如月の回想 佳子の父 1
如月は佳子の家を後にして、迎えに来た加藤の運転する車に乗っていた。
「今日はご機嫌ですね」
加藤が珍しく如月に質問してきた。いつも彼は無駄口を叩かず、世間話すら二人の間には不要だったからだ。
「まあね」
如月可笑しそうに話すだけで、詳細は語らなかった。加藤に話しても、賛同が得られる内容ではなかったからだ。
再び沈黙が訪れると、如月がこれ以上話す気がないと察して、加藤はそれ以上追及して来なかった。
そういう彼の気遣いが、如月が彼を気に入る理由の一つである。
朝の佳子の反応や表情は、可愛らしくて堪らなかった。
酔っ払って意識の無い女に手を出すなど、風情の欠片の無いことはしない主義だった如月だったため、朝まで側にいただけだった。夜が明けて眠りが浅くなった彼女に気が付き、寝起きの彼女を驚かそうと、こっそりと彼女の布団に入り、結果は言わずもなが。
酔っ払った挙句に自分と関係を持ったと、佳子は盛大に誤解してくれて、絶叫していた。
あの慌てっぷりは、予想していたとはいえ、如月を大いに楽しませてくれた。
混乱する佳子に、同衾している事情の説明を如月は求められた。
佳子の体調が急変して意識がないまま吐いたら大変だったから、一人にしておけなくて帰れなかった。しかも、勝手に自分用の布団などを用意できなかったため、佳子の横にお邪魔していただけだと、如月はもっともらしく説明した。
それを聞いた佳子は、警戒していた態度を激変させて、自分の気遣いに恐縮しながら感謝し始めた。
如月に見守られながら、意識がなく無防備なまま一夜を明かした佳子は、恐らく自分への信頼度を大幅に上昇させたはずだ。
出会いが出会いなだけに、彼女の警戒を緩めるのは、人一倍神経を使った。さらに、鬼である自分に関心を持ってもらうために、いつも言葉を選んだ。
異性として意識させたいが、あまり近づき過ぎると、距離を置かれる可能性がある。
彼女は異性との交際経験がない。そのため、進展はゆっくりと焦らない方が確実だと考えていた。進展が急過ぎると、人外という存在というだけで、拒絶される恐れがある。今は信頼できる人物だと、より思わせた方が得策だ。
まあ、こっそり唇を味見してしまったが、ベッドまでの運び賃と付き添い代と考えるならば、悪くない報酬だろうとほくそ笑む。誰にも見られていなかったので、黙っていればばれることはない。
(彼女は、特別だ。そう簡単に、手折っていい存在ではない――。)
如月がもたらした朗報に満面の笑みを浮かべた彼女。その彼女の喜びを傍で感じて、自分まで欣幸の至りだった。
彼女の感情の波は、人外である自分の精神にまで影響を与える。彼女に対して、ついご機嫌をとるような行為をしてしまうのは、そういった理由だった。それを不快に感じず、むしろ彼女から与えられる心地よい気分は、何物にも代えがたい。
(それに加えて――。)
如月は、別れ際の佳子の様子を思い出して、口許が綻む。彼女はいつもより優しい眼差しで、如月を見ていた気がした。「またね」と、次の逢瀬を期待した言葉を口にした唇が、彼女の姿が、如月の脳裏に焼けついていた。
お酒を勧めて、どんどん飲ませて潰させた甲斐があったものだと如月は感じる。
佳子を手に入れるための周到な準備は、今のところは目立った失敗をしていないため、順調である。
あとは、佳子の本懐を遂げさせるだけ。しかし、佳子は、未だ目的のものを探し出せていなかった。
敷地内にある古い蔵の中も探してみたそうだが、そこにもなかったと言っていた。
人目に簡単につくと都合の悪い品物は、どこかに隠しているのではないか――。そのようにアドバイスしてみたが、彼女は思いつくところがないらしく、困惑していた。
万が一、何も見つけ出せなかった場合、父殺しの罪を告白させるだけの勝算があるとは、あまり言えない。
新たな証拠を探す方法を考えなかった訳ではないが、困難が予想されたため、実行に移してなかった。
一上家の分家は外部の人間を入れないため、間諜を潜り込ませられない。さらに、一族の人間の行動を一人一人見張るのは、無理があった。
そのためには、佳子の探索に全てがかかっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
廃墟と化した洋館で、舟子の仕業によって、絵の中に吸い込まれた自分と彼女。
気付くと、自分たちは一艘の木製の小舟に乗って、腰を下していた。
目の前に広がるのは、先の視界を遮る白い靄。辛うじて、揺れる水面が目下に見えた。
自分には何度か目の体験だったが、初めての彼女には刺激が大きいものだったようで、側にいる彼女を見ると、顔色を悪くして、辺りを見回していた。
舟は大きな川に流されている。
船尾で舟子が舵を握って立っていた。
「さて、彼女の時の流れを遡ってみるか」
舟子は手にした舵を動かすと、急に周りの靄が薄れて、視界が開けてきた。
しかし、次第に意識が遠のいていき、代わりに脳内に直接映像が流れ込んでくる。
彼女のこれまでの生き様が、現在から過去へと再生されていく。
だんだんと幼くなっていく彼女。
ついに彼女は赤子となって、消えてしまったと思うと、真っ暗になった。
暗闇から小さな光が射しこみ、その光が大きくなってきたかと思うと、見知らぬ男が現れた。
良く見ると、その男は彼女と面影が似ている。もしかして、この男が彼女の父親か。
男は大きな屋敷の中にいた。
落ち着いた雰囲気の和室で、男は正座で畏まった様子で、和服姿の老年の男と二人きりで対面していた。
上座には胡坐をした老年の男がいて、下座には男がいる。
「やはり、健一さんの仕事は完璧だねぇ。依頼人の希望通りの死亡現場となって、疑われもしなかったようだよ」
「そうですか」
「次も頼むよ」
老人は健一と呼んだ男の手前の畳の上に、僅かに膨らんだ定形サイズ程の封筒を差し出して置いた。
健一はそれを緩慢な動きで受け取ると、その部屋を出てゆき、渡り廊下を歩いて行って、離れへと向かう。そこに入ると、先程受け取った封筒の中身を取り出していた。
中から出てきたのは、万札の紙幣の束である。健一はそれを見つめながら顔を歪めると、部屋の隅に置かれていた旅行鞄の中に仕舞い込んだ。
それから、健一は屋敷内を散策する。
健一が目的もなく庭を歩いていると、すぐ先方から子供の声が聞こえてきて、何事かと近づいて行く。
そこには中庭で遊ぶ二人の幼い女の子たちの姿があった。その賑やかな様子に健一は足を止めて見入った。
どうやら、木の上に女の子たちが遊んでいたボールが飛んでしまい、取れなくなって困っている様子だ。
その子たちは、現れた健一を見て、「お父さん!」と呼んだが、すぐに別人だと気付いたのか、「ごめんなさい、間違えました」と謝っていた。
健一は具現の力を使って、長い棒のようなものを作り出すと、樹上からボールを落としてあげた。そして、そのボールを健一は拾うと、優しげな笑みを浮かべて子供たちへと近づいて、それを返した。
「僕はお父さんに似ていた?」
「うん、そっくり!!」
「おじさんの方が、年を取っているけど」
子供たちは、臆することなく健一の問いにしっかりと答えていた。すると、そこへ一人の男が現れた。
「すいません、うちの娘たちがお世話になったようで……」
その男は慌てて子供の側へ寄って来て、健一に声を掛けてきた。愛想笑いを浮かべていた男だったが、近くで健一の顔を認識すると、すぐに顔色を変えた。
同じように健一も男の顔を見て、驚愕の表情を浮かべる。
「君は……」
二人の男は、互いの顔を見て、声を失っていた。何しろ、二人は同じ顔をしていたからである。