過ぎたるは
佳子は朝から頭痛に悩まされていた。所謂、二日酔いである。
昨日の夜、如月が持参してくれたお酒を飲み過ぎたのが原因だ。
いつも飲むビールや酎杯のようなアルコールが低いお酒と同じペースで、それよりも明らかにアルコールが高いワインなどを飲んでしまったのだ。
飲み口が良いとはいえ、度数に注意すべきだった。
お酒を嗜み始めた時期も数カ月前だったため、正直に云えば、酒の飲み方に慣れていなかった。
さらに、寝起きからの趣味の悪い如月の悪戯にも、頭が痛かった。
彼から「昨晩は素敵な夜だったね」と紛らわしいことを言われて彼の奸計に嵌まり、すっかり佳子は誤解してしまったのだ。
冷静に考えれば、昨晩と同じ格好をしていて寝ていて、脱がされた形跡もなかったので、如月が何もしなかったのは明確だった。しかし、寝起きの頭はそこまで察しが良くなかった。
自分の絶叫が、皮肉にも二日酔いの頭に響いて、佳子は二重苦だった。
いつものように揶揄われて、おもちゃにされて、恥ずかしさの余りに身の置き所もなかった。けれども、酩酊してしまった佳子を心配して、傍で見守ってくれたのは、とても嬉しかった。
あれも佳子の失敗を有耶無耶にしてくれようとした、如月なりの優しさの一種なのかもしれない。しかし、正直なところ、分かりにくいものであるので、止めて欲しいとつくづく佳子は思う。
しかし、これを機に、如月のことを不必要に警戒するのは、止めようと思った。
悪戯が少しばかり過ぎても、彼は親切な妖怪だ。鬼とはいえ、非道だったのは恐らく昔のことだろう。今は人間たちと一緒に紛れて暮らし、何も問題を起こさずに生活をしているのだ。過去に何があったとしても、きっと彼は改心して穏やかな気性になったのに違いない。佳子も勇気を出して変われたのだ。きっと彼も良い方向に変わったのだと。
激流の中で硬くて粗い岩同士がぶつかり合い、長い年月を掛けて、角が削り取られて丸く滑らかになるように――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日の夜に、春人から電話が掛かってきた。
佳子が郵送した手紙が届いたので、さっそく修行用に使ってと報告してくれた。
緊張しながら佳子が感想を訊いてみると、『それが――』と春人はとても歯切れ悪く語りだした。
『佳子さんの作品はとても素晴らしかったのですが、その、とても強過ぎて……』
「じゃあ、春人さんのリクエストには、ちゃんと応えられたんですね」
春人の要望は、”一上家の当主としての実力を思う存分発揮した超難関の敵を作って欲しいんです”というものだった。そのため、佳子の知る限り一番巨大な竜の妖怪を模して創り上げたのだ。
何人たりとも倒せないように、かなり気合を入れて作ったので、簡単にクリアされてしまっては、元も子もない。
強いと評されて、佳子は安堵した。
『はい、そうなのですが……』
ところが、春人は言い淀んで、先を続けない。
「何か都合が悪かったのでしょうか?」
佳子が心配して尋ねてみると、『はい、実は……』とようやく春人が語り始めた。
『先程も話した通り、強過ぎて。正直、修行どころではなくて、死にそうだったんです』
「え?」
死にそうだなんて大げさな――、と佳子が思ったところ、春人は更に話を続ける。
『ビル三階建くらいの巨大な竜が現れたと思ったら、目にも留まらぬ速さで竜の尻尾を喰らって、私は吹き飛ばされてしまい、私の背後にあった木を何本も倒して、やっと動きが止まったような有様で……。その後に体当たり攻撃で押し潰されたり、口で噛み砕かれそうになったり、捕獲されて高いところから落とされたりと、物理攻撃を色々と受けまして……。しかも竜の身体がパチパチと音を立てて電気を纏い始めたので、もしかして雷攻撃が来るのかと思い、流石に感電だけはどうにも防ぎようがなくて、その、申し訳ないのですが、せっかく頂いた手紙を破ってしまったのです』
修行用に作ったあの便せんを破けば、創られた生き物は力の拠り所を失くして、瞬く間に消えうせる。
春人が行ったのは、緊急の停止方法である。
強敵を作らなくては――、その一心で創り上げた作品だったが、実際に使う人間がどんな目に遭うのか、佳子は結果をあまり想像していなかった。
「春人さんは怪我なさらなかったんですか? だ、大丈夫だったんですか?」
嫌な予感が、佳子の胸中をよぎる。
先程聞いた春人の話をそのまま信じるならば、とんでもない衝撃が春人を襲ったはずだ。無事では済むまい。
何故彼が現在普通に電話で会話しているのか、とても不思議なくらいだ。
電話の向こうでは、もしかしたら頭だけは無事で、全身はミイラ姿になっているのではないだろうか。
『はい、大丈夫です。頑丈なのが取り柄なので』と春人は言い切った。
頑丈で済む話なのだろうか、と佳子は一瞬疑問に思ったが、それが彼の特殊能力なのかもしれないと、すぐに気付く。
奉納試合で、春人は人離れした俊敏な動きを見せていた。
『ですから、今度はもう少し、弱い敵を作ってもらえないでしょうか。せっかく特殊攻撃まで付けていただいたんですが、対応できないので外していただけますか? わがままばかり言って申し訳ないんですが……』
「はい、分かりました。こちらこそ、色々と申し訳ありませんでした。」
『いえ、佳子さんが謝る必要はありません。私が佳子さんを見くびっていたのが悪かったんです。お手数ですが、よろしくお願いします。次回も楽しみにしていますので……』
「はい、春人さんが日曜日にいらっしゃる前には届く様に作りますね」
『ありがとうございます。ところで、その、日曜日の件ですが……』
「はい、どうかしましたか?」
『本当にそちらにお邪魔してもよろしいのでしょうか?』
春人にそう問われて、佳子は答えに詰まる。この間の日曜日に、強引に会う約束を取り付けたのは、春人の方だ。
けれども、今更になって、佳子の気持ちを慮るようになり、春人は躊躇しだしたのだろうか。ここで佳子が春人のことを歓迎しない台詞を言えば、自分に好意を持つ彼は傷ついて諦め、自分と距離を置くようになるかもしれない。そう考えて――、佳子は瞬時にそれが嫌だと思ってしまい、気持ちが重くなる。
「友人としてなら、遊びに来ていただくのは大歓迎ですよ」
佳子は自分の心を鬼にして、春人との関係に線引きをした物言いを敢えて選んだ。
春人は何も返答せずに、しばらく無言だったが、会話を再開したのは彼の方だった。
『そういえば、シロの件なんですが、だいぶ怪我の具合が良くなったみたいなので、今度の土曜日に妖怪の専門家から五月家に引き取って、予後を見守りたいと思います』
「そうなんですか! シロのこと、これからもよろしくお願いします。シロに会ったら、帰ってくるのを楽しみにしているとお伝えください」
『はい、お任せください』
春人との会話は、ここまでだった。後は、お決まりの別れの挨拶をして、電話を切った。
(さて、これから修行用の妖怪を考えなければ。)
しかし、自分の台詞のせいで、無言になった春人のことが気になってしまい、佳子は作品の案がなかなか思い浮かばず、何も手につかない。
(そういえば、何か参考になるものは、ないかしら――。)
遺品を捜索していた時に、父の描いた絵が蔵に沢山あったのを佳子は思い出す。父は趣味で絵を描いていたので、作品は色々残っていて、その中に妖怪の絵もあった気がした。
ちょうど気分転換をしたい頃合いだったので、すでに辺りは暗い時間帯だったが、蔵に行こうと思い立つ。佳子は一枚上着を羽織ると、懐中電灯と蔵の鍵を手に屋外へ出た。
懐中電灯の明かりを頼りに、母屋の目の前にある庭から石畳を通っていくと、その先に古い蔵が建っていた。女中に家のことを任せていた佳子は、捜索を始めるまで蔵に立ち入ったことが無かった。
慣れない手つきで蔵の扉に掛かっている南京錠を解錠すると、金具が軋む音を立てて、ゆっくりと扉が開いた。




