切れた義弟
慶三郎は娘の陽菜と風呂に入っている最中、自宅の駐車場に車が入ってくる音を聞いた。
恐らく、時間帯から帰宅した春人の車だと思われた。
昨日は父への説得に春人は失敗していた。父は頑固で、一上家に対して嫌悪しか持ち合わせておらず、全く聞き耳を持たなかったからだ。
さらにその時、父から一上佳子に会うことを禁じられていたが、それに逆らって春人は家を飛び出した。
春人が玄関の鍵を開けて入ってくる。
その音を居間にいた父は聞きつけたのか、玄関にいる春人に向かって父は何か怒鳴っていた。
「今は、放っておいてください!!」
慶三郎は信じられない声を聞いた。春人が大声を父に張り上げたからだ。
悲鳴に近いそれは、今にも泣きそうな程、辛そうだった。それから、春人は荒々しい足取りで廊下を進み、戸を激しく締める音が鳴り響いた。
続けざまに何か大きな物が倒れるような音がして、家が揺れた気がした。
(ヤバい。春人が切れている。)
慶三郎は急いで風呂を終わらせると、陽菜を夕輝に任せてから、春人達の様子を見に行った。
春人の部屋の前で、途方に暮れた顔をして立ち尽している父がいた。部屋の様子を知るために慶三郎が耳を澄ますと、部屋の中から春人が咽び泣いている声がしていた。
「親父、一体何があったんだ?」
「いや、その……、帰って来た春人を怒っただけだ。それなのに、急に春人が大声を上げて、部屋に閉じ籠ってしまったんだ」
「だから言ったじゃないか。頭ごなしに反対すれば、抵抗して反発ようになるって。春人なりに意思があるんだから、ちゃんと話を聞いてやらないと」
「なんだと! それじゃ、俺が全部悪いって言うのか! そもそも一上家を春人に調査させたのが間違っていたんじゃないのか? あいつに間者が向いてないのは、分かっていただろうに! まんまと相手に同情して弄ばれて、ミイラ取りがミイラになったじゃないか!」
「今更それを言われてもなぁ。俺も一上家のことは好きじゃないが、本家の当主は結構マシだと思っているよ。弄ぶなら、春人が告白した時点で断るなんておかしいだろう? 偽装の婚約話が終わるかもしれないのに、ちゃんと誠意を持って対応していると思うよ。春人だって、振られて気持ちを整理しようとしている最中なのに、親父が会うこと自体反対するから、思い詰めてしまったんじゃないか?」
慶三郎の言葉に、父は何も答えないまま、黙りこんでしまった。
「春人は俺に正直に話してくれたし、困っている彼女のために何かしたいと言っていた。その気持ちまで親父は駄目だと反対するのか?」
「いや、そこまでは……」
親父は気まずそうな表情を浮かべて、春人の部屋の戸を見つめた。
相変わらず、春人の泣き声が聞こえている。何か佳子とあったのかもしれない――。だから、しばらく時間を置いた後に尋ねてみようと慶三郎は考えた。
二時間後に慶三郎が再び春人の部屋の前に行ってみると、すでに泣き声は止んでいた。
春人の部屋の中から何も物音は聞こえない。春人は寝てしまったのかと慶三郎は思い、部屋の戸を静かに開けて、中の様子を見てみた。
部屋の中は真っ暗で、明かりがついていなかった。
廊下から漏れる明かりで、中の様子が辛うじて分かる。入口のすぐ脇にあった本棚が倒れていて、周りに本が散乱しており、部屋の状況は酷い有様だった。家が揺れるほどの大きな物音は、これが倒れた時のものだと分かった。
当の春人は部屋の隅で頭を下げたまま、膝を抱えて座り込んでいた。久しぶりに見る、落ち込み具合である。
「おい、腹は減ってないか? 親父も言い過ぎたと反省しているようだし、仲直りしたらどうだ?」
慶三郎が優しく声を掛けると、春人はゆっくりと頭を上げた。その目は死んだように虚ろに見えた。
「お腹は空いていません。私のことは放っておいてください……。義父さんについて怒っている訳ではないんです。さっきは失礼な態度ですいませんでした」
春人の力無い声に、よほどのことがあったのだと、慶三郎は感じた。
「一上佳子に何か言われたのか?」
慶三郎が質問を直球で投げかけると、春人は小さく肩を揺らした。そして、彼は再び顔を俯かせてしまった。
(図星か!)
失恋の傷は、時間を置いて落ち着くのを待つのが手だが、春人の場合は明日以降も落ち込んだままのような気がした。
「話した方が楽だぞ? とことん付き合うぞ」
慶三郎が部屋に入り、蛍光灯の電気をつけながら話しかけても、春人から返答はなかった。下を向いたままの、春人の黒い頭が見えるだけである。
慶三郎は入り口付近に腰を下して、春人の状況を見守ることにした。
長い時間、沈黙が続いた。そろそろ日付が変わる頃だった。
今日は話せるような気分ではなかったのかもしれない――。それならば、無理に口を割らせるような形になってしまうので、慶三郎は諦めて自分の部屋へと戻ろうとした。
慶三郎が身動きした時に、春人もつられるように動いて、顔を慶三郎へと向けていた。
「すいません、気を遣っていただいて……」
「何、水臭い事を言っているんだ。飯が残っていると思うから、何か食べて休んだらどうだ?」
「はい、そうします」
慶三郎は春人の素直な様子に胸をなでおろした。少しは春人の気分が浮上してきて、立ち直って来たようだと感じたからだ。しばらく側にいた甲斐があったものだと、慶三郎は嬉しくなる。
二人は台所へ移動して、春人は冷蔵庫にあった夕食をレンジで温め直していた。そして、ダイニングテーブルで春人は食事を始めた。その様子を同じく席に着きながら、慶三郎は見守っていた。
春人はご飯を食べ終わると、ポツリポツリと今日の出来事を話し始めた。
帰る間際に、佳子から来週を最後に会わない方がよいと言われた台詞が、春人にとって一番堪えているようだった。
しかし、慶三郎は何か引っかかるものを感じた。
「なんか、お前の話を聞いていると、何か事情があって彼女は付き合えないみたいで、その事情さえなければ、お前と付き合ってもいいような口ぶりだよな?」
「そ、それは本当ですか?」
今までの儚く弱弱しい態度は嘘のように、春人は目を輝かせて活き活きしだした。あまりの切り替えの早さに、慶三郎は可笑しくなる。
「いや、真に受けるなよ。あくまで俺の意見だからな」
「そ、そうですか。いや、そうですよね……」
慶三郎の言葉に一喜一憂して、再び落ち込む春人。他人に興味がなかった義弟が、このように一人の女性に振り回されるとは、慶三郎は感慨深いものを感じずにはいられなかった。
「お前の手にある指輪はどうしたんだ?」
慶三郎は春人の左手にある指輪に気付く。
「ああ、これは一上家の宝具なんです。取れなくなって仕方なく借りることとなって……」
「本当か!?」
慶三郎も指輪を抜こうと試してみたが、春人の説明通りに一向に動く様子はなかった。
「まるでこの指輪に呪われているようだな……」
「マイナス効果は今のところ、ありませんよ?」
「だってお前、左手の薬指って結婚指輪だぞ? 抜けなかったら、他の指輪を一生嵌められないぞ?」
「まあ、そういう意味ではまずいかもしれませんが、今のところは、そういう予定はないから大丈夫ですよ。学校へ行く時も、包帯で隠しますから騒がれないと思います」
慶三郎は意外と落ち着いている春人の様子を見て、指輪の件は問題無さそうだと感じた。
「とりあえず、今日は遅いし、もう寝た方がいいぞ」
「はい、そうします」
素直に返事をする春人を見て、安心した慶三郎は自室へと向かう。あの春人の様子なら、自暴自棄な真似はしないだろうと。慶三郎は自分もゆっくりと休むことにした。