春人に。 1
「おはようございます~」
木曜日にいつものように佳子が出勤すると、それに気づいた同僚が顔色を変えた。
「一上さん、酷い顔よ! 大丈夫?」
「ありがとうございます。何とか大丈夫です」
そう言った佳子の目の下には、しっかりと黒い隈が出来ていた。
昨日、蔵に行った佳子は、そこで新事実を発見してしまい、午前様になるまで調査していたのだ。
父の残した絵画は、ただの絵だと思っていたところ、実は具現の力が込められていたものがあったからだ。
今まで絵は捜査の対象外だったので、一見しただけで終わりだった。そのために、絵が描かれた紙自体に施された繊細な仕掛けに佳子は気付けなかった。
妖怪の絵に対する細工ならば、ただの修行用のものと思われるのだが、意外な事に人物の絵にも仕掛けがあった。
絵に描かれた人物の横に、その人の名前が描いてあり、その名前を読み上げると、その人間が現れた。
佳子の知らない人物の絵の他に、佳子自身の絵も沢山あった。子供の頃から父は佳子の絵を描いてくれたため、佳子の想像以上に蔵には残っていた。その佳子の絵にも施されていた細工。
(これには、何か意味があるのではないか――。)
証拠となる父の遺品が見つからない今、藁にも縋る気分で、佳子は全ての絵を調べてみることにした。そのため、絵を開いては、具現化して中身を確認するという作業を延々と繰り返していた。
調査は途中であるが、調査済みの物は全て無関係な物ばかり。残念ながら何か手がかりを得られそうな気配はない。収穫は目の下の隈と、寝不足で朦朧とする頭だけであった。
結局、春人へ送る修行用の手紙は、全くの手付かずとなってしまった。今日も帰宅したら、すぐに調査を続けるつもりであり、彼の約束を果たせそうにない。
約束を破ることに罪悪感はあったが、佳子は自身の都合を優先した。
まだ約束までに時間はある。前日の土曜日に春人への手紙は作成して、それを日曜日に直接手渡しすれば、何とか体裁を取り繕えるかも――。そう自分の都合の良いように佳子は予定を決める。
ところが、週の半ばから夜中に無理をしたせいか、佳子は再び体調を崩してしまう。喉が痛く、咳が出る。いつもの症状である。
そんなに頻繁に休めない状況だったので、無理を押して出勤したところ、休みを目前にした土曜日の就業後には、発熱して体調不良に見舞われる。
佳子は帰宅すると、そのままベッドに倒れるように横たわって、意識を失うように寝てしまった。
そのため、夜に鳴り響く、電話の呼び出し音に佳子が気付くはずもなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
玄関の呼び鈴で、佳子は目が覚めた。
窓から漏れる陽の光から、既に夜が明けていて日付が変わっていることに気付く。そういえば――と佳子はすぐに思い出す。日曜日は春人が来る約束をしていた。
慌てて玄関まで行って出迎えると、案の定、一週間ぶりに見る美貌の持ち主の春人が暗い表情で立っていた。佳子が作った妖怪に殺されそうになったと電話で言っていたが、姿を見る限り先週会った時と変わりが無い。
彼は片手に大きな紙袋を提げている。先週、料理はもう結構ですと断ったのに、もしかしたら春人は用意してしまったのだと思われた。
「あの、おはようございます……。お邪魔しても、よろしいでしょうか?」
春人は遠慮がちにこちらの様子を窺がっていた。
佳子は長時間寝たお陰で少しは体調が良くなっていたが、まだ本調子ではなかったため、春人のいつもと違った様子にまで気を回す余裕がなかった。
「ゴホゴホ。おはようございます。どうぞおあがりください。すいません、こんな格好で……」
佳子は昨日の格好のまま寝てしまったので、皺だらけの洋服を着ている状況である。沢山寝汗をかき、さらに昨日は風呂に入らなかったので、近くに来られたら、臭うかもしれない。前回を上回る自分の惨状に気付いて、急に佳子は春人の前にいるのが恥ずかしくなり、俯いて縮こまった。
靴を脱いで玄関から上がる春人を確認した後、佳子は彼に背を向けて先頭を歩く。彼を居間まで案内したら、そこで待ってもらって、洗面くらいしたいなぁと考えていた。その時、佳子は自分のすぐ背後に気配を感じたと思ったら、後ろから急に抱きしめられた。
背中に感じる体温と、身体に回される逞しい両腕によって、佳子の心臓を鷲掴みにされた気分になる。
「佳子さん、会いたかったです」
春人の切なげな声が、佳子の耳のすぐ側から響く。佳子の脊髄を痺れさせるような彼の低い声色。
「あああああああ、あの……」
春人の不意打ちの行動に、佳子の頭はパニックになったが、ある事実を思い出して、すぐに我に返った。
「私に近づいては駄目です!」
佳子は春人の腕から何とか抜け出しながら、そう叫んだ。
「どうしてですか?」
佳子の言動から春人は自身を拒絶されたと思ったのか、春人が悲しそうな表情で尋ねてきた。
「実は、私、ゲホゲホ。昨日、風呂に入ってないんで、きっと臭うと思って。昨日熱を出して寝込んでしまって、まだ体調も悪くて。せっかく来ていただいたのに、申し訳ないんですが……」
恥ずかしい気持ちがあったが、佳子は正直に事情を話した。今日は体調不良のために長く相手できそうにもなかったため、早く帰っていただいた方が良いと考えたからだ。そのため、そのように話を続けようとした矢先、春人がそれを遮る様に「熱があるんですか!?」と驚きの声を上げた。
「ええ、実はそうなんです」
佳子が春人の言葉に相槌を打つと、素早い動きで彼に抱き上げられた。
所謂お姫様抱っこというものを説明も無しにいきなりされてしまった佳子。突然のことに驚いて動揺してしまい、「ちょ、ちょっと!」と慌てて佳子は抗議した。
ところが、そんな佳子の様子を意に介さない春人は、足早に廊下から居間へと勝手知ったると云った感じで移動していく。
何故自分がそのようなことをされるのか、佳子は理解できないうちに自室へと運ばれて、ベッドの上に寝かされた。しかも、春人の端正な顔が佳子のものへと近づいてきて、彼の掌が佳子の額に触れる。顔同士があまりにも至近距離なので、佳子は緊張して思わず息を止めてしまう。春人の瞳を間近で見つめて、春人の長い睫毛に佳子は初めて気付く。
「本当に熱がありますね。今日は一日私が看病しますので、休んでいてくださいね」
春人はそう真面目な表情で言いながら、佳子から身体を離すと、佳子の身体の上へ丁寧に布団をしっかり肩まで掛けてくれた。
(えっ、それって決定事項なの――!?)
佳子が何か反論する前に、春人は忙しない動作で部屋から出て行く。
きっと佳子が遠慮しても、何だかんだと理由をつけて、彼は面倒を看ると言い張るだろう。そんな彼とのやり取りが、想像するだけで目に浮かび、佳子は思わず苦笑した。
佳子が何気なく部屋の壁時計を見ると、針は九時を指していた。前回に引き続き、早い彼の到着である。
体調が悪かったとは云え、昨日のうちに春人に電話していれば、今日の約束を断ることが出来たはずなのに。
約束していた修行用の手紙すら、作っていない。
(優柔で自分勝手な態度は、春人を傷つけるだけなのに――。)
佳子は重いため息をそっとついた。