シロの証言
妻の夕輝が夕飯の支度をしている最中に、春人が帰宅してきた。
シロが夕輝の隣で手伝いをしている姿を春人は目撃して驚いていたものの、慶三郎と顔を合わせると、「ただいま戻りました」と軽く挨拶をして普段通りに自分の部屋へ入って行った。
いつもと変わりの無い春人の様子は、慶三郎を安堵させる。
土曜日の昨日、シロという名前の妖怪を春人が連れ帰って来ていたが、凶暴な上で手が負えないということで、義弟の春人は階段下収納にそれを閉じ込めていた。
しかし、そこから啜り泣く声が絶え間なく聞こえてきて、非常に気味が悪い状況だった。
嫁の夕輝が同情して、あまりにも可哀想だと訴えるので、春人が外出している最中にこっそり出してやったところ、シロは想像に反して非常に礼儀正しく、我々に感謝を伝えて来た。
そして、「なんでもしますから、ころさないでください」と幼い子供の様な口調で、シロは怯えながら慶三郎と夕輝に訴えて来た。
悪さをしたり、勝手にいなくなったりしなければ、何もするつもりはないと伝えると、シロは強張った身体から力を抜いたようだった。しかし、「ところで、あいつはどこですか?」と辺りを挙動不審に窺い、最後まで警戒心を解かなかった。
あいつとは誰だと慶三郎が尋ねると、「はるとという、きょうあくなやつです」と声を潜めて答えたシロ。
「春人は凶悪じゃないよ。誤解はされやすいけど、根は真面目でいい奴だよ?」
そう笑いながら慶三郎が反論すると、シロはぶるぶると身体を震わせて、「とんでもない!」と返してきた。
「あいつに、よけいなことをはなせば、ただじゃすまないとおどされたんです! ううう……」
シロは大粒の涙をこぼしながら話した。その様子から春人がシロに口止めをしていたことが伝わる。
シロに都合の悪いことを知られたと報告を受けていなかったため、それが真実なのか慶三郎は気になった。逆にそれがシロの虚言だった場合、何を企んでいるのか興味を持った慶三郎は、とりあえずシロの話を聞いてみることにした。
「大丈夫だよ。春人は俺には逆らえないし、春人がシロに危害を加えないようにするから、何があったのか話してごらん?」
優しい声色で慶三郎が促すと、シロは怒り心頭な様子で、春人の悪事を声高に語りだした。
シロの恨み節があまりにも長いので、簡潔に要約すると、佳子が病気で寝ている間に春人が勝手に彼女の服を脱がしたことが分かった。しかも彼女が穿いていたタイツまで。
「本当に?」
「まあ!」
予想を遥かに超えた事を言われて、慶三郎は目を丸くした。となりで夕輝も同じような顔をしていた。
純情で真面目一徹な義弟が、意識がない無抵抗の女性のタイツを無断で脱がした――。
そんな面白い、いや淫らな行為を春人がしたなんて、慶三郎は全く信じられなかった。
本当のことだとしたら、義弟にも人並みに異性に対する好奇心が芽生えていたことに安心する一方、一体何を考えてタイツを脱がしたんだろうと、本人に突っ込みを入れたくて仕方がなかった。
「ほんとですよ! しかも、もっとゆるせないことをあいつはしたんです!」
「まだ何かしたの?」
慶三郎はシロの話す内容に若干引き気味になりながらも、一応尋ねた。
「そうなんですよ!! あいつときたら、よりにもよって、よしこさまに、じぶんのきたないくちびるを、かさねたんですよ!」
慶三郎はシロの言葉に驚き、そして次の瞬間には呆れて失笑した。
(春人がこともあろうに、調査対象である人物に、キスをしただと?)
親戚の里香があんなに熱心にアプローチをかけても、全然靡きもしない春人が、調査を指示するまで接点のなかった女に興味を持つとも思えなかった。
さらに、発覚したら捜査に支障が出る愚行を、わざわざ義弟が犯すまい。
シロは春人によって事故で傷つけられたと聞いていた。
そのために春人に恨みを抱いて、偽り言を述べてまで彼の品性を貶めようとしている恐れがあった。その可能性がある以上、この話を安易に信用できない。
「まあ、あいつも男だし、可愛い婚約者に手を出したくなっちゃたんじゃない?」
慶三郎はシロの証言を適当に聞き流そうとした。すると、慶三郎の言葉に「あのおとこが、こんやくしゃ!?」とシロが驚く。
「そうだよ、知らなかったのかな? 春人とシロの佳子様は婚約しているんだよ」
慶三郎は晴れやかな笑顔を作って、シロへ丁寧に説明した。心の中で偽装だけどね、と付け足したはいたが。
「そ、そうでしたか…。そうとはしらず、しつれいなたいどをとってしまったのですね……」
さっきまでの威勢はどこへやら、シロが急にしおらしい態度になって縮こまった。
春人が佳子の婚約者と知り、シロの怒りはどうやら収まったようだ。これで少しは、扱い易くなればいいが――と慶三郎は内心ぼやく。
それよりも、慶三郎の思考は、別のところに集中していた。
一上健一の死亡事故状況を普段から仲の良い警察の関係者に尋ねてみたところ、意外な事実が発覚したからだ。
里から続く山道は、勾配がきつく急なカーブが延々と続く。佳子の父の車は、その途中のガードレールを猛スピードで頭から突き破って、崖下へと転落したのだ。ところが、そのガードレールの手前には、一切ブレーキ痕がなかったとのこと。
下りの坂道を運転する時は、たいていアクセルでは無くて、ブレーキのペダルの上に常に足を置いておくものだ。
そのため、スピードの出し過ぎで事故が起きてしまっても、その直前にブレーキを咄嗟に踏んでしまうもの。
それが無かったと云うことは、自ら進んで崖から落ちて行ったのではという仮説が浮上する。
一上家の家計は苦しく、嫁の実家である分家に経済的に頼っている状況だった。そのため、もしかしたらそれを苦に亡くなったのかもしれないと、慶三郎に話してくれた人は締めくくっていた。
事故状況はその他に不審な点がなかったため、本人による運転ミスとして処理されたのだ。
(一上健一は自殺だったのか――?)
慶三郎の中に疑問が浮上した。
春人から聞いた佳子の話では、彼は亡くなる前に真吾を認知しようと行動していた。そんな人が突然自殺するだろうか。いや、そんなはずない――と慶三郎は強く確信する。
しかし、もし自殺で無いなら、健一は何故ブレーキを掛けずに事故を起こしたのだろうかと疑問が残る。それで慶三郎は気付いた。もしかしたら、佳子はその矛盾に気付いて、何か調べているのではないかと。
(佳子の父の死は、事故ではない――。)
”一上家は一の掟を破っている。”
健一の名前で出されたあの手紙を思い出して、慶三郎は無意識のうちに顎を手で擦っていた。
(佳子の行動の裏には、ひょっとしたら、とんでもないものが隠れているかもしれないな。)
家族が揃った夕飯の後に、慶三郎は春人の部屋を訪ねた。
慶三郎が声を掛けて戸を開けると、春人は何かを慌てて鞄に隠し、何事もなかったかのように居住まいを正して、慶三郎を出迎えた。
春人も若い男だ。恥ずかしくて家族に見られたくない物もあるだろうと、敢えて慶三郎はその不審な行動について追及しなかった。
「今日の報告をしてもらえないか?」
春人の部屋はいつも片付いて清掃も行き届いている。
慶三郎は畳の上に腰を下して胡坐をかきながら、春人からの言葉を待った。
春人からの簡潔な説明によると、佳子は再び体調を崩して、彼女からの聞き取りはあまり出来なかったようだ。
遺品の捜索をまだ継続しているところを見ると、目的の物は既に失われているか、人の目に触れにくい場所に保存されているのではないかと客観的に推測される。
それがどんな形で残っているのか、佳子本人にも分からない品物。単に彼女は父との思い出を探している様子ではない。
一体、彼女は何を探しているのか。この件に関して、それがとても重要な鍵なのかもしれないと、慶三郎は漠然と感じる。
「ところでさ、お前が彼女と婚約しているってシロに話したら、大人しくなって色々と手伝いをしてくれるようになったよ」
慶三郎がシロの話題を振ると、春人は合点がいった顔をした。
「そうだったんですか。それで先程台所にいたんですね。帰って来た時はびっくりしました。」
「従順で使いやすくなったよ。良かったな」
「ええ、そうですね。ところで、シロなんですが……」
「シロがなんだ?」
「私について何か変なことを言っていませんでしたか?」
「ああ、そのことか」
慶三郎はシロの偽計じみた証言を思い出して、可笑しくなった。
「シロが言っていたんだけど、彼女のタイツを脱がしてキスしたって本当?」
慶三郎が笑いながら冗談事のように問い質すと、春人は顔色を失い、硬直した。
☆佳子の黒タイツ事件☆
「春人と。」 の1話と6話にて佳子の服装の記述が書かれています。