遺書
慶三郎と話した後、自室へ戻った春人だったが、なかなかすぐに眠る気持ちにはなれなかった。
切なくなるほど好きで仕方が無い佳子を、忘れられる術はない。
外せなくなった指輪を見て、これが本当の彼女との結婚指輪だったらと、春人は思わずにはいられなかった。
春人は思わず彼女の亡き父の遺品を手に取って、「一上佳子、出でよ」と彼女の姿を求めてしまった。
絵から靄が浮き出て、彼女の姿を形づくっていく。その笑顔を添えた姿に、涙が出そうになった。
彼女の手を春人が握ると、作り物にも関わらず、彼女は春人の手を握り返してきた。あまりの出来の良さに、これが本物だったらと思わずにはいられなかった。
「覚醒の指輪をした者を、一上の当主と見なします」
突然、人形が話し出した。声までも佳子のものと同じだった。今まで呼び出しても無言のままだったはずなのに、いきなり話し始めた人形に、春人は驚いて動揺した。
「一上健一から佳子へと遺書があります。これは重要な内容なので、一人でご覧下さい。他の方がいる場合は、中断してください」
そう人形は言うと、しばらく無言だった。何が起こるのか分からなかったので、春人は黙ったまま様子を見守った。片時もその人形から目が離せなかった。
「本人確認のために二つ質問をします」
人形が話しを再開した。
「一上佳子の誕生日は?」
問われて春人は、咄嗟に思考を巡らせる。彼女は自分より三歳上で、先週佳子と会った時に七月二十日と聞いたのを思い出した。
「○○年7月20日です」
春人が答えると、人形は「正解です」と答えた。
「次の質問です。里へ帰郷した時に、父と二人きりで毎年一緒に行ったところは?」
春人は答えに詰まった。佳子と父親の思い出に関する問題は、当人しか分からないからである。一生懸命考えるが、二人が行ったところなど、春人が知るはずもない。
春人が諦めかけたその時、ふと山神様のことを思い出した。一か八か、その答えに掛けるしかない。そう思い、春人は「大見山」と答えた。
すると、人形は先程と同じ調子で、「正解です」と答えた。
どうやら春人は本人確認を突破したようだ。思わぬ展開に、春人は固唾を飲んで人形に視線を送る。
このやり取りを通じて分かったことは、春人が左手に嵌めた指輪が、呼び出すための鍵だったということ。
偶然とはいえ、それを手にした春人がそれを見ることとなるとは、思いもよらなかった。
しかし、春人はここまで来て、佳子にあてた遺書を自分が見てもいいものかと気付いたが、後の祭りだった。
「佳子、お前がこれを見ていると云うことは、僕は既に黄泉路へと旅立った後だろう。お前に何も語らず逝ってしまったことを考えて、これを残した。お前はもう高校三年生だ。卒業したら話そうと思って、お前にずっと隠してあったことがある」
春人は一言一句を忘れないように、熱心に聞き入った。
「それは、一上家が一の掟を長年破っていることだ。僕もその例外じゃない。僕は、人殺しを生業にしている」
春人の心臓が飛び跳ねそうだった。
(人殺し――。)
その言葉が、何度も春人の頭に響き渡った。
「佳子には残酷な話で申し訳ない。しかし、これは事実なんだ。もう何代も前から一上家に続いてきた悪しき因習だ。僕も本当は嫌悪しているが、そこから逃れられない。そういう風に自分を追い込んでしまった。僕は実の父親を殺してしまったんだ。僕の父、佳子にとって祖父になるが、あの人は精神的に弱い人で、酒浸りの生活をしていた。どうしようもなく病んでいて家族にまで暴力を振るう始末だった。今思うと父も可哀想な人だったけど、当時の僕にとっては鬼のような存在だった。……だから、思い詰めた僕は父を殺してしまったんだ。分家が後始末をしてくれたが、それから弱みを握られて、言われるままにずるずると……。ただ、女には仕事をさせないという慣わしのお陰で、佳子には辛い思いをさせなくて良かった。それだけは不幸中の幸いだった」
佳子の父親が、いや一上家が暗殺者だった。やはり噂は本当だったのだ――。その事実に、春人は背筋が寒くなり、身体の震えを感じた。
「僕が最後に言いたいのは、佳子には一族の運命に流されて欲しくないということだ。きっと僕が死んだら、佳子は分家の人間との結婚を強要されるだろう。逃げてもいい、他の人間を頼っていもいい。この負の連鎖を断ち切って欲しいんだ。僕ではなしえなかったことでも、佳子、お前なら、力に恵まれたお前なら出来ると信じている。僕の日記を蔵の地下に隠して置いてある。何かあったら、それを使って欲しい」
日記が蔵の地下にある――。このことを佳子は気付いているのだろうか。父の遺品を探していた彼女。もしかして、その探し物は、これのことだったのだろうか。今までの彼女の行動の謎が全て一つに繋がった気がした。
「佳子、お前に辛い現実を残して死んでしまってすまない。でも僕にとって、お前は宝で希望だったよ。ずっと大事に想っている」
佳子の人形は、「さようなら」と呟くと、元の煙に戻り、消えてしまった。
畳の上に残された絵を、春人はただ見つめることしかできなかった。
次の日の早朝に目覚めた春人は、一つの決心をする。五月家や佳子に対して、自分のとるべき行動を。
これからは、決して後悔したくなかった。