていた。
「ありがと! 頭が良い友達って少ないから助かる!」
明るく感謝を伝える大橋のこの様子を見るだけなら、義父たちにはとても良い娘に見えるのだろう。そう思いながら、春人は自室にて汗で濡れた道着から私服へと着替えた。
台所へ行くと、大橋と義姉の夕輝が一緒に昼食の用意をしていた。その夕輝の足元には、陽菜がしがみついている。
今日は夕輝が台所担当で、彼女が作る料理は洋食が多く、パスタと温野菜のサラダを皿の上に盛っていた。
「里香さん、スープの用意をお願いします」
「はーい、任せてください!」
ハキハキと里香は返事して、夕輝の指示通りに動いていた。
春人も飲み物やグラスを出して、食事の用意を手伝った。
遅れて義兄の慶三郎や、義父もやってきて、席に座ると家族全員が揃っての昼食が始まった。
ちょうど昼時に訪ねて来た大橋は、家族に昼食に誘われたらしく、一緒に席について食事をしていた。
春人にはしつこく映る大橋だったが、言い方を変えれば人懐こいとも言えるので、すっかり五月家に馴染んでいた。
「そういえば、クリスマスのイルミネーションの飾りつけが始まりましたよね」
大橋が楽しそうに話題を振って来た。
十二月に入って、里にある近所の商店街や、近隣の都会では、クリスマスの雰囲気に染まり始めた。
「そうだね。クリスマスが過ぎたら年末だし、あっという間に一年が過ぎるよ」
慶三郎がしみじみと返事をした。
「テストを乗り越えて、クリスマスを楽しみたいです!」
その後も大橋が中心で話題を振って、いつもより会話が多く賑やかに食事は終わった。普段なら陽菜のお世話で大人の注目が集まるのだが、今日は大橋の独占だった。
「ハルの部屋に行って勉強しようよ?」
大橋にそう言われたが、春人は部屋で二人きりになるのは避けたかったので、「居間で待っていてください」と切り返した。一応、警戒は怠らない。春人が自室に行って筆記用具を持って居間へ行くと、教科書とノートを何冊かテーブルの上に置いて、大橋はその側に座って待っていた。
春人の都合の悪いことに、居間には大橋以外誰もいない。
「どこが分からないんですか?」
春人は近づいて、大橋の横に座りながら尋ねた。
「この数学の問題なんだけど……」
大橋は教科書に載っていた問題を指差した。
「ああ、これはこの公式を使うんですよ」
春人は既に解いていたものだったので、すぐにその解き方を思い出して、展開を書きながら説明を始めた。
「ああ、なるほどね~。そうやって解くんだ!」
一つの問題が終わると、大橋は次から次へと質問を繰り広げて来た。
やっと数学が終わったら、次は英語、その次は古典と、結局ほとんどの教科の面倒を見させられた気がした。
春人が気が付くと、夕方に時間帯は差しかかっていた。
何だかんだで大橋と一緒に勉強をしてしまった。彼女の態度は真面目だったため、もともと試験勉強する予定だった春人は、途中で中断する理由がなかったからだ。
「長い時間付き合って貰ってありがとうね。今度何かお礼するよ!」
「いえ、お礼は結構です。それよりも、そろそろ帰らなくていいんですか?」
次の接触の機会を与えるのはどうかと思い、春人はばっさりと断って帰宅を促してみた。
目的の勉強が終わったのだから、大橋には早く帰って欲しかった。
「うん、大丈夫だよ。ハルの家ならいくら遅くなっても、うちの親は心配しないし!」
やはり大橋には遠まわしな言い方は通用しないようだった。彼女は勉強道具を片付けるものの、帰るそぶりは全く見せなかった。
「すいませんが、私は道場に行くので、これで失礼しますよ」
春人が家からいなくなれば、大橋とこれ以上付き合わずに済む。そう思って、当初予定に入れて無かった稽古をすることにした。
春人が立ち上がって居間から出ようとすると、大橋の自分を呼び止める声が後ろから聞こえた。
春人が振り返って大橋を見ると、取り乱した様子で彼女は立ち上がり、「ハルに謝りたいことがあるの」と深刻そうに呟いた。
「謝りたいこと? 何のことですか?」
大橋の予想外の台詞に、春人は面食らった。しかし、何を謝罪されても、春人の彼女への評価が好転するとは思えなかったが。
「あたし、昔ハルに酷い事言ったでしょ? それをずっと謝りたかったの」
「……そうですか」
春人は今更だと思いながら、相槌を打った。
「小さい頃、あたしハルが羨ましかったの。親戚の大人たち皆に優しくされて、注目の的で。うちのお母さんまでハルに同情して面倒みなきゃ駄目だよって、あたしに言ってきたのよ。なんであたしより可愛くて、同い年の男の子の面倒みなきゃいけないのかって、逆恨みしちゃったのよ」
「はあ……」
春人は呆れて適当な言葉しか出なかった。
「それからハルは礼儀正しいし、真面目で勉強もできたでしょ? 親戚でもすごく評判が良くなって、いつもうちの親にハルを見習いなさいって比べられて面白くなかったのよ」
春人はそれに対して何と返事すればいいのか、分からなかった。
「だから、つい点数稼ぎだって、心にも無い事を言っちゃったのよ。ごめんね」
「そうですか……」
大橋が自分の言った台詞を覚えていた事に、春人は驚いた。後味の悪い思いが、彼女の中に残っていたのかもしれない。しかし、今の大橋の話が本当で、謝罪の気持ちも嘘偽りがないとしても、やはり彼女の性格は春人にとって理解しがたいものがあった。それゆえ、春人の彼女に対する態度は変わることはなかった。
「もう昔のことですから、いいですよ」
素っ気なく春人が感想を述べると、里香が顔色を変えた。
「良くないよ! あたしが夏祭りの後に、ハルに近づいたのも、皆がハルに注目したせいだと思っているでしょ?」
「そうじゃないんですか?」
大橋の行動を見れば、春人はそれ以外に考えられなかった。
「違うよ! 本当はずっと前から、ハルのこと気になっていたのよ! でも、今まで逆恨みして話もしなかったでしょ? どうやって仲良くなればいいのか、悩んでいたの。そんな時、ハルが優勝したせいで里の女の子たちにハルが纏わりつかれるようになって、彼女たちの誰かとハルが付き合うんじゃないかと焦って、あたしも急に接近しただけなの」
ずっと前から気になっていたと言われても、春人は素直に信じられなかった。
大橋は高校に入ってから、何人かの男と交際していたと噂を聞いたことがあったからだ。
「そうですか。でも、もう私は佳子さんと婚約しましたし、貴女とは……」
「一上家との婚約は、その、訳ありで、お互い特別な気持ちは無いんでしょ?」
春人が言い終わる前に、大橋がそれを早口で遮った。
その言葉の内容から、義父が大橋へ一上家の婚約についての裏情報を漏らしてしまったのだと、春人は気付いた。
大橋の態度が急に変わって、学校で友人を名乗って自分に接するようになったのも、春人がただ単に偽装婚約しただけだと知っていたからだ。
春人がそのうち婚約破棄する機会を、虎視眈々と彼女は側にいて待っていたのだ。そう考えて、春人は改めて大橋という女が恐ろしく感じた。
「佳子さんが好きなんです。彼女とは真剣に付き合っています」
はっきりと事実を告げることで、大橋につけ入る隙を与えないようにするのが一番だと感じた。
「あたしにまでお芝居する必要はないんだよ? 今は二人きりだしね?」
「嘘ではありませんよ。義父さんも義兄さんも知っていることです」
春人は頑なな態度を崩さず大橋に告げると、ようやく彼女も何か察したらしく、顔を強張らせた。
「ふーん、そうなんだ……」
低く不機嫌そうに呟いた大橋から、笑みが消えて無表情になった。突然の彼女の豹変に、春人は胸騒ぎがした。
大橋は無言で春人を見つめる。その様子は、言い知れぬ不気味な雰囲気があった。彼女は唇を噛みしめ、内面に渦巻く激情をを堪えているようだった。
次にどんな反応が返ってくるのか――、と春人が警戒した時に、大橋は突然笑顔を作ると口を開いた。
「他人にまるで興味なんか無かったハルに、好きな人ができて良かったね! それでもさ、あたしとは友達として仲良くしてね!」
先程の暗い顔は嘘のように一変して、明るい口調で話しかけて来た。
春人は肩すかしをくらった気分だったが、結果的に大橋が納得してくれたようなので、安堵の胸をなでおろした。
無難に「はい」と春人は了承の返事をして、大橋との会話を早々に切り上げたかった。
「それじゃあ、あたし帰るね!」
明るく帰ろうとする大橋の態度に絆された春人は、せめて玄関までは見送ろうと思った。
居間の入り口で大橋が鞄を持って来るのを待っていると、玄関の呼び鈴が大きく鳴り響いて、来客の訪れを知らせた。
近くにいた春人が、その対応のために玄関の戸を開ける。
すると、外には一上佳子の母である政子が、凄みのある笑みを浮かべて立っていたのだった。