通い合う気持ち
カレンダーがもうすぐ十一月の終わりを告げていた。週末には新しい月が始まる。
佳子の家では、庭の寒椿の蕾が膨らんできて、そろそろ咲き始めようとしていた。
数年に一度、佳子が住む地域に雪が降る事があるが、白色が鮮やかな紅色の花に良く映えて、好きな冬の風景の一つだった。
先日の水曜日の夕方に、春人が佳子の家を訪ねて来た。
春人が来た次の日、つまり月曜日の夜に、深刻そうな声をした春人から電話があり、彼にあげた絵に父からのメッセージが残されていたと教えられたのだ。
春人が持ち帰った指輪が、それを再生するための鍵だったのだ。
「大至急、佳子さんに見て頂きたいんです。ちょうど明後日は午後の授業がないので、そちらに参ります」
突然の展開に興奮した佳子は、その申し出に一も二も無く了承した。
受話器を電話機に戻した佳子の手は、震えていた。
父は何を遺したのか――。その内容に期待が膨らむ一方で、一族の罪を春人に知られたかもしれないと思うと、佳子の胸は潰されそうだった。
佳子は不安と恐怖で、春人を出迎えることとなった。
佳子は居間に春人を案内した後、二人はお互い近くに腰を落ち着かせて、早急だったがさっそく本題に入った。
春人が持ってきたのは、佳子の姿絵だった。そして、その絵を再現する前に、春人は言った。
「今から再生する遺書ですが、実は申し訳ないことに、見てしまったんです。それを踏まえて言いますが、私は佳子さんの力になりたいと思っています」
春人は一体何を見て、佳子にそのような好意的なことを言ってくれるのか、佳子は皆目見当がつかなかった。
ただ、恐れで緊張していた佳子を安心させるには、その台詞は十分なものだった。
「ありがとうございます」
佳子は春人とその日に再会してから、初めて笑うことができた。
春人が姿絵を呼び出すと、佳子本人かどうか確認する質問があった。
一つ目の誕生日は簡単だったが、二つ目の場所を問う問題は、山の名前がうろ覚えだったため、戸惑ってしまったが、春人の手助けにより、何とかクリア出来た。
そして、とうとう父のメッセージを聞くことができた。
父が自分の父親を殺していたのは、衝撃だった。それで父は分家に逆らえずに、あそこまで追い込まれてしまったのだと、佳子はやっと理解できた。
そして、最後の父の言葉。日記が蔵の地下に隠してある――、という事実。
その父の日記が、分家にとって脅威となるものだとしたら、佳子がひたすら求めていた物になる。
逸る気持ちが湧く一方で、それを探す前に佳子にとって重大な課題がある。そう、目の前にいる春人であった。彼は佳子が今さっき知った事実を知っていながら、力になりたいと言っていた。
その意味を確かめるのも大事だが、その前に彼に懇願しなければならないことがあった。
佳子は春人の顔を食い入る様に見つめた。訪問してから落ち着いている態度の彼は、真剣な顔つきで佳子を見つめ返していた。
「春人さんに知られてしまった今、正直に全てを話したいと思いますが、一つだけお願いがあるんです」
「何ですか?」
「このことを今はまだ誰にも言わないで欲しいんです」
「……どうしてですか?」
春人は探るような目つきになった。自分が警戒されていると佳子は気付いて、回りくどい言い回しは避けようと決めた。
「私が分家に対して復讐をしたいからです」
「復讐、ですか?」
春人の表情に驚愕が広がる。
佳子は切々と父の死について語り始めた。ことの発端は、真吾のことだった。
自分の実子の存在を隠されて、一上元の庶子にされていたことに腹を立てて、分家と縁を切ることを父は決意した。
そのため、子供の認知と妻との離婚を、父が一族の罪をばらすと脅して、自分の要求を飲ませようとした結果、車の事故と見せかけて父が一族の者に殺された。
その主犯格の人物と思われる、分家の主であり佳子の祖父でもある、一上元。
佳子の復讐の目的として、父殺しの罪を彼に詰問して白状さえ、さらに掟を破り暗殺業に手を染めている件を告発することだった。
「ですから、私が本懐を遂げる前に、春人さんに先を越されると困るのです」
「話は分かりましたが、それは佳子さんが危険じゃないですか。そんな危ない真似は止めた方がいいと思います。
もっと別の方法を考えませんか?」
「もう決めたことなんです。大切だった父を殺した奴らを、自分の手で破滅に追い込んでやると。それが、この家に私が戻って来た目的だったんです」
「何を言っても、意思は変わらないんですか……?」
「そうです」
佳子が固い表情で深く頷くと、春人は悲しげに目を伏せた。そして、それ以上はその件について春人が追及することは無かった。
二人の間に、沈黙が流れた。
佳子は春人の心中が気になり、彼の動向を窺うしかなかった。
気まずい雰囲気の中では、一秒すら時間が過ぎるのが遅く感じて、耐えきれなくなった佳子が口を開きかけた時、春人が身じろぎした。
「いつ、それを実行するのですか?」
「まだ分かりません。ただ、年末に一族の集まりがありますので、それが一番の機会だと考えています」
「そうですか……」
そう答えたきり、再び春人が口を閉じてしまった。沈黙から逃れたかった佳子は、今度は自分から質問してみた。
「春人さんは、一上家の罪を知りながら、何故私の力になりたいと言ってくれたんですか? 一上家の人間である私のことを軽蔑しないのですか?」
佳子が密かに恐れていた事、それは春人が抱く自分への想いが、負のものへと変化することだった。
復讐も大事だったが、特別な感情を抱いていた人に、冷たい目を向けられるのは、想像するだけでも辛いことだった。
「佳子さんは、一族の罪には関与していないんですよね?」
「はい。一上家は、女は仕事には携われないんです。それに父が死ぬまで本当に全く知りませんでした。今思うと、父が守ってくれていたんですね」
「それなら、何も問題はありません。ただ、復讐の件は、やはり佳子さん一人では危険です」
「春人さん、それは……!」
「だから、私も手伝います」
佳子が反論しようとした矢先、春人の発言を聞いて驚き、思わず二の句が告げなかった。
「人手は沢山あった方がいいですよね? 幸いにも、私は頑丈ですし、立ち回りも得意です。何かあった時に佳子さんを守れると思うんです」
「でも……、春人さんには何の得にもなりませんし、むしろご迷惑では。何故そこまでしてくださるんですか?」
「それは…、ただ自分がそうしたいからです」
春人は恥ずかしそうに顔を伏せた。そして、彼は気まずげな表情をして、正座した膝の上に乗せた手を、きつく握りしめていた。
春人はそこまで自分のことを想っていてくれていたのだ。彼の気持ちの深さに、佳子は初めて気付いた。
そして、そんな彼に何も事情を説明せずに冷淡にも告白を断り続けていた自分。彼の真摯で誠実的な態度に、佳子は何も報いていないと感じた。
「本当は、春人さんが告白してくれた時、嬉しかったんです。私も貴方に惹かれていたから」
「えっ?」
春人は佳子の言葉に反応して、驚いた顔を佳子に向けた。
「でも、復讐や一族の罪の重さを考えると、貴方の想いを受け入れることが出来なくて。しかも、事情を言えなかったので、あんな言い方でしか断ることが出来なくて……。傷つけてしまってごめんなさい」
佳子は両手を前に揃えて畳につけると、春人に向かって深く頭を下げた。
「ほ、本当ですか? 今の話は? 私に惹かれていたって」
慌てた様子の春人がすぐに佳子の手を取って、握り締めて来た。佳子が頭を上げて彼を見ると、彼の表情には歓喜が浮かんでいた。
「はい、私も春人さんのことが、その、……好きです」
佳子は自分の気持ちを口に出すのに、恥ずかしくて抵抗を感じたが、それでも言わずにはいられなかった。
顔がみるみる赤くなるのが、佳子は自分でもよく分かった。
春人に握られた手に、神経が集中していて、心臓がドキドキと激しく鼓動している。
「じゃあ、もう我慢しなくていいんですね……」
春人は静かにそう言うと、佳子を抱き寄せて胸の中へと収めた。密着する春人の逞しい身体に、佳子はさらに緊張が高まる。
「佳子さん、私も好きです」
春人の告白が頭上に降り注いできて、佳子は反射的に上を向くと、自分をひた向きに見つめている春人と視線が交った。
佳子はその彼の瞳に吸い込まれそうな気がした。やがて、彼の顔が近づいてきたことに気付き、ゆっくりと佳子が目を閉じると、二人の唇が静かに重なり合った。




